第8話 何かまずい事が起きている気がする
空は雲に覆われていた。夜の内にもひっそりと浸蝕を続けていた積乱雲は、異常に発達した暗雲となって島を見下ろしていた。ぐるりと見渡しても空の青は顔を片鱗も覗かせず、灰色がどこまでも無窮に広がっていた。砂漠が絶望を示唆するように、それは凶兆を示唆している。時刻は午前七時を五分過ぎている。起き抜けに窓の外を出た唐木田を迎えたのが、その光景だった。雲は、雨を降らす時間をいまかいまかと待ち望んでいるように見えた。その前兆は風となって既に唐木田を叩きつけている。風に煽られる全てのものが不吉な音を発していた。葉の音は凶事による騒乱を思わせ、窓の音は怒りによるデモ活動を思わせ、はためく衣服は革命の旗を思わせた。直に、天から夢叫ぶ全ての者達の号泣と、鬼をも黙らせる怒号がやってくるのだ。早めに出発するべきだ、と唐木田は思った。風はまだこれから勢いを増していく。
屋内に戻って居間を覗くと、亜衣が朝食用の食器を並べていた。
「おはよ」彼女が浮かべる笑みからは、隠し切れない緊張がにじみでていた。彼女は半袖のブルーのシャツにジーンズと、動きやすい格好を選んでいた。髪は昨日と同様にバレッタで留めている。彼女は窓の外を見やる。「わかってたとはいえ、すごい天気だね」
「僕一人で行ってもいい」と、唐木田は切り出す。何も彼女が手紙を運ぶ必然性はないのだ。それなら万が一島山羊に襲われたとしても逃走に専念できるし、何より亜衣には危険が及ばない。それはなかなかに名案に思えた。しかし亜衣は迷わず首を左右に振った。
「そういう問題じゃないんだよ」と、昨晩の言葉を繰り返した。
「そう言うなら、まあ、いいけど」と、唐木田は曖昧に頷く。
「さあ朝食にしようかね」と、間野キミが姿を現す。「早く喰って早く行って、さっさと帰ってきな」
窓を締め切った居間には熱気が篭もっていき、気温が上がっていった。暑さは思考を妨げ、自然と会話は少なくなった。するとどうしても窓を叩く風に意識を集中してしまう。とても奇妙な空間だった。周囲は喧々囂々として、中心だけがぽっかりと静寂に包まれている。否、それは包まれるというよりも、むしろ空白に近かった。それは決定的な欠落を思わせ、ますます不安を助長した。齧ったトーストには味がなかった。
朝食を済ませると、老婆は「傘なんざすぐにただの棒になっちまうだろうからね」と言って、二人分の青いレインコートを持ってきた。唐木田と亜衣は玄関口でレインコートを着込み、それぞれが手紙と地図を持っている事を確認した。玄関には古い置時計があって、不器用な音を立てながら時間を刻んでいた。七時、四十五分。
「じゃあ気をつけて行っといで。まずい事なんて何も起きないさ」
「行ってきます」と、二人はほとんど同時に言った。
立て付けの悪い扉を苦労して開けると、勢いよく風が吹き込んできた。風に抵抗しながら進み出て、同じ苦労をして扉を閉める。ぴしゃりという音と共に、内と外とは隔絶された。唐木田が様子を窺ってからまだ一時間も経過していないというのに、風は勢いを増していた。騒乱とデモ活動と旗の動きは激しさを増し、その渦中に二人は身を置いた。
風に持って行かれそうになる地図を必死に押さえながら、唐木田が先行した。
「南側に行った事は?」と、後方の亜衣に訊ねる。
「ないよ。誰もいないと思ってたから」と、亜衣は声を張って答えた。「もし迷子になったら、帰れなくなりそうだし」
亜衣の言は的を射ている、と唐木田は頷く。未開発の森林には道路などないだろうし、余程目立つ目印でもなければすぐに木々に紛れてしまうだろう。例え道が出来ていてもそれは恐らく獣道で、島山羊と遭遇する可能性が増す。
二人は山を南側に回り込む、少しでも高低差をなくすようなルートを選んだ。歩き始めて一時間程は砂利道を踏んで行けたが、やがて森に入らねばならなくなった。四方を無数の木々に囲まれる事で、木々の騒乱は一層激しさを増した。それだけでなく、入り組んだ木々の間隙を縫う風が、群集の断末魔のように不気味な音を上げるのだ。幾本もの風の通り道が発するのは高い音から低い音まで様々で、それらが岩や大地にぶつかって反響している。まるで森林全体から謎の警告を受けているように思えた。言語的解釈は不可能だが、その警告が非友好的である事だけは理解出来た。
「地獄からの賛美歌みたい」と、亜衣は自分の両肩を抱きながら言った。
「その方が克明かもしれない」と、唐木田は言った。それくらい大袈裟で陳腐な比喩の方が、この荒々しい木霊を表現するには相応しいように思えた。
嵐を恐れて、動物達はそれぞれの巣から出てこようとはしなかった。この天候での外出が愚行である事を、彼らもきちんと承知しているのだ。彼らが障害にならないとわかって、足は躊躇わずに進むようになった。
「これなら島山羊も出てこないと思う」
唐木田がそう言うと、亜衣は幾分安心したようだった。唐木田には嵐以上の脅威が訪れるとは思えなかった。それだけ頭上の暗雲の存在感は大きかったし、動物達は静か過ぎた。実際その予想は正しく、二人は一時間ばかり森を分け入ったが島山羊とは遭遇しなかった。
斜面を下り始めた頃、眼下に大きな丘が見えた。目を凝らすと、住居のような塊も目にする事が出来た。地図で確認すると、それが老婆の言っていた溺れ丘なのだとわかる。唐木田と亜衣は慎重に斜面を下り始める。フタコブラクダの背中にある、大きなこぶを降りて、小さなこぶを登っていく。
下り斜面と上り斜面の交差点あたりまで来て、二人は思わず歩を止めた。
「ここ、何だろう」と、亜衣が呆然と呟く。
唐木田と亜衣の視界に広がったのは、一面の白であった。深緑に慣れていた目に、それはとても鮮やかに映った。その一帯だけが、独立した様相を呈している。細かく白い塊が、地表全体を覆っている。歩いてみると、簡単に砕ける砂のような感触が返ってきた。草木は僅かで、木々は倒木が目立ち、大半が腐っていた。唐木田はその場に屈みこんで、指で白い粉を掬い取った。すりつぶしてみると、塊は簡単に砕けて更に細かい粒子になった。
亜衣も同じように白い粉を掬い取り、無防備にもそれを舐めた。
「これ、塩だよ」と、亜衣が顔をしかめて言う。
「塩?」と、唐木田が繰り返して、彼も指に付着した粉を舐め取った。口内に広がった辛みは、確かに塩に相違ない。周囲を見ると、山の斜面と丘の斜面にも塩は付着していた。塩の範囲は横に広く、縦にはせいぜい二メートルといったところだ。それはどちらの斜面にも共通している。まるで下方からペンキを塗っていき、途中で諦めたかのようだった。
しばらく首を傾げていた二人だが、やがてこの地名が溺れ丘である事を思い出して、唐木田が先に得心した。
「成程。だから溺れ丘」
「わかったの?」と、亜衣が笑みを浮かべて唐木田に身を寄せてくる。半日ぶりに見た、彼女の屈託のない笑顔だった。
「溺れ丘って名前がヒント」と、唐木田は言う。「多分、以前にも嵐があったんだと思う。それも今日と同じような規模の。地図によるとここはちょうど海抜三十メートルだから、この辺は水没したんだ。この一帯はこぶに挟まれてるから、海水が逃げずに池になった。溜まった海水は、長い時間をかけて木々を腐食させて、蒸発したんだと思う」
「それで塩だけが残った」
「一応の説明はつくと思うよ」真偽の程は定かじゃないけれど、と唐木田は付け加えた。「だから急いだ方がいいね。もしかしたら、僕らは丘で溺れるかもしれない」
「それは遠慮したいね」と、亜衣が苦い顔をした。
「行こう」
二人は二十メートル程度の塩の道を歩き、丘の斜面を登り始めた。丘の頂上に到達すると、茅葺屋根の家が二人の前に姿を現した。丘の上にぽつんと、そして出し抜けに建てられた建物だ。間近で見て、二人は思わず閉口した。その家は、唐木田が都会で、亜衣が島でそれぞれ見てきたどの家とも似ていなかった。壁は土と粘土で固めただけの代物で、方々から草が飛び出し、亀裂が生じている。いびつな形状をしていて、子供が初めて作ったかまくらのような出来栄えだった。屋根に使われている茅葺は今にも風で飛んでいきそうで、錘であろう大小様々な石が必死にへばりついていた。入口には麻糸で継ぎはぎした木板が立て掛けてあり、それが扉の役割をするらしい。
「すごい家だね」と、亜衣が端的な感想を口にする。
「とにかく届けよう。そうすれば帰れる」
唐木田と亜衣は扉まで歩み寄り、躊躇いがちにノックした。いまにも折れそうに見えたが、拳には意外と頑丈そうな感触が伝わってきた。風の唸り声にかき消されたのか、中からの反応はなかった。もう一度、今度は幾分強くノックをする。唐木田の隣で、亜衣が「すみません」と声を張った。刹那、扉は勢いよく内側に開いた。代わりに唐木田の前に立ったのは、小柄な老人だった。もともと背が低い上にすっかり腰が曲がっていて、子供のように小さかった。だが歯と頭髪は生え揃っていて、不潔な印象はなかった。
「言葉だ」と、中から顔を出した老爺は震える声でそう呟いた。
「言葉?」と、亜衣がおうむ返しに訊ねる。
老人は頷く。重々しくゆっくりとした頷きには含蓄があった。含蓄のある頷き方というものがあるのだと、唐木田は初めて知った。その動作一つで、老人の弱々しさは消失した。
「俺は、言葉を聞くのは、えらく久しぶりだ」
また口を開きそうになる亜衣を制して、唐木田は一歩後ろに下がった。彼女は老爺に興味を抱いたらしい。放っておけば、延々と話し込むに違いない。奴の言う事に耳を傾けちゃいけないよ、と間野キミは言った。
「あなたが藤原宇堂さんですね」と、唐木田は老人の全身を見ながらそう訊ねた。
「ああ」と、老人は頷く。
「あなたに手紙を届けに来ました」
唐木田は亜衣から手紙を受け取り、それを藤原宇堂に差し出した。彼はすぐには手を伸ばさずに、風にはためく手紙を凝視する。その視線はひどく無機的で、その奥にどのような感情が込められているのか全く読めなかった。彼は随分長い間そうしていた。唐木田の上げた腕が痛くなってきた頃になって、藤原宇堂はようやく手を差し出した。しわくちゃの手の中で、生け捕りにされた川魚のように、風に巻かれて手紙は踊る。
「手紙。そうか、手紙か」と、うわ言のように藤原宇堂は繰り返す。
唐木田は彼から大きく一歩を退いた。
「確かに渡しましたよ」唐木田は額を拭う。じっとりとした、嫌な汗をかいていた。唐木田は亜衣を振り返って手を引いた。「帰ろう」
「待ちな」と、藤原宇堂は小さくもよく通る声で彼らを呼び止める。どうしてあんな小声が吹き荒れる風を潜り抜けて耳朶を打つのだろうと、唐木田は疑問に思った。それを訊ねてみたい衝動に駆られたが、唐木田は振り返らなかった。一瞬立ち止まった足は、すぐに歩行を再開する。しかしそれに構う事もなく、老人は小声で続けた。
「お前ら、誰の使いだよ」
質問に応じようとする亜衣の背中を押して、唐木田は早足にその場を離れる。亜衣は困惑するような視線を送っていたが、唐木田はそれを無視して歩き続けた。一刻も早く藤原宇堂から離れる必要があった。溺れ丘の斜面を下り、塩の道を抜け、山の斜面を登っていく。それが老人から離れたいからなのか、早く帰らねば嵐がやってくるからなのか、唐木田には明確にわかっていた。両者だ。唐木田は両者に等価の危惧を抱いて歩いている。嵐以上の脅威などないと高を括っていたが、訂正せざるを得ないようだった。
地図を見ないで歩いてきた事に気付いたのは、時間の感覚がなくなってからの事だった。歩いた時間は五分かもしれないし、一時間かもしれない。それは亜衣にもわからなかった。レインコートから地図を取り出すが、何の参考にもならなかった。
「ねえ、戻ろうよ」
そう亜衣が提案するが、唐木田はそれを否定した。どう歩いてきたかも不明ないまとなっては、往路を辿る事ですら困難だ。何より明確な理由こそなかったものの、唐木田は藤原宇堂ともうあと一秒だって顔を合わせたくはなかった。彼の、どこか卓越している風貌は唐木田を惑わせる。だから往路は選べない、論理よりも感情を優先する手合いとして、と唐木田は思い、息を呑んだ。いま論理よりも感情を重視しているのは、城戸亜衣ではなく唐木田恭介だ。戻ればわかる道に出るかもしれないと論理を優先させているのは、唐木田恭介ではなく城戸亜衣だ。唐木田は瞠目する。焦燥にかられて唐木田を見つめる亜衣を見返す。唐木田を見つめる瞳には不安の色が濃い。二つの眼球は危機を訴える。そしてその回避を求める。黒い瞳を注視するうちに、それは段々と大きくなる。唐木田の視界を埋め尽くす。何も見えなくなる。そうかと思うと視界は真っ白になり、彼女は突然視界から消失した。景色が見え始めるが、それは草木と大地ばかりで、城戸亜衣はまるではじめからそこにいなかったかのように忽然と姿を消してしまった。続いて重力が傾く。大地が揺らいで足がもたつき、重心が上半身に移動する。唐木田は抗う事も出来ずに倒れ伏す。目が回る。重力がどう作用しているのか、唐木田には理解できない。
「唐木田恭介!」と、悲痛な叫びが聞こえた。「しっかりして!」
気付くと、亜衣の顔が目と鼻の先にあった。肩を支えられて、唐木田は亜衣に助け起こされていた。唐木田は彼女の手を丁寧にはがして、倒れていたらしい身を起こした。幸い、身体を動かしても痛む箇所はなかった。頭を支えるようにしてこめかみを押さえ、唐木田は朦朧とする思考を払拭するように頭を振った。
改めて亜衣を見ると、深く安堵の息をついていた。
「びっくりした……。ねえ、大丈夫?」と、亜衣はこちらの顔色を窺う。
「――ごめん。急に眩暈がして」唐木田は髪やレインコートについた土を払い落とした。「僕はどうしたんだろう?」
「迷子になって、戻ろうか進もうか話してたんだよ。そしたら急に」
「倒れた」と、言葉を継ぐように唐木田は言った。亜衣が神妙に頷く。
不安が胸中を渦巻いていた。雷雨はまだ訪れていなかったが、危機とも言うべき別の何かが訪れているような気がした。あんたの好機は嵐を伴って、明日このちっぽけな島にやってくる、と老婆は言った。どれだけ多角的に観察しても悪手としか思えない好機ってのもあるわけだ、とも言っていた。素直に信じる事は出来なかったが、好機が近いのかもしれない、と唐木田は思った。
「何かまずい事が起きている気がする」と、唐木田は言った。「戻ろう。戻ってなるべく早く間野さんの家へ帰ろう」
「うん」と、亜衣が頷き、二人で踵を返した、その時だった。
――ぇぇえええええええええ。
唐木田と亜衣の視線の先で、鳴き声が上がった。
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