第10話 わかってる。わかってるんだよ、そんな事は。何もかも承知の上さ、畜生

それはひどく現実味を伴った夢だった。左右から迫る暴風に翻弄されながら走る夢だ。豪雨に打たれて体温が失われていき、末端から感覚が麻痺していった。道を阻むように突き出した枝に身を裂かれ、痛みが増していった。それらに霧のような曖昧さはなく、現実の、確固とした存在感を伴っていた。だがそれは間違いなく夢だった。なぜならば、唐木田恭介は城戸亜衣の視線を得ていたからだ。彼は亜衣の行動を、文字通り亜衣と同じ視線に立って見ていた。だからそれが夢である事に間違いはない。


彼女の向かった先は、彼女の宣言の通り藤原宇堂の家だった。真っ直ぐに彼の家までたどり着けたのは僥倖と言えた。何せ無我夢中で走り続け、方向はだいたいの見当をつけて己の勘に従ったに過ぎないのだ。山の斜面から溺れ丘を見下ろした段階では、彼の家に異常は見受けられなかった。亜衣は塩の道の手前で、たたらを踏んで立ち止まった。降り始めた豪雨が溜まって、既にそこは池になっていた。幸いだったのは、水深がまだ五十センチも記録していない事だ。彼女は水溜りに足を取られながら、溺れ丘へと急いだ。


麻糸で継ぎはぎした木板を乱暴に叩くと、果たして藤原宇堂は顔を出した。


「お前、さっきの」と、藤原宇堂は彼女を見上げながら言った。その眼に宿った感情の種類は、相変わらず判然としなかった。

「無事だったんですね」と、亜衣は胸を撫で下ろした。


首を傾げる老人は、少女の格好を見咎めて、僅かに顔をしかめた。レインコートは傷だらけで、彼女自身も無数の傷を負っている。頭頂から足の先までずぶ濡れで、衣服の重さは二倍にも三倍にもなっているだろう。


「あがってけよ。暖を取るくらいなら出来る」と、老人は顎をしゃくって室内へ招いた。

「じゃあ、少しだけ」と言って、亜衣は室内に上がりこむ。全身を包む疲労は限界に近く、その上、肌に纏わりつく衣服が体温の低下を助長し、体力の消耗は著しかった。本当は警告だけしてその場を離れるつもりだったが、彼女の全身がそれを峻拒していた。


藤原宇堂の家の中は、亜衣の想像以上に暖かかった。床にはよく磨かれた喬木が何本も並んで、中央の囲炉裏では潅木が燃えていた。ほかに見受けられるのは原始的な調理用品と、蓑のような布団くらいだった。藤原宇堂は腰を下ろし、囲炉裏に鍋を吊るして火にかけた。亜衣は囲炉裏を挟んで向かい合うようにして座した。


「お前、どうして戻ってきた?」と、老人は訊ねた。


亜衣は両肩を抱いて、囲炉裏の火に足を近づけた。暖気はむしろ痛みとなって、冷え切って感覚を失った足を包んだ。


「さっき届けた手紙なんですけど、多分、もうすぐ島山羊が食べに来ます」

「へえ」と、頷く老人には驚いた様子もなかった。「島山羊か。俺はここに三十年以上住んでるが、未だに見た事ねえな。お前は見たのか」

「はい。とても怖い生き物です」と、亜衣は俯きながら言う。「だから、早く逃げましょう」

「つまり、警告をするためにわざわざ来たってか」

「はい」

「そいつは勇敢な事だ。お前、誰の使いだ」と、老爺は胡座をかいたまま問いを重ねた。

「間野キミ。私のお婆ちゃんです」


藤原宇堂は頬杖をついて、笑みを浮かべた。先程までの、空虚とも思えるような表情ではない。しわくちゃで、混じりっけのない笑みだった。


「そうかい。間野キミの孫かい。全然似てねえな。ああ、もちろん誉め言葉だ」

「危ないんですよ!」腰を上げるどころか慌てる様子もない老人に、亜衣は思わず叫んでいた。しかしその絶叫にさえ、老人は眉一つ動かさなかった。亜衣は恥じるようにして、ますます顔をうつむける。「ここにいたら、島山羊が襲いに来ます」


藤原宇堂はしばらく黙っていたが、やがて苦笑いを浮かべた。


「島山羊が来るのはわかった。だが俺は北に移住する気はねえし、手紙を捨てる気もねえ。どうしても助けたいってんなら、その二つの前提を覆さずに助かる方法を見つけな」彼は鍋を手に取る。中身を湯飲みに注いで、亜衣に差し出した。「飲んで身体暖めとけよ。お前だってそのまま外に出たら死にかねないし、助かる名案を思いつくまではここにいな」


亜衣は差し出された湯飲みを受け取り、一口すする。白湯だった。亜衣はしばらく身体を暖める事に専念し、その間、思考は目まぐるしく展開していった。島山羊の住む南側に残ったまま、手紙を捨てずに、尚且つ命を拾う方法を模索する。それは解き難い問題で、的外れな方法ばかりが脳裏を過ぎていく。それはますます亜衣を苛立たせた。


「死にたいんですか」と言ってから、言うべきではなかったと後悔する。老人は彼女の失言を鼻で笑った。

「まさか。俺はもうあと半年で八十になるが、ここに移住してから死にてえと思った事は一度もない。数ある動物の中で、死にてえなんて考える動物は人間くらいのもんさ」


その言葉を人間が口にする事に、亜衣は違和感を覚えた。


「でも、島山羊が来れば、こんな家じゃ、すぐに壊されます」と、亜衣は湯気を立てる湯飲みに焦点を合わせて言った。そこに問題を解決する鍵を見つけるかのように。

天井の茅葺は風に煽られ、荒波のようにうねっている。亀裂が生じた箇所は新しい粘土で不器用に固められている。扉として使用されている木板はその身を震わせ、落ち着きというものを完全に失っている。島山羊がその巨体を駆使すれば、扉は簡単に砕け散るだろう。


亜衣は説得を続けようと顔を上げて、口を開きかけて、そのまま開いた口が塞がらなくなった。藤原宇堂はしわくちゃの顔を更にしわだらけにして、相対する彼女をじっと見据えて泣きそうな顔をしていた。


「家だなんて言わねえでくれ」と、老人はうめくように言った。藤原宇堂はまるで一瞬にして何十年分もの年月を経たように衰弱し、生気を失っていた。「家じゃねえんだ。ここは巣なんだ。俺の、巣なんだよ。頼むよ。家なんかと一緒にしないでくれ」


老人は低い頭を更に下げる。亜衣は言葉を失う。いったい何を言えというのだろうか。彼の懇願の意味はまるでわからなかったし、不適切な発言をするくらいなら沈黙を守っていた方が、それが最善ではないにせよ、遥かに得策であるように思えた。


「どういう意味、ですか?」


額に汗を感じながら、亜衣は喉の奥から声を絞りだす。細くかすれた声だった。頭を深く垂れたまま、藤原宇堂もまた、消え入りそうな声を漏らす。


「文明にまみれた巣が、家じゃねえか。だから俺のは、家じゃねえんだ」


亜衣は違和感を覚える。その話し方はどこか舌足らずで、隙間風のような、空気の流れる音と共に吐き出されている。その正体は間もなく明らかとなった。ゆっくりと顔を上げた藤原宇堂を見て、亜衣は息を呑む。彼は嗚咽を漏らしながら歯を食いしばっていた。溢れ出ようとする激情を、必死に抑制しているようであった。

噛み合わされた歯の隙間から、彼の言葉は漏れ出でる。


「俺は、文明を捨てた男だ」

「どうして、そんな事」そう問い返すので精一杯だった。亜衣は眼前の小さな老人にすっかり圧倒されていた。

「進歩とか変化とか、いいんだよ、そういうのは」そう断じる彼には、有無を言わせぬ迫力があった。それは、数十年を南側で孤独に過ごした男の、原動力そのものだ。彼は時折歯軋りを交えながら、言葉を続けた。「あるがままで、何の不満があるっていうんだよ。前へ、上へ、進んでいったところで終わりなんざないし、致命的な失敗を犯す危険だってある。文明なんてもんがなければ、戦争もないし、動植物を淘汰する事もない。それでも人間ってのは、盲目的に進歩したがる、糞喰らえばかりだ。人間ってのはよ、変わらなくたって生きていけるのさ。俺が何よりの証人じゃねえか」

「でも」と、亜衣は口を挟まずにはいられなかった。「あなたは、火を使っています」


彼女の指摘に呼応して、藤原宇堂の歯軋りがぴたりとやむ。彼の顎は力を失い、険しい表情から波のように皺が引いていった。浮かぶのは、感情の起伏の見えない顔だ。


「わかってるさ」しばらくの間を置いて、藤原宇堂は呟いた。「わかってる。わかってるんだよ、そんな事は。何もかも承知の上さ、畜生」


外には、断続的な豪雨と暴風の音が一帯を蹂躙している。そして、それらとは比較にならない雷鳴が幾度となく轟いていた。まるで静粛を命ずる裁判官の木槌のように、あるいは革命の鼓舞のように。遂に嵐はその島に鎮座した。抑圧されていた怒号が一気に解き放たれる。

嵐よりも遥かに小さな声で、しかしはっきりと、亜衣の耳に島山羊の鳴き声が届いた。

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