第6話 それは惜しいなくし物だ

瓦町さんは昼食にトマトとバジルの冷製パスタを用意してくれた。彼は調理にほとんど時間をかけなかったが、出来上がった料理はとても手が込んでいた。畳敷きの部屋で三人でテーブルを囲って食べている間、猫達は鳴き声一つ上げなかった。食事という儀式を妨げてはならないというシステムが組みあがっているのかもしれない、と唐木田は思った。

食事が終わると、亜衣が遠慮のない大きな欠伸をした。


「眠いのなら昼寝でもしていくといい。僕は構わない。むしろこれから書斎に篭もるつもりだから、猫と遊ぶよりは寝息でも立てていてほしいところなんだ。もちろん、これから予定がないのなら、という事だけれど」


予定はない、と唐木田は言った。壁掛け時計を見ると十二時を僅かに過ぎたところで、老婆の予言によれば帰宅時刻までまだあと六時間あった。


「それなら休んでいくといい。場所と布団なら用意出来る。この通り広い家だからね」

「じゃあ、お言葉に甘えます」と、亜衣は目を擦りながら言った。「昨日は五時間程度しか眠れなかったし、今日は午前中だけで三時間以上歩いたもんね。疲れちゃった」


寝室に案内しよう、と瓦町さんは言って、立ち上がった。亜衣も立ち上がり、部屋を出ていく彼について行くが、唐木田は腰を上げなかった。


「寝ないの?」と、亜衣が振り返って訊ねた。

「眠くないんだ。僕はまた縁側に行って、本を読むよ」と、唐木田は答えた。

「そっか」と短く答えて、亜衣は瓦町さんと共に寝室へ向かった。


唐木田は小さな欠伸をしてから、部屋の隅に置いたトートバッグを手元に寄せる。ジッパーを開けて中身を探って、唐木田は『罪と罰』を船内に置き忘れてきた事に初めて気がついた。唐木田は嘆息する。そして疑問が脳裏をかすめる。唐木田は昨日、上巻の途中までしか読んでいない。それにもかかわらず、下巻までがなくなっている。唐木田に、下巻をバッグから外に出した覚えはなかった。どうしたことだ、と胸中で呟く。


「何かあった?」と、唐木田の心中を見透かしたような声が上がる。トートバッグから視線を上げると、亜衣を寝かしつけてきたらしい瓦町さんが唐木田を見下ろしていた。

「随分難しい顔をしている」と、瓦町さんは続けた。

「本をなくしたみたいなんです」

「どんな本を読んでいたんだろう」

「ドストエフスキー」

「それは惜しいなくし物だ」と、瓦町さんは貼り付けた微笑を変える事なくそう言った。「ここにいる間だけでも何か貸そうか。残念ながらドストエフスキーは本島の実家に置いてきてしまっているから、他の本でも良ければ」

「お願いします」


唐木田は、瓦町さんの好きな作家はいるかという問いに、特にはいないと答えた。瓦町さんは顎に手を当てて数秒の間悩んで、それから先に縁側へ行っているように言った。

庭ではほとんどの猫が午睡していた。それらの猫を三十二匹全て数え上げ、もう一度三十二匹を数えた。瓦町さんは薄い文庫本を持って来た。


「カフカの『変身』。読んだ事はあるだろうか」ない、と唐木田は答えた。「それなら、読んでみるといい。薄いからすぐに読み終わるだろう」

「ありがとう」と言って、唐木田は文庫本を手に取った。


瓦町さんは書斎に篭もり、城戸亜衣と猫達はそれぞれ別の場所で眠り、唐木田は本を読む。中天を僅かに過ぎた太陽の光は眩しく、その光線は暖気を伴って唐木田に降り注ぐ。一時間ばかり読書をしたところで、唐木田は縁側に身を横たえた。どうやら疲労が溜まっていたようで、襲い来る睡魔は強力で、どうしようもなく抗いがたかった。文庫本は閉じられ、唐木田は細めた目でぼんやりと庭の猫達を眺める。彼らのうち何匹かは顔を上げて、眠りにつくのを見届けるかのように、唐木田を睥睨していた。それこそがシステムの維持には重要なのだとでも言わんばかりに。唐木田は起きている猫から優先的に、数を数えていった。十二匹を数えたところで、彼はその身を睡魔に委ねた。



夢の中で唐木田は再び虫の視点を得ていた。一枚のキャベツの葉に乗った小さな青虫だ。しかし昨晩とは異なる点があった。彼はまさにグレゴール・ザムザのように姿を虫へと変貌させていた。客観的な差異はなくても、虫の視点を得ているに過ぎなかった昨晩とは確かに違っている。唐木田恭介の本質は唐木田恭介ではなく青虫に帰結している。


そこには一枚のキャベツの葉以外に何もなかった。他の生物はもちろん、植物も土も空もなかった。壁も床も見当たらず、上下左右の区別さえつかなかった。だから自分がどこを向いているのか、唐木田には見当もつかなかった。周囲は真っ暗闇で、無数の手足でキャベツの葉一枚の存在を確認するので精一杯だった。周囲を埋め尽くす暗闇を見て、唐木田は身を震わせる。果たしてそこには暗闇が有るのだろうか、それとも何も無いのだろうか、と唐木田は考える。それに対する回答は得られなかった。


しばらく葉の上を右往左往していたが、唐突に唐木田はバランスを失った。キャベツの葉が頼りなげにぐらりと傾く。唐木田が葉の裏側に周り込むと、茎の根元が腐食していくのが見えた。艶を放っていた白が、見る間に茶色の斑点に浸蝕されていく。その侵攻を止める術を持たない唐木田は、葉にしがみついて成り行きを見守る事しか出来なかった。やがて茎全体が茶色く染まり、乾いた土くれのようにあっけなく崩れた。支えを失った唐木田は、僅かに残った葉にしがみついたまま暗闇に落ちていく。落下の感覚は果てる事なく続いた。暗闇は底という概念を持たないのか、どこまでも落ちていく。もしもこの先着地する事があるならば、その衝撃は凄まじいものになるだろう。


永遠に落下を続ける唐木田は、重力に引っ張られる感覚に順応していった。はじめこそ着地時の恐怖が彼を襲っていたが、あまりに長い落下時間はそれさえ麻痺させた。

気付くと、唐木田は雑踏の中心にいた。交通量の多い交差点の真ん中で、無数の人々が忙しく行き交っている。落下の感覚はまだ続いていた。だから唐木田には、人々も交差点も、目に映る全てが共に落下しているように見えていた。

行き交う人々のうち一人が唐木田に気付き、黒瞳を眼下の青虫に注ぐ。するとそれを契機として、人々の視線が一斉に唐木田へと据えられた。続いて彼らは一様に口を開く。それは唐木田へ向けられた言葉だった。だが声は聞き取れなかった。それが青虫の聴覚によるものなのかは判然としなかったが、とにかく彼にはそれらの言葉の意味を把握する事が出来なかった。それでも唯一理解できる事があって、それは誰もが共通して、彼を蔑む文句を放っているという事だった。彼はひどく侮辱されている。しかも唐木田には、それが根拠のない薄っぺらな言葉だとはどうしても思えなかった。彼らの言う事はもっともであって、彼はそれを享受すべきなのだ。どうしてかはわからない。彼らは何に対して腹を立てているのだろう。それは遂に理解できなかった。落下が終わり、青虫は地面に叩きつけられた。


目覚めた頃には日が傾いていた。夕陽に照らされた唐木田はその眩しさに目を覚まし、ゆっくりと起き上がった。木板の上に寝そべっていたからか、背中と肩に疲労の塊のような痛みを感じた。唐木田は背中を反らせて腕を何度か回してみたが、解消される事はなかった。小さく嘆息する。時刻を確認すると、あと五分で午後五時だった。四時間近く眠ってしまった事にもう一度嘆息する。脇に置かれた文庫本は、栞も挟まれずに閉じられていた。


唐木田は立ち上がって、夕陽の朱に染まった庭を見る。そこに猫はいなかった。庭の隅まで見渡すが、三十二匹の猫は全て行方をくらませている。昼にしか活動出来ない猫、と唐木田は思う。彼らは太陽が沈むと共に姿を消し、夜の間は暗闇と同化する。どこからも見えない場所に腰を据えて、息を殺して朝日が昇るのを待つ。それこそ影のように。馬鹿馬鹿しい、と妄想を振り払うように唐木田は首を振った。


「起きたね」と、声がかかる。振り返ると、和室の奥から瓦町さんが顔を覗かせていた。例の微笑みを貼り付けて、彼は縁側まで歩いてきた。「ちょうど起こそうかと思っていたところだ」

「猫は?」と、唐木田は訊ねる。

「散歩に出ているよ。城戸亜衣さんが三十二匹の猫を連れて界隈を闊歩している」

「散歩?」と、唐木田はおうむ返しに訊ねた。

「妙な話だ。猫が人間に連れられて散歩に出ている。それも三十二匹もの猫が一様にだ。彼女を先頭に、まるで従者のように付き従っている。その数は一個小隊にも及ぶ。なかなかに圧巻だった。もうじき帰ってくると思うけれど」


彼の言葉は正しく、五分もしないうちに亜衣と三十二匹の猫は帰ってきた。亜衣の歩いた軌跡を追うようにして、一匹の猫が四肢を進める。その猫を中心に、残りの三十一匹の猫が扇状に広がって行進していた。


「はい、散歩はおしまい」


猫達を振り返った亜衣はそう言って、手を叩いた。それはそのまま号令となって、三十二匹の猫達は三十二通りの方向へ各々広がっていき、庭の各所に腰を落ち着けた。亜衣は満足そうに頷いて、唐木田へと視線を転じた。


「起きたんだね。どうする? そろそろ帰る? ここからお婆ちゃんの家まで一時間くらいだから、ちょうどいい時間だと思うけど」

「そうだね」と、唐木田は頷いた。いい頃合どころか、長居をし過ぎた。唐木田は瓦町さんに文庫本を返した。「ありがとう。途中までしか読めなかったけど」


瓦町さんは文庫本を受け取って、それをスウェットの大きめのポケットに入れた。


「どういたしまして」と言って、彼は笑みを濃くした。ただそれは、そうだと断言するには決定的に自信が足りない、とても微妙な変化だった。

彼が普段どんな事を考えて、どんな仕事をしていて、どのように猫達とシステムを構築するのか、唐木田には想像がつかなかった。ただ貼り付けられた笑みが習慣的にそこに在り続けるであろう事だけは容易に想像出来た。


唐木田は昼食を食べた部屋まで戻り、トートバッグを肩に提げて縁側に戻った。靴を履いて、亜衣の隣に両足を揃えて並んだ。


「いろいろありがとうございました」と、亜衣は頭を垂れた。昼食に布団に猫に、と指折り数えてから顔を上げる。「そのうち、また遊びに来てもいいですか」

「もちろん」と、彼は言った。それに続いて猫達が一斉ににゃあ、と鳴いた。「この通り猫達は君を歓迎してくれる。いつでも待っているよ」


亜衣は大きく手を振って、唐木田は浅く頭を垂れて、瓦町さんと三十二匹の猫に別れを告げた。真鍮が塗られた鉄扉をまたぎ、猫屋敷を後にする。再び砂利道を踏む。唐木田と亜衣は足下に伸びる影を見ながら、老婆の家へと歩き始めた。亜衣は三度(みたび)案内人としての手腕を発揮し、朱に染まる町並みを朗々と紹介し続けた。背後では海が夕陽に照らされて、まるで星空をひっくり返したような輝きを放っていた。だがその輝きは失われつつあった。すぐ隣に控える雲影が、急速に発達して星を呑み込んでいく。遥か上空の積乱雲は、日中よりも大きく、厚くなっていた。


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