第11話 あんたが真っ黒な封筒を受け取ってからの二日間で起きた、全ての出来事の総仕上げだ

右頬と左頬へ交互に走る刺激によって、唐木田は意識を取り戻した。ゆっくりと目を開けるが、間近に障害物が迫っていて、それに焦点を合わせるのに数秒の時間を要した。段々と思考が鮮明になってくると、目と鼻の先にあるものが老婆の顔であるとわかった。ヘルメットとゴーグルを装備した彼女は、豪雨と雷光を背景にして叫びを上げていた。その頃になって、唐木田の耳はようやく正常なはたらきを取り戻した。


「起きな唐木田! 呑気に寝てんじゃないよ!」


唾を散らして叫ぶ間野キミは、倒れていた唐木田を抱き起こして頬を張っていた。唐木田はこれ以上叩かれないように両手で頬を押さえて、上半身を起こした。

彼の全身は泥水に塗れて、冷え切っていた。手足の感覚はもうほとんどない。頬を押さえた手応えだって感じる事は出来なかった。地面に手をつくが、泥の冷たさもわからない。額に張り付く前髪を掻き分けて空を仰ぐと、バケツどころか海を逆さにしたような豪雨と、世界中の障子を引き裂いたような激しい雷鳴が降り注いでいた。


魅入られたようにその様子を見上げる唐木田の頬を、遠慮容赦のない老婆の平手が打った。彼女は目を見開いていたが、三日月形の笑みを浮かべてはいなかった。


「何を呆けてるんだね唐木田! 話しな! 何があった!」

「間野さん、どうして、ここに?」と、疑問を発する唐木田の頬へ、再び平手が走る。

「質問してるのはあたしさ! 何があった! 亜衣は何処だい!」


唐木田は弾かれたように立ち上がる。周囲をぐるりと見渡すが、見えるのは老婆のハーレー・ダビットソンと豪雨でしなる枝葉ばかりで、城戸亜衣の姿はなかった。彼の頬を伝ったのは、雨粒ではなく脂汗だった。一際眩しい稲妻が走り、すぐ近くで轟音が鳴り響く。直撃を受けたらしい大木が、その身を真っ二つにして倒れ、沈み込んでいく。代わりに浮上したのは唐木田の記憶だった。


「僕は、彼女を」と、呟くが、それ以上は言葉にならなかった。だがその黙秘を、老婆が許そうはずもなかった。彼女は唐木田と対峙し、目を合わせる。唐木田が眼を背けようとすると、両頬を固定された。老齢の細腕とは信じ難い力が篭もっていた。このまま黙っていれば、彼女はそれこそ林檎を潰すようにして唐木田の頭蓋を砕くかもしれない。


唐木田は強く目を閉じる。それは否定のためではなく、躊躇を払い落とすための行為だった。


「藤原宇堂さんに手紙を届けたあと、僕らは島山羊に遭いました。配達の後だったから襲われはしなかったけれど、僕は彼から、多分、無数の手紙を奪いました」

「奪った?」と、老婆が首をひねる。

「島山羊の目に刻まれた文字を奪い取ったんです。そうしたら、島山羊は色を失って帰っていきました」唐木田は一度、大きく息をついた。「安心したのも束の間で、その後すぐに、僕は彼女を襲いました。それは純水に意識的な行為で、でも同時に無意識下での行為だったような気がします」


腹中の存在については省略した。唐木田はそれを表現する術を持たなかった。


「その後は?」と、老婆は随分長い時間を沈黙に費やしてから言った。唐木田は老婆の額に視線を置いていた。それが卑怯な事であると承知していながらも、孫娘を襲った男に向ける祖母の視線というものを、どうしても見返す事が出来なかった。


「幸い、と僕が言っていいのかわからないけれど、彼女はすぐに僕から逃げていきました」唐木田は夢で見た映像を思い出す。ただの夢だと一笑に伏すには、あれは生々しいまでの現実感を持ち過ぎていた。「いまは多分、藤原宇堂さんのところです」

「よりによって、あのじじいのところかい」と、彼女は舌打ちする。それから唐木田を乱暴に突き放した。唐木田はたたらを踏む。「全く、とんだ狼がいたもんだね」

「でも、言い訳になるけれど、僕の目的は、そういうものじゃなかったような気がするんです」


その感覚を正確に言語に置き換えるのは難しかった。筆舌に尽くしがたいとでも言うべきか、安易に口にすれば、それは誤解を招く事態になりかねなかった。唐木田は奥歯を噛む。焦りと苛立ちが、自然と彼にそうさせていた。


「僕が求めたのは、彼女の身体とか、そういうんじゃなかったはずなんです」

「求めた?」と、老婆はおうむ返しに訊ねる。眉根を寄せ、顎に手を当てて思考に没頭していた彼女だが、やがて唐木田の返答を聞かないうちに、目を丸くして三日月形の笑みを浮かべた。「成程。そういう事かい」


間野キミは一人で得心すると、颯爽と歩き出し、停車していたハーレー・ダビットソンに跨った。鍵を差し込み、エンジンを起動する。メーター類を覆っていた水滴を払拭する。ハンドルグリップを握ると同時、鬼の心臓が鼓動を打ち始めた。

様子を静観している唐木田に、彼女は檄を飛ばした。


「何を木偶みたいに突っ立ってるんだい唐木田。早く乗りな」


老婆は突き出した親指で座席の後部を指し示す。唐木田は老婆の口調が急変した事に虚をつかれて、すぐには動けなかった。だが老婆が三日月形の笑みで「置いてくぞ」と続けると、慌てて我を取り戻して後部に跨った。

老婆は胸ポケットから煙草を取り出す。すっかり湿気てしまったそれに、彼女は当たり前のように火をつけた。全身を打つ雨を歯牙にもかけず、彼女は天に向かってうまそうに紫煙を吐き出した。


「ご覧よ唐木田。嵐だ。文句のつけようもない嵐だ。そしてこの嵐の本質こそが、あんたの好機なのさ。いいかい唐木田、覚悟しときな。ここがまさに好機の渦中だ」

「ここが」と、唐木田が口を開きかけたところで、老婆が即座に口を挟む。

「喋ったらいけないよ唐木田。これから行く道は悪路の中の悪路だ。舌噛むよ。それから頭低くしときな。ヘルメットはないから、枝に引っ掛かったら首持っていかれるよ」


唐木田は慌てて口をつぐみ、姿勢を低くした。老婆がアクセルを操作する。ハーレー・ダビットソンは果敢にも道なき山中に躍り出た。遥か上空からの怒号に抗うようにして、鬼の鼓動は早鐘を打つ。間野キミは最短距離を選んで藤原宇堂の家を目指す。張り出した幾本もの枝が行く手を阻んだが、それに傾注する事もなく彼女は突き進んだ。背後の唐木田は凍てつくような寒さに身体を震わせていた。全身隈なく塗れた身を、走行による疾風が襲った。感覚を失った手は老婆の腰に回しているはずだが、唐木田には確証が持てなかった。彼は視線をハーレー・ダビットソンの進行方向に固定していた。老婆の背中越しに、その先にあるはずのものを見据える。一時たりとも目を放さなかった。


ハーレー・ダビットソンは驚嘆すべき速さで溺れ丘の目前まで背中の主を送り届けた。だがそこで急停止する。唐木田は身を乗り出し、その光景に唖然とした。先程まで続いていた塩の道は完全に浸水していた。溺れ丘は、その名の由来となった過去を完全に再現していた。山の斜面と丘との間には激流が走り、海水に遮断された距離は四十メートル以上あった。目の前で、腐っていた倒木があっという間に押し流されていった。唐木田と間野キミは二輪車から降りて、流れの縁に立つ。眼下を見下ろすも、流れが速すぎて底が見えず、どれだけの水深なのかはわからない。


「お婆ちゃん!」


暴風と海流と雷鳴の間を縫って、少女の声が二人の耳朶を打った。打てば響くように、二人は顔を上げる。溺れ丘の上に、城戸亜衣の姿はあった。彼女も唐木田と同じように衰弱しているようで、木の幹にもたれかかってぐったりとしていた。だが彼女と一緒にいたはずの藤原宇堂の姿は見えない。夢で島山羊の鳴き声を聞いたが、その姿もなかった。俺は北に移住する気はねえし、手紙を捨てる気もねえと、藤原宇堂は言った。その宣言を彼が遵守したのだとすれば、生存している確率は決して高くはなかった。


いまは亜衣を救出することが最優先だ、と唐木田は確認する。彼女は二人の姿を見ても木に背中を預けたままだった。もう一歩も動けないのかもしれない。嵐が収まるまで救出を待つという選択肢はなかった。足元を見ると、水かさはまだ増していた。彼女の立つ丘はやがて激流に飲み込まれる。


「さあ正念場だよ唐木田」と、間野キミは溺れ丘を睨んだまま言った。「あんたが真っ黒な封筒を受け取ってからの二日間で起きた、全ての出来事の総仕上げだ」


唐木田は老婆を見る。老婆は唐木田を見なかった。その横顔は何も語ってはくれない。亜衣はもう叫びを上げなかった。だから唐木田には、自分で決める必要があった。好機の最中にあるこの状況下で、決断する必要があった。


遠くで待つ城戸亜衣を見て、彼女と唐木田とを隔絶するうねりを見る。唐木田は拳を握る。寒さで硬直した骨が軋みを上げ、拳を作るのにさえ数秒を要した。僕に出来るだろうか、と自問する。体温を失った、いまにも崩れ落ちそうなこの身体で。考え出すと、際限のない想像が脳裏に渦を巻いた。だから唐木田は頭を振ってそれらを一掃する。一度頭を空白にして、もっと直面する事態をシンプルに考える。唐木田が助けなければ、城戸亜衣は失われる。簡単な事だ、と唐木田は思った。その価値観のシステムは、三十二匹の猫の介在などなくても、唐木田恭介一人で完結した。唐木田は大きく息を吸い込む。意を決する。次の瞬間、唐木田恭介は激流の中に飛び込んでいた。

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