最終話 だけど大事な事を忘れてるね、あんたは

猛威を振るった嵐がまるで幻であったかのように、翌日の空は快晴と呼ぶに相応しい青を誇った。まるで荒れるための方法をすっかり忘れてしまったかのように、海も平穏を取り戻している。だが嵐の残滓は要所に見られた。海辺には家具や調理道具などの生活用品が打ち上げられていて、流木も何本か見受けられる。それらには痛々しく修復し難い傷が刻まれていた。海辺からは見えないが、溺れ丘にも海水の池が痕跡として残っているのだろう。唐木田恭介は腕時計を確認する。午前十時。船は定刻通り現れた。


唐木田はトートバッグを提げて船着場に立っていた。疲労と消耗はまだ色濃く、体調は優れなかったが、少しでも早く島を離れたかった。嵐の中での出来事を整理するにはまだ時間が必要で、本島に戻った方が捗るに違いないと唐木田は思った。顔はひどく青白く、やつれている。まぶたは赤くなって腫れていた。その容貌を隠そうと亜衣の麦藁帽子を探したが、残念ながらどこにも見当たらなかった。


見送りはいない。瓦町さんは唐木田が今日出発する事を知らないし、間野キミは藤原宇堂の遺体を処理するのに忙しいようだった。彼らは旧知の仲らしく、埋葬は彼女が責任をもって行うという事だった。


唐木田はトートバッグから一通の封筒を取り出す。その真っ黒い封筒は、見送りの代わりにと老婆から直接渡されたものだった。唐木田は背後を振り返り、円錐形の島を一望し、また振り返って大海原と対峙する。彼は封をしたままの封筒を真っ二つに破って、両手の中で丸め、海に向かって思い切り投げ捨てた。逡巡はなかった。かつて手紙だった紙片はしばらく海上を漂っていたが、やがて波に呑まれて手の届かない深くへと沈んでいった。唐木田はそれを見届けてから踵を返す。若い船員と目が合った。


「お客さん、乗るの、乗らないの?」と、彼は不安定な桟橋の上で問うた。

「いま行きます」と、唐木田は声を張った。それから意識して口の端を吊り上げてみる。だが彼の意図は伝わらなかったようで、船員は首を傾げていた。笑みを浮かべたつもりだったのだが、意外に難しい、と唐木田は思った。砂浜を歩き、桟橋を渡り、船に乗り込む。エンジンの駆動音が聞こえ、足下から振動が伝わってくる。汽笛が上がる。志気を上げるにはあまりにも似つかわしくないな、と思った。




十八歳を迎えた唐木田は、一ヶ月ぶりに教室の扉を開ける。島での思い出を最後に、長かった夏期休業は終わりを告げ、二学期が始まる。自分の机につくなり、教室の騒ぎに対して違和感を得た。はじめは二学期初日だから浮かれているのだろうと思っていたが、時折耳に届く彼らの話題が、それがどうやら的外れであるらしい事を唐木田に知らせた。


「みんなは何を騒いでるんだろう」と、唐木田はクラスメイトの一人に訊ねた。だが、彼が返答を寄越す前に始業を告げるチャイムが鳴った。次の休み時間に改めて聞いてみようと思った。


教室前方の引き戸を開けて、担任の教師が入室する。担任の町田みい子は背筋を伸ばした毅然とした態度でハイヒールを鳴らし、それが一月前と全く変わっていなかった事に唐木田は感心する。しかし、その感心は瞬時に霧散した。彼女の後に続いて教室に入室する少女がいた。教室を席巻していた話題は彼女によるものだろう。彼女は染めた事のない肩までの黒髪を揺らせて、教壇の前に立つ。目にかからない程度に切り揃えられた、僅かにくせのついた前髪。厳しさよりは優しさを感じさせるような、なだらかな放物線を描く眉。はっきりと開かれた目は丸く、長い睫毛がそれを印象付ける。口元に小さなほくろがある。鼻は小さく薄いが、却ってそれが彼女の容貌を整えている。そして何より、その顔は唐木田恭介のよく知る少女のそれだった。


彼女はチョークを持って、一文字ずつを確認するように、丁寧に黒板に自分の名前を書いた。


「間野みい子です」と言って、彼女――間野みい子は頭を垂れた。「よろしくお願いします」


転入生と担任の名前とが同じである事に、クラス中がどよめく。唐木田は苦笑する。


まさかまだ根に持っているのだろうか、と思った。担任の教師は、静かにするようにと口を尖らせ、続いて転入生に席を指定した。だが彼女はその指示を聞き入れず、唐木田の机の前まで歩いてきた。唐木田が見上げると、間野みい子は屈託のない笑みを浮かべて、スカートのポケットからしわくちゃの封筒を取り出した。真ん中から破られた部分をテープで補修されたそれを、唐木田は受け取る。封を開けると、いつもより多少大きい紙片が顔を出す。そこには達人も思わずうなるような達筆で、あるいは現代かな使いに進化したばかりの象形文字で、


『怒っただろう。哀しんだだろう。だけど大事な事を忘れてるね、あんたは』


と、記してあった。唐木田はそれを三回読み返してから封筒に戻し、顔を上げた。


「ありがとう。大切にするよ」そう言って、唐木田は笑みを浮かべた。



<了>


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