第7話 島山羊は手紙を喰うんだよ。いつまでも意志疎通出来ない白黒山羊みたいに、むしゃむしゃとね。実にうまそうに喰うんだ。

瓦町さんの家から一時間程歩くと、ようやく間野キミの家に辿り着いた。ほとんど沈みかけた夕陽の明りで時計を見ると、午後六時ちょうどだった。唐木田は胸中で静かに舌を巻いた。老婆の予言は寸分の狂いもなく実現したのだ。亜衣が唐木田の時計を覗き込んできて、彼女は呆れるほど素直に驚いた。


「お婆ちゃん凄いね。まるで全部を見透かしてるみたい」

「あの人なら有り得そうだ」


亜衣が先行して玄関に立ち、インタフォンも鳴らさずに(そもそもインタフォンは設置されていなかった)引き戸を開けた。滑車が老朽化していて、扉は随分抵抗した。初めて訪れた際には、合言葉があるのではないかと本気で疑った程だ。開けごま。だがそれは正しいパスワードではなかった。宿命的な音を立てる客船の扉よりも頑固だ、と唐木田は思う。何せもうじき築五十年を記録するような木造平屋だ。

亜衣は僅かに開いた隙間に手を入れて、両手で思い切り引いた。


「やっと開いた」


亜衣は僅かに切れた息を整えてから、家中に響くようにただいま、と大声を上げた。すると間髪入れずにおかえり、と負けないくらいの大声で返事が来た。それから早足での足音が聞こえてきて、間もなく間野キミは姿を現した。彼女はしみ一つない新品のエプロンを提げて、口には煙草を咥えていた。エプロンの胸ポケットには携帯灰皿が口を開けていて、既に三本の吸殻が突っ込まれていた。


「時間ぴったりだね。感心、感心」と、老婆は言った。

「夕食の準備?」と、亜衣は訊ねた。老婆は紫煙を吐き出してから大きく頷いた。

「ああ、腕によりをかけて作ってるところさ。何と言っても調理はあたしの得意分野だからね。もう少しで手が放せるから、先に居間で待ってな」


間野キミは四本目の煙草を灰皿に押し込んで、五本目の煙草を咥えながら調理場へと戻っていった。亜衣と唐木田は靴を脱いで居間へと移動する。その際には調理場を通過せねばならず、唐木田はわき目で調理道具一式を見やる。煙草の灰で真っ黒になっていないかと不安だったが、どうやら杞憂だったようで安堵の息をついた。

八畳の居間の中心には、大きめのちゃぶ台が鎮座している。それを囲むように座布団が三枚敷かれていて、他には何もなかった。掛け軸の一枚も見当たらず、彼女の飾り気のなさは徹底されている。


二人は座布団の上に腰を落ち着けた。今日一日の感想等を亜衣が話し、唐木田は相槌を多く打った。この島限定の事とは言え、彼女の博識振りには随分驚かされた。唐木田の亜衣に対する評価は多少改められ、苦手な手合いだという意識は少なくなっていた。


六時を十分過ぎた頃、間野キミは居間へと姿を現し、どっかりと胡座をかいた。彼女は手に包装されたままの煙草を一箱と、乱暴に畳まれた模造紙を持っていた。


「ようやく手が空いた。鍋を火にかけてるから、煮込みが終われば夕飯としようじゃないか。あと十分程度かね。さて、郵便配達はどうだった?」

「楽しかったよ。たくさんの猫とも一緒に遊んだし。昼寝も出来たし」と、亜衣は喜色満面で答える。老婆は亜衣の頭を撫でてやり、それから唐木田へと視線をやった。彼女の目は少しばかり細められて、まるで難解な騙し絵を見るような目つきだった。

「楽しめましたよ」と、唐木田は気圧されるように言った。彼女の期待する回答と一致するだろうか、と思いながら。


すると彼女は一応の満足を得たようで、彼を肯定するような頷きを返した。老婆は若い二人を交互に見比べてから、ぴしゃりと自分の膝を叩いた。


「楽しかったのなら良し。何よりだ。苦痛の時間は短ければ短いほどいい。苦労は試練だが苦痛は運命的虐待だ。楽しめたのなら明日も頼んだよ」

「明日?」と、唐木田は眉根を寄せる。「嵐の中を配達するんですか?」

「そうじゃないさ」老婆は煙草の箱の包装を解き、一本を取り出して火をつけた。「そうだね、夕飯までにはまだ少し時間があるから、明日の予定を話しておこう」

唐木田と亜衣は老婆の話に耳を傾ける。間野キミは予言を伝え聞かせる。


「まず誤解を解くが、嵐が訪れるのは明日の午後二時七分だ。最大風速は三十メートル、一時間あたりの降水量は三十ミリ前後。断続的な雷もある。津波の恐れどころか大規模な海面上昇が起こる。海抜三十メートル地帯は完全に浸水する。端的に言えば非常に強い嵐だ。まあ別に覚えとかなくていい、嫌でも明日体験する事になるわけだしね」

「ここも沈むの?」と、亜衣が口を挟む。彼女の顔は緊張で強張り、脅えの色が濃い。

「ここは大丈夫さ。海抜六十メートルはある」と、老婆が笑みで答えると、亜衣は肩を撫で下ろした。「だがあんた達に明日行ってもらうのは、まさにその海抜三十メートル地点だ。もちろん午前中にだがね。手紙の受取人は藤原宇堂(ふじわらうどう)ってじじいさ」


唐木田はその名前を聞いた事がなかった。亜衣の様子を窺ってみると、驚いた事に彼女も首を傾げていた。彼女にも知らない事があるのだ。全てを把握するには、この小さな島でさえ巨大に過ぎる。


「お婆ちゃん、その人は最近越してきたの?」

「否。あのじじいはあたしよりも長くこの島に住んでるくらいさ」


間野キミは六十年以上前にこの島で産声を上げて以来、一度も住まいを変えていないと唐木田は聞いていた。だとすれば藤原宇堂は、それこそ七十年以上をこの島の島民として過ごしているのだろう。唐木田にとって、七十年と永遠とはほとんど同義だった。途方もない時間、と胸中で呟いた。


「亜衣が知らないのも無理はない。藤原宇堂は島の南側に住んでるのさ」

「南側!」と、亜衣は驚愕の叫びを上げた。


老婆の言葉が与えた衝撃は大きく、彼女はちゃぶ台から身を乗り出した。まるで近づけば別の意味に聞こえるのではないかというように。壊れかけたラジオから漏れたノイズが、たまたま不適切な意味を伴って響いたかのように。その横で、唐木田は数え切れない程の疑問符を宙に浮かべた。


「南側、誰も住んでないんじゃないの?」と、亜衣は訊ねた。

「誰も住んでいない?」と、唐木田は演奏の機を逸した奏者のような顔で亜衣に続いて訊ねた。二人の視線が集中する先で、老婆はゆっくりと紫煙を吐き出す。それはゆっくりと上昇していき、行き場を失って、しばらく天井を彷徨っていた。

「但し唯一の例外を除いて、とは面倒で言わなかったのさ」煙が消えて見えなくなった頃に、彼女はそう言った。「いいかい唐木田。この島は需要と供給のバランスが非常に悪い。需要が人で供給が土地なわけだが、土地の方が遥かに多い事は想像に難くない。余ってるわけだ。だから植生が濃い南側は、ほとんど開発されていない。手付かずの野生の草木が繁茂しているんだよ。島民は揃って北側を開拓して住んだ。もともと天候が穏やかなもんだから、日当たりなんて気にする輩はいなかったのさ」


「じゃあ藤原宇堂という方は、どうして南側に?」と、唐木田は訊ねた。「まさか日当たりに狂信的な心血を注いでいるわけでもないでしょう」

「狂信的な心血」と、老婆は繰り返した。気に入ったのか、じっくりと吟味するように一文字ずつを慎重にもう一度繰り返した。「ある意味でそれは正鵠を射ているのかもしれないよ。もちろん日当たりに注いでるわけじゃないがね。奴が南側に住んでるのは、まあ変わったじじいだからさ。価値観の相違ってやつだ。藤原宇堂を理解しようと努める必要はない。というか、奴の言う事に耳を傾けちゃいけないよ。そう。これだけは守らなければならない。いいかい、これは命令だ。もしかしたらじじいはあんた達を見て上がっていくように言うかもしれない。でも応じちゃいけない。絶対にだ。それはとても危険な行為なんだ。郵便配達員に必要なのは、文字通り郵便を配達する事だ。もちろん瓦町の坊やみたいなのには上がり込んで粗茶を不味いと吐き捨てるのもいいさ。だが奴だけは別だ。わかったね。わかったら返事をしな」


二人は顔を見合わせて、曖昧に頷いた。


「今日の配達は明日のための練習さ。明日起こる事こそが肝要なんだ」


僕の家に手紙を届けるという行為自体には、それほど大した意味はない、と瓦町さんは言った。それは老婆から予め聞かされていたことだったのかもしれない。

間野キミは畳まれた模造紙をちゃぶ台に広げた。それは島の地図だった。随分古いもののようで、色は褪せ、要所が黄ばんでいて、折り目に沿って破れかけていた。地図には等高線といくつかの地名が書かれていた。等高線は島全体を囲うように何重もの円を描いていて、島が円錐状をしているとすぐにわかる。老婆はその地図の一点を指差した。そこには、まるで全体から分裂するようにして、小さな円が描かれている。


「ここに藤原宇堂の家がある。ここからなら、まあ二時間以内にはいけるだろう。近くに出来損ないの丘があるから、すぐにわかるだろうさ」

「出来損ないの丘?」と、唐木田は訊ねながら、また出来損ないだ、と思った。

「この島の形は、完全な円錐にはなっていないんだよ。フタコブラクダの背中を思い浮かべるとわかりやすいかね。その二つのこぶのうち、一つがやけに小さい。大きい方が島、小さな方が丘さ。通称を溺れ丘ってね」

「溺れ丘? 溺れ谷ではなく?」

「あたしが言い間違える事なんかあるもんかい。溺れ丘だよ。昔からそう呼ばれてるのさ」

「危なくないの?」と、亜衣が危惧する。彼女の瞳は細かく揺れていて、不安と動揺が大袈裟に反映されている。「南側って、道なんかないんだよね?」

「もちろん危険さ」と、老婆は腕を組んで断言する。「そのための唐木田だ。今朝言ったろう、唐木田は用心棒だって」

「いくら僕でも野生動物を相手にするのは無理ですよ」


人の手の加わっていない森林に身一つで足を踏み入れる程、唐木田は無謀ではなかった。運動は得意ではないし、都会育ちでは勘も働かないだろう。ましてや危険だとわかっている場所だ。彼女の期待はあまりにも分不相応だった。


「大丈夫さ。危ないとは言っても、森には野犬だとか狼だとか熊だとかって肉食動物はいないんだ。蛇はいるが、せいぜいが青大将だよ。この島では、奴らは絶滅した」

「絶滅」と、唐木田は言う。自然の色濃い島で、絶滅という単語は似つかわしくなかった。サバンナ奥地のロイヤル・スウィート・ルーム、と唐木田は思った。彼女の言葉からはそれくらいちぐはぐな印象を受ける。


「島山羊」と、老婆は笑みを消す。予期せず、ごくりと大きな音が鳴った。それが自分の喉の音だと気付くまでに、唐木田は随分時間をかけた。「そいつが島の最大の脅威さ。島の南側にしか生息しない変わった山羊でね。用心棒が用心すべきは、まさにその島山羊なのさ。そいつこそ肉食動物を絶滅に追いやった元凶でね。見た目はそこらの山羊とほとんど変わらない彼らは、肉食動物の襲撃を受け、それらを例外なく返り討ちにした。だが島山羊は草食だし、縄張りを持たない。だから手を出さなければ襲われる事はないよ。だけど島山羊にも嗜好ってもんがあってね。大好物を前にすれば、奴らも目の色を変えて奪おうとする」

「大好物?」

「手紙さ」と、老婆はポケットから封筒を取り出す。宛名には藤原宇堂と明記してあった。「島山羊は手紙を喰うんだよ。いつまでも意志疎通出来ない白黒山羊みたいに、むしゃむしゃとね。実にうまそうに喰うんだ。一気に口に入れて一気に嚥下する。でも咽てこぼすようなもったいない事は絶対にしない。彼らは郵便配達員を見た瞬間、獰猛になる。獲物を狩って御馳走を口一杯に頬張るのさ。島山羊は、体表が黒ければ黒いほど危険なんだ。彼らの毛は、捕食した手紙のインクで段々と染まっていく。黒い奴ほど多くの手紙を吸収し、味を占めているわけだ。そんな奴らに遭遇するかもしれない森の中、亜衣一人ではとても行かせられないのはわかるね?」


老婆はじっと唐木田を見据える。これほど真剣な眼差しを、唐木田は見た事がなかった。


「やってくれるね、唐木田」


唐木田は即答しなかった。彼女には全幅の信頼を置いているが、それにしても突拍子のない話だ。彼は天井の木目に視線を据えて黙っていた。亜衣も老婆も唐木田を見て、両者ともに無言だった。結論を出すまで、物語は進行しないのだ、とでも言いたげに。


「その必要があるという事なんですね」検討の末、唐木田は口を開く。

「当然」

「それなら、まあ、いいですけど」と、唐木田は嘆息した。

「あんたならそう言うと思ったよ」と、老婆は目を見開いて三日月形の笑みを浮かべた。「まあ実際、島山羊なんて滅多に遭遇するものでもないんだ。万が一の保険くらいに構えていればいいのさ」


老婆は煙草を消して、地図を畳んで唐木田へと手渡した。それから腰を上げた。


「さて、話は以上だ。そろそろ煮えた頃だろうから、夕飯にしようかね」


間野キミが調理場に戻ってからも、亜衣は唐木田の隣で不安げな表情を崩さなかった。俯く視界に映る両拳は、かすかに震えている。彼女は必要以上に脅えている、感情を優先させる手合いとして。でもそれが普通なのかもしれない、と唐木田は思った。普通というものが何を基準にした相対価値なのかは少しもわからなかったが。


「怖い?」と、唐木田は声をかけた。

「とてもね」と、亜衣は蚊の鳴くような声で答えた。

「でも滅多に出会うものじゃない」

「そういう問題じゃないんだよ」と、亜衣は顔を上げてはっきりと言った。彼女の揺れる瞳は何かを訴えているようだった。だから亜衣の言葉はまだ続くように唐木田には思えたが、彼女はそれきり二の句を継がなかった。

彼女の論点がどこにあるのか、遂に唐木田にはわからなかった。島山羊か、溺れ丘か、手紙か、藤原宇堂か。それとも唐突な彼女の事だから、缶コーヒーや三十二匹の猫についてかもしれない。しかし唐木田にはそのどれもが正当ではないように思えた。腕時計は六時半を差している。外は日が沈んでいて、星空すらも巨大な雲に隠されていた。



間野キミは夕食に、島で取れる野菜各種の煮物に、アジの塩焼きを用意してくれた。一見して手は込んでいなかったが味は良好で、箸は進んだ。空腹が満たされていくうちに亜衣の不安もしぼんでいき、食事を終える頃にはすっかり笑顔が戻っていて、唐木田と老婆は内心で密かに胸を撫で下ろした。

食事を終えると三人で布団を敷き(唐木田は別室だった)、亜衣は浴室へ向かった。唐木田と老婆は再びちゃぶ台を挟んで向かい合った。


「疲れたかい」と、老婆は口火を切った。「今日一日、随分歩いただろう」

「いえ」と、唐木田は短く答える。

「遥々ご苦労だったね。あんたの町からここまでは、十三時間だったっけね」

「僕は本当に遅かったんでしょうか」

「何?」と、老婆は耳に手を当てて聞き返す。

「今朝、言いましたよね。遅いって」

「ああ、遥か昔の事をまぜっかえすじゃないか。そういえばそうだ。あたしは遅いと言って、やたらめったら早く到着したあんたを揶揄した」


そう言う老婆の顔は少しも笑ってはいなかった。煙草も咥えていなかった。


「でも僕は、致命的な失敗をしたような気がします」


それは今朝からずっと胸中に沈み込んでいた、暗雲のようなものだった。手を伸ばしても掴めず、目を凝らしてもそれはただの霧なのだ。それを唐木田は上手くまとめられないまま、慎重に言葉を選択しながら言った。


「あなたは嘘を言わない。嘘であってほしい事だって、いつも本当だったんです。だから間野さんが遅いと評価すれば、それは本当に遅かったんだと思えるんです。違和感とでも言うべきものが、ずっと引っ掛かってる。とうに競技を終えたトラックを、気付かないまま延々と走り続けているみたいな気持ちです」


「初めてあんたと会った時の事、覚えてるかい」と、老婆は唐突に話題を変えた。

「十二回夢に見ました」と、数秒の思考を経て唐木田は答える。


「あたしは屑入れから可燃物のあんたを拾い上げた。その時にきちんと可燃物の屑入れに改めて放っていればそれで片はついたんだ。そう思わないかい唐木田」問いを向けられた唐木田は答えに窮した。老婆は彼を一瞥し、回答を待たずに続けた。「あたしがした事はただの屑漁りだったのさ。不適当とはいえ処理されていたものを拾い上げたあたしには責任がある。その屑を再処理しなくちゃならない責任だ」

「もしかして、その責任を取る好機が、明日という事ですか」


老婆はその問いには答えなかった。それはとても珍しい事だった。それについて言及しようと唐木田は思ったが、浴室の方から亜衣の声が上がった。石鹸を切らしている、との事だった。老婆は腰を上げ、浴室の方へと向かい、唐木田の視界から消えた。


しばらくして亜衣が顔を出し、老婆と唐木田とが順番に浴室へ向かった。夜は更けていき、かえるの大合唱を聞きながら、明日に備えて各々は床についた。

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