第9話 だから、すぐに追いかけてきて
唐木田と亜衣の視線の先で、鳴き声が上がった。
二人は同時に、本能的に足を止める。風の唸り声が支配していた森に、明らかに異質の音が闖入していた。それは決して己を主張するような声ではなかった。しかし暴風の吹き荒れるこの森で、その声は耳障りな程はっきりと聞こえた。真っ白いキャンバスに描かれたほんの小さな黒点のように、それはどれだけ小さくても聴衆に気付かせ、たちまち心を支配する。
唐木田は無意識的に亜衣をかばうように立った。老婆から与えられた役割を、彼は忘れていなかった。唐木田の背後で、亜衣がしゃくりあげるような短い悲鳴を上げる。彼女も唐木田と同じものを発見したのだろう。二人の進行方向にある茂みから、一頭の山羊が姿を現した。それは唐木田の想像以上に巨大で、むしろ鹿に近い体躯をしている。後方に伸びた弓状の巨大な角、地面まで伸ばした顎ひげを持つその山羊は、何より真っ黒な体毛に覆われていた。乾いた返り血のような黒は、唐木田の足を竦ませる。
――ぇぇえええええええええ。
島山羊は濁った目で二人を睥睨していた。微動だにせず、襲っては来ないが退きもしない。生々しい現実感を伴って、万が一の可能性がほんの十メートル先に立つ。唐木田は全身から汗が噴き出してくるのを感じた。島山羊がそこに立っているだけで、緊張は最高潮に達している。亜衣が唐木田のシャツを強く掴んだ。
「大丈夫」と、唐木田は前方に視線を固定したまま声を絞り出した。「もう僕達は手紙を持っていない。襲われる理由がない」
だがその希望を嘲笑うかのように、島山羊はその場を立ち去らない。品定めするように、濁った眼球は何度も上下に動いた。いまは風の音も聞こえない。段々と亜衣の手の感触も朧気になっていく。研ぎ澄まされた神経は、眼前の脅威に対してのみ注がれる。島山羊の一挙手一投足を注視する。彼の眼を見ているうちに、唐木田の視野は段々と狭くなっていった。見えない箇所が増えていき、見える箇所がより鮮明に見えるようになっていく。まるで望遠レンズのように対象に迫っていく。やがて視界は島山羊の眼球しか映さなくなり、ふと唐木田はそこに文字が刻まれているのを発見した。濁っているように見えたのは全てが文字で、彼の真っ白な眼球には何万もの文字が連なっていた。それらを一字一字丁寧に読み取っていくと、その羅列が手紙の文面である事に思い至った。それは現在までに島山羊が喰らった手紙の内容の全てだった。拝啓に始まり敬具に終わる、無数の想いが込められた無数の手紙が、唐木田の視界に広がる。妻に、夫に、父に、母に、息子に、娘に、祖母に、祖父に、孫に、叔父に、叔母に、恋人に、友にあてた手紙が溢れ返る。あるものは朗報を、あるものは悲報を、人から人へと伝えるために書かれた。それらは届けられる事なく喰われた無念を訴えるように、次々と唐木田の視界を埋め尽くしていった。膨大な量の、手紙という感情の塊を、唐木田は一つずつ丁寧に拾っていった。
島山羊の一鳴きで、唐木田の視野は急速に広がり、次の瞬間にはもとに戻っていた。
島山羊の全貌と再び対峙して、唐木田は瞠目した。真っ黒だった島山羊の体毛は、薄い灰色に変化していた。限定されていた視界では、それがいつ、どのような過程を経て起きたのかはわからない。だがそれが自分の行為による成果なのだという事を、唐木田は直感的に感じ取っていた。
突然、灰色の島山羊は歩を進め始めた。長い間――正確な時間は分からなかったが――硬直していた島山羊の動きに身を強張らせるが、島山羊の進行方向は唐木田と亜衣の立つ方向とは逆だった。しかし唐木田と亜衣が気を緩める事はなかった。しばらくその姿勢のまま島山羊の後ろ姿を睨みつけ、完全に視界から消えたのを確認して、ようやく緊張を解いた。二人は崩れ落ちるように、並んでその場に倒れこんだ。
「助かったね」と、息を切らせて亜衣は言った。
「どうして色が落ちたんだろう」と、唐木田も息を切らせて言った。
「わからない」と、亜衣は言う。「突然色が変わっていったもんね。雲が移動して、日陰が日向になるみたいに、すうっと」
「手紙を届けた後で助かった」
対峙しただけで全身から汗が噴き出る程の威圧感を得たのだから、襲われたらひとたまりもなかっただろう。
危機が去った事で、改めて己の幸運を噛み締める。強風が二人の身体を叩いていく。全身の汗が冷たくなって、唐木田と亜衣は身体を震わせた。その風は、亜衣の汗の臭いを唐木田へと運んだ。唐木田は隣りに横たわる亜衣を見る。彼女の頬から首筋にかけて汗が伝っている。大きく呼吸し、熱くなった息を吐く。規則的に胸が浅く上下する。彼女の身体にレインコートはあまりにも無粋だ、と唐木田は思った。彼女は両腕と両足を投げ出して身体を開いている。唐木田恭介という人間の前で城戸亜衣は身体を開いている。
突然、唐木田は耐え難い吐き気に襲われた。腹中で急速に蠢く影があった。それはもはや、違和感と呼称するには生易しい、歴然とした存在感であった。げらげらげらと下卑た笑声が唐木田の鼓膜を突き破り、頭の中で無限に反響していく。その存在は粘着質の四肢で唐木田の腹中を這い上がってくる。背骨を伝い、肋骨を足がけにして、喉への侵入を果たす。その過程で、奴は唐木田の内部に積載されていた手紙を残らず呑みこんだ。栄養をたっぷり補給したそいつは、喉の奥からぎょろりと目を見開いて亜衣を見定める。頭のてっぺんから足の爪先までを、舐め回すようにじっくりと眼に焼き付けていく。
唐木田は大きく頭を振るが、その存在は狼狽する様子さえ見せなかった。というよりも、唐木田は頭を振ってなどいなかった。唐木田は起き上がって、横になった城戸亜衣を組み伏せていた。彼女を眼下に見下ろすそいつは、喉から手を出して唐木田の上顎と下顎を思い切り広げた。彼の口と喉が開いていき、奴は長い首を唐木田の舌に載せた。
「ねえ、何? どうしたの?」と、亜衣が動揺も露に早口で言った。「私気付いたんだけど、藤原のおじいさん、いま手紙持ってるよね。もし島山羊に見つかったら、あんな家簡単に壊されちゃうと思うんだ。だから助けに行かないと大変な事になるよ」
亜衣は懇願するように言うが、唐木田には彼女の言葉の意味がわからなかった。言語を解する能力が失われていた。それに奴の笑い声のために、彼女の声はほとんど届いていなかった。唐木田の口の中で、そいつは残りの下肢を引きずり出そうとしていた。唐木田は亜衣のレインコートのボタンを外していく。それはあくまでも正当な手段なのだ、と唐木田は思った。奴は激しく頭を振った。唐木田は自分の首が、奴の舌の上にある事に気付く。両手を顔の前にかざすと、それが見た事もない異形の手である事に驚愕する。奴は組み伏せた亜衣のレインコートを剥ぎ取る。無粋な安物に憎悪の視線を向ける彼は、それを脇に退ける。その間隙を縫うように亜衣は素早く身を起こし、そいつを蹴り上げた。
異形となった唐木田は、喉にひっかかったまま、外に出るべきか中に引っ込むべきかを考えあぐねていた。そのうちに衝撃が走り、喉が上を向く。その拍子に唾液を浴びた唐木田は、喉の奥へと落下していった。そいつは仰向けに倒れるが、すぐに体勢を立て直す。亜衣は既に立ち上がっていて、奴に対して鋭い視線を送った。
「私は藤原のおじいさんのところに行くからね。だから、すぐに追いかけてきて」
そう言うと、亜衣は踵を返して駆け出した。それは、唐木田と亜衣が歩いてきた往路であり、島山羊が去って行った方向だった。彼女を追跡しようと足を踏み出したそいつを、不意に落下の衝撃が襲った。唐木田は落下の感覚を失い、急に開けた深緑の視界に目を回し、意識を失った。その直前、木々の向こうに小さく亜衣の背中が見えた。
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