第5話 猫は三十一匹でもいけないし、三十三匹でもいけない。僕と猫の社会は三十二匹と一人によって成り立つ
間野キミが走り去っていった方向に背を向けて、唐木田と亜衣は歩き出した。亜衣の言によれば、駄菓子屋までは徒歩で一時間、配達先である瓦町家まではそこから更に一時間程度かかるという事だった。いまは瓦町家と縁由のある亜衣が半歩前を歩き、唐木田を先導している。唐木田も島の地理は把握しているのだが、間野キミ以外の島民とは交流を持たなかった。各商店についてはある程度案内出来ても、人家となると誰よりも疎い。
左右には階段状に田園と森林が広がり、背景には海が並び、前方には島そのものと評して過言でない山が聳える。前回から少しも手を加えられていない風景を眺めながら、唐木田と亜衣は山の斜面を蛇行して登っていく。
道中、亜衣は島について様々な事を唐木田へ語った。彼女の知識量に比べれば、自分は島について全くの無知である事を思い知らされた程だ。どの田園が誰の所有であるとか、どの家に誰が何人で住んでいて何色の屋根を被っているとか、誰々の家は遊びに行くとお茶菓子が出るとか、何処々々の店は何が美味しくて何が不味いとか何が買得で何が暴利だとか、誰々の田園に一番蛙が集まるとか、遠く稜線の一部だけ禿げ上がっていてそれは七年前の火災が原因だとか、川の水は誰の家を境界線にして海水になるとか、どの細道を奥へ入ると近道になるとか、あるいは野生動物の溜まり場で危ないとか、そういった実に多種多様な知識を、喜々として説明し続けた。
彼女に観光案内の任を与えれば、この島だって観光名所になるに違いない、と唐木田は評価する。但し歩いていて目に入ったものを片端から解説するものだから、どれも中途半端に終わってしまって、唐木田の視線は忙しく右往左往した。いつの頃からか道はアスファルトから砂利へと変わっていて、そこに落ちる二人の影は段々と短くなっていった。
一つ一つ確認するように時間をかけて歩いて来たものだから、石田菓子に到着する頃には一時間半が経過していた。畑と草地に挟まれた店の看板は酷く錆びていて――それこそ前衛芸術と銘打てばどこかで響くかもしれない――、どう目を凝らしても解読出来なかった。だが老婆の言葉のとおり、シャッターには大きな穴がぽっかりと開いていたため、それが何よりの目印となった。その見事な穴を見れば、誰もが口を揃えて修理よりも買い替えを推すに違いない。猪って凄いんだねと、亜衣はしきりに感心していた。その大穴を、まるで神聖視するように猫避けのペットボトルが囲んでいたが、効果の程は定かではなかった。
亜衣はそれらを倒さないよう慎重に足を運び、唐木田も続いて店内へと足を踏み入れた。六畳ほどの面積しか持たない小さな店だ。四方を囲う長机と、中央に据え置かれたちゃぶ台が陳列棚の代わりとなっている。意外にも猫避けは効果を発揮しているようで、品物が荒らされた形跡はなかった。
亜衣には目当ての品があるようで、幅が五十センチもない通路を苦もなく進んでいく。彼女は数種類の菓子パンが並んだ奥の棚に手を伸ばした。
「ここのお店はね、何たって餡パンが絶品なんだよ」と、亜衣が解説を再開する。「逆に手を出しちゃいけないのが乾パン。乾燥しきってて、それこそお煎餅よりも固いの。噛み千切るとバリって音がするくらい。そのくせ餡パンより二十円高いんだ。出来ることなら、私は非常食にだって食べたくないね」
「へえ」と、唐木田は適当に相槌を打つ。
ぐるりと見回せばどれも十円から五十円の品物ばかりで、確かに空腹をごまかせそうなものは菓子パンくらいしか見当たらなかった。唐木田も通路を進んで、亜衣の隣に並ぶ。すると品定めするまでもなく亜衣から餡パンを手渡された。
「おすすめ」と、亜衣は満面の笑みを浮かべて言う。悪気はなさそうだった。
「まあ、いいけど」
空腹が満たせるのなら何でも良かった。唐木田は餡パンを片手に店内を一周して、チョコバーとカステラ、それからぬるくなったペットボトルの飲料水を手に取った。亜衣は餡パンを二つに、やはりぬるくなった飲料水を購入する。全部で五百四十円だった。
レジ台の横に小銭を置いて、二人は外へ出る。穴を避けてシャッターに体重を預けると、悲鳴にも似たみしりという音を立てた。唐木田と亜衣はその場で朝食を摂った。何せ、昨晩の夕飯からもう十時間以上が経過している。腹の虫は食事を前に大合唱を始めた。
亜衣の愛好する餡パンは確かに悪くなかった。少なくとも三十円のチョコバーと四十円のカステラよりは遥かに良質だった。唐木田は機械的にそれらを腹に収め、亜衣はパンと一緒に幸福まで噛み締めているようだった。だが僅かな涼味も感じさせない水には、彼女も顔をしかめた。
「これも出来損ないだね」購入した覚えのない苦虫を頬張りながら、彼女は言う。「ちょっとだけ遠回りになるけど、寄り道していこうよ」
「寄り道?」と、早々に朝食を済ませた唐木田は繰り返す。
「うん。すぐそこだから」
城戸亜衣は唐木田の返事も待たず、菓子パンの袋を丸めて屑入れに放り込み、歩き出した。駄菓子屋の隣には塀のような草地が広がり、草の背丈は唐木田よりも尚高かった。亜衣は躊躇する事なくその草地に分け入っていった。唐木田も慌てて後を追うと、彼女が草に隠れていた畦道を歩いているのだと判明する。彼女が掻き分けた草は、しかしすぐにしなって再び道を閉ざした。進む亜衣の姿が緑に覆われていくのを見て、唐木田も草の間の畦道を歩き出した。
視界に映るのは城戸亜衣と草の緑のみ。上方にも天蓋のように緑が広がっていて、陽光を遮断していた。日陰に加えて、草の朝露が服や肌に付着するものだから随分涼しかった。出来損ないのトンネル、と唐木田は思った。
「島の人もほとんど知らないんだよ、この道」亜衣は前を向いたままそう言った。唐木田が声に出さずに頷くと、それを察知したように言葉を続けた。「この土地は所有者が決められてなくて、宙ぶらりんなんだよ。だから通っていいのかもよく知らないし、通ったところでこの先は袋小路でどこにも続いてないの。そこで終着」
だが彼女はわざわざその畦道を分け入っていく。恐らくは何かしらの意味を引き連れて。
一分も歩かないうちに出来損ないのトンネルは終わった。距離にして百メートル程の道程を経て、二人は狭い空間に出た。二メートル四方程の空間だけが、まるで何かの不手際のように草木が生えていなかった。繁茂する植生に囲まれたその空間を貫くようにして、川が流れている。木々の間隙を縫うように下方へ流れていく。中流域に位置するらしく、その流れは早くも遅くもなく、幅は一メートル程度だった。
亜衣はペットボトルの水を川へ流し、入れ替わりに川の水を汲んで飲んだ。
「島の水は、どういうわけかここが一番美味しいんだよ」
言って、亜衣はペットボトルを唐木田へと手渡す。水質の良し悪しは判然としないが、見る限りでは非常に澄んでいるように見えた。飲んでみると、確かにうまかった。
「うまい」と、唐木田が言うと、亜衣が満足そうに微笑んだ。
「じゃあ戻ろうか。ここはあまり長くいたらいけないの」言って、彼女は踵を返す。
「どうして?」
「どうしてだろう」彼女はしばらく宙に視線を彷徨わせて解答を探した。しかしそれは遂に木陰から姿を現さなかった。「よく分からないんだけど、そういう予感がするの」
「ふうん」
別段異論もなかったため、唐木田と亜衣は来た道を引き返して(今度は唐木田が先頭だった)、出来損ないのトンネルから駄菓子屋の隣へと戻った。
唐木田と亜衣は郵便配達への歩行を再開する。亜衣が先頭を切り、砂利道を進みながら方々を解説していく。唐木田がそれに適当な相槌を打っていく。景色自体は鬱蒼とした木々と道と空と海ばかりで、たまに住居や商店が見えるくらいで、それらはどこまで歩いても変化を見せない。にもかかわらず、案内は口をつぐむ気配もなかった。
二人はいくつかの建物を通過して、太陽は起き上がっていった。位置を変えているはずの太陽に、身を寄せ合うようにして入道雲はくっつき続けていた。
また一時間半ばかりが経過して、亜衣は一軒の平屋の前でぴたりと立ち止まった。
「はい到着。ここが瓦町さんの家だよ。通称を猫屋敷」
「猫屋敷?」と、唐木田が訊ねると、回答は門構えからやってきた。にゃあ、と一鳴きすると、まだ幼い三毛猫は亜衣の足下にまで擦り寄ってきた。猫を抱き上げる亜衣を見ながら、唐木田は納得する。「ああ、それで猫屋敷」
「そう。とはいえ、そう呼ぶのは城戸亜衣さんだけだけれど」
唐木田の言葉に応じたのは、言うまでもなく城戸亜衣でも三毛猫でもない。視線を転ずると、門扉にもたれかかるようにして一人の青年が立っていた。長身痩躯という言葉が似合う体型で、夏だというのに黒の長袖シャツとスウェットを履いている。顔立ちが幼い印象を与えるために、年の頃は二十代前半にも見えたし、三十代後半にも見えた。彼が猫屋敷の主人なのだろうか、と思うと、亜衣が一歩前へ出て頭を垂れた。
「こんにちは、瓦町さん。お久しぶりです」
「久しぶりだね」と応じてから、瓦町さんは亜衣から唐木田へ視線を転じた。「するとそちらの少年が、唐木田恭介君? 間野さんから聞いているよ」
唐木田は黙って頷く。自分の知らない人間が自分の事を知っている。それはどこか居心地が悪いしフェアじゃない、と彼は思う。瓦町さんは口元に薄い笑みを貼り付けている。無表情だと世間体が悪いから仕方なく貼り付けたという感じの笑みだ。その形には、薄っぺらい親愛に似た別の何かが宿っている。それが何かはわからない。唐木田は彼の目を見るが、長い前髪に隠れて表情は読み取れなかった。目にだって、たまには口ほどにものを言わない時もあるのだ。
亜衣は手紙を瓦町さんに手渡した。瓦町さんはとても長い間宛名の方をじっと見据えていた。五分は経っていなかったが、三分は経っていた――そんな時間だ。隠された暗号を解読しているのか、あるいはインクのにじみ具合から製造元を割り出そうとしているのかもしれない。少なくとも唐木田にはそう思えた。瓦町さんはそれと同じくらいの時間をかけて裏の差出人の方を見ていた。亜衣はその様子を一言も話さずにじっと見つめていた。猫ですら声を上げず、微動だにしなかった。その行為を妨げてはいけないと承知しているように。
瓦町さんは顔を上げて、ようやく一帯の沈黙を解き放った。
「ありがとう。わざわざ届けてもらえてとても嬉しいよ」貼り付けた微笑で、彼は続ける。「少し上がっていくといい。城戸さんが来たと知ったら、猫たちも喜ぶ」
「はい、是非」城戸亜衣は心からの笑顔でそう答えた。間野キミが配達に十二時間を想定した理由は、たぶんそこにあるのだろうと、唐木田は思った。
「ほら、行こうよ」
亜衣に手を引かれるようにして潜った瓦町家の門扉は、非常に重厚な作りをしていた。基礎は鉄で出来ていて、その表面はよく磨かれた真鍮で覆われている。それと同質の塀が平屋を囲っているから、あるいは嵐にも耐え得るかもしれない。だが頑丈さ以外に誉めるような点は見つけられなかった。
二人は玄関ではなく庭に案内された。手入れの行き届いた庭には、全部で三十二匹の猫がいた。体格が大きいものも小さいものもいた。生後間もないものも老いたものもいた。太ったものも痩せているものも、体毛が長いものも短いものも、黒いものも白いものも茶色いものも混色のものもいた。唐木田は思わず息を呑む。亜衣が瓦町家を猫屋敷と称した理由を改めて思い知り、見解を改める。この家には、猫も住んでいるのではなく、人間も住んでいるのだ。もはや主体は猫にあり、主体としての種々雑多な猫達はたいていが昼寝をしていた。ぐるぐると忙しく外周を回っていた一匹の猫が、幼い三毛猫に連れられた人間達に気付く。彼(あるいは彼女)が、にゃあと一声を上げると、残りの三十匹の猫達は一斉に目を覚ました。彼らは夢にまどろむ様子も見せずに、すらっと立ち上がる。三十二対、計六十四個の瞳が一点に集中する。完全に統率された動きに圧倒されるも、その視線に敵意のようなものはなかった。向けられているのは、はりぼての微笑とは比較にならない程の友愛の感情だ。
猫達は敵意がないことを示すように、慎重に足を運んでゆっくりと近づいてきた。やがて彼らは城戸亜衣を囲み、かしずくように腰を下ろして首を伸ばした。
亜衣は満足そうに大きく頷き、「おいで」と声を放った。それを契機に、猫達は一斉に尻尾を振って亜衣の足下へ殺到した。
「彼女、とても猫に好かれるんだ、どういうわけか。君も囲まれてくる?」
瓦町さんの問い掛けに、唐木田は首を横に振る。
「それなら話し相手になってもらえるかな。知り合いがみんな避難してしまったものだから、ここ三日ほど人間とは会話していなかったんだ」
人間とは、と瓦町さんは言う。もちろん猫との会話は欠かさなかったのだろう。
「彼女、家へは二年前に一度来たきりなんだ。つまり今日で二回目。にもかかわらず全ての猫が彼女の事を鮮明に覚えていて、尚且つ懐いている。まるで昨日会ったみたいにね。不思議な話だ。尻尾を振ってじゃれついている。彼らは猫であって、犬ではないのに」
縁側に腰掛けて庭を眺めながら、瓦町さんは言った。隣に座す唐木田は、にじり寄る三十二匹の猫の様子を思い起こす。もしも彼らが憎悪を原動力にしていたならば、それは覆しようのない恐怖を体現したに違いない。だが実際には彼らは非常に友好的で、何かの弾みで爪を立てることさえしなかった。にもかかわらず、唐木田はもしもを想像してしまう。それは悪夢の記憶のように、気を抜けば唐木田の脳裏を通過していった。完全に統率された猫、と唐木田は思う。そんな猫が存在するのだ。それも三十二匹も。
唐木田は庭でじゃれ合う亜衣と猫たちを見ていた。
「あそこにいる猫、全部飼ってるんですか?」
「そうだ。だけど飼育というよりは共存に近い。僕は彼らを必要としているし、彼らも僕を必要としている。相互関係としては非常にフェアだよ」
「三十二匹も必要だったんでしょうか?」
問いを重ねると、彼は例の微笑を庭から唐木田へと向けた。
「君の言いたい事は分かる。一匹くらい欠けても問題ないんじゃないか、という事だね。でも端的に言って、答えはノーだ。猫は三十一匹でもいけないし、三十三匹でもいけない。僕と猫の社会は三十二匹と一人によって成り立つんだ。それぞれに役割がある。僕らのシステムは三十三の役割によって成立する。その役割は交換する事は出来ても統合は出来ない。増減も出来ない。融通が利かないと思われるかもしれないけど、そうじゃない。企業だってそうだ。足りなければ補充するし、多過ぎれば減らす。システムを維持するのには最適な数というものがある。僕の言っていることはわかるだろうか」
「だいたいは」と、唐木田は言った。
「もちろん欠員が生じる事もある。生き物である以上それは避けられない。流動性というものは失われないし、無視する事も出来ない。そういった問題が浮上してくると、僕らは安定性を失う。役割が十分に作用しなくなる。ひどく混乱し、不必要に問題を大きくしてしまう。ふすまに開いた穴を自らで広げてしまう。それも無意識的に。だから混乱が収束するまでにとても時間がかかる。その歳月を経て僕らは安定性を再び獲得する。だけどそれらは繰り返す。循環として。つまりいま現在、僕らは小康状態にある。どうしてこんな循環が生まれるか、君にはわかる?」
唐木田は彼の笑みを見ないようにして、しばらく彼の言葉を整理する事に努めた。
「安定性を求めているから?」
「それも完全な安定性だ」と、瓦町さんは訂正する。「企業のシステムには、僕らのシステムと違って採用と退職という入れ替わりの制度が組まれている。前者はともかく、後者は無視出来ない制度だ。でもシステム的にその欠員は、いわば希望しない減少だ。それが毎年やって来る。その度に安定性を欠くわけにはいかない。それでは企業として成立しないから。彼らは安定し続けなければならない。だけれども完全に安定し続ける事は出来ない」
そこで彼は言葉をとめる。その沈黙は唐木田に発言を促していた。
「そこそこに安定し続けることなら出来る、ということ?」と、仕方なく彼は答えた。
貼り付けた微笑に変化はなかったが、瓦町さんは満足そうに頷いた。
「その通りだ。そこそこの安定性ならば維持していける。変化に対応出来るようになる。ケーキが十個に皿が十枚あれば、彼らは一皿に一つずつ乗せていく。だけれども僕らはそれをしない。完全な安定性を求めてシステムを構築する。それは失われる事のない流動性を無視した永遠に損なわれない安定性だ。僕らは十個のケーキを全て一つの皿に乗せる。だけれども、もちろんそれは致命的な矛盾を抱えている。そのシステムは一時的に限りなく完成形に近い効果を発揮する。色々なものが流動する。僕らはひどく混乱する。致命的に限りなく近い混乱だ。やがて混乱が収まる。そうして循環が生まれる。僕らが獲得した安定性は、完成に限りなく近いものであり、同時にとても不安定なものでもある」
唐木田には、それが冴えた方法だとはどうしても思えなかった。しかし瓦町さんにそれを悲嘆している様子はなかった。
「なぜ、そんな安定性を選ぶんですか」
「君ならそこそこの安定の方を選ぶ?」
「ええ」と、少し考えて、しかし唐木田ははっきりと頷いた。
「それなら逆に、どうしてそんな安定性を選ぶんだろう?」と、瓦町さんは問いを重ねる。唐木田はまた少しの間考えて、慎重に言葉を選んで声に出していく。
「全体として見比べた時、そこそこの安定性の方が、より安定していると僕は思います。不完全であるとしても、瓦町さんと猫達のそれよりもずっと完全だと思う」
「でもそれは僕らのシステムのマイナス面ばかりを論じている。僕らが目指している完全な安定性というものには、向上に対してとても行動的でなければ届かない。僕らは実際、そこそこなんて受動的なシステムでは辿り付けない地点に到達している。一時的にせよ、ということではあるけれど、僕らはより完成している」瓦町さんは一息ついて、肩をすくめた。「まあ、最後には好みの問題だけれど」
「優劣の問題とは違う、という事ですか」唐木田は昨夜の客船で交わした会話を思い出していた。
「そうかもしれない。たいていの問題はそうだけれど、この問題も視点によって優劣が逆転するからね」
庭の方から、短い悲鳴のような声が上がる。見ると、亜衣が尻餅をついていた。足元の猫を避けようとして、足がもつれたのだろう。完全に統率された猫でも、彼女の唐突さには多少の混乱をきたすのだろうか、と唐木田は思った。あるいは確信犯かもしれない。
別の話をしようか、と瓦町さんは言った。ただそれきり話題を提供する様子も見せなかったため、唐木田は話題を探した。それを見つけるまでには、猫を二十七匹数えるだけの時間を費やした。けっこうな時間だ。
「キミさんから、僕の事を聞いたと言ってましたよね」
「言ったね。確かに」
「どんな事を聞いたのか、教えてもらえませんか」
「それは出来ない」と、瓦町さんは首を横に振った。それはとても洗練された首の振り方だった。「実は、間野さんから口止めされている。なぜ口止めする必要があるのかはわからない。だから僕が自分の判断で口を割る事も出来ない。申し訳ないとは思うけれど」
今度は唐木田が首を横に振る。瓦町さんに比べると、ひどく未熟な首の振り方に見えた。
「気にしないで下さい。あの人はいつもそうだし、僕には逆らう気もありませんから。多分、何か合理的な意味があるんだと思います」
「でもこれだけは言える」と、瓦町さんは言った。「僕の家に手紙を届けるという行為自体には、それほど大した意味はない。君にとって特別に重要なメタファーではない。もちろん全くの無意味ではないけれどね。そういうわけだからこの家で得られる成果はほとんどないし、同じように失敗もない。ただの通過点だ。気構える事はない」
唐木田は曖昧に頷く。よく意味がわからなかった。だが言葉通りに捉えれば、瓦町家に有意味な脅威はないという事だ。それはまるで、これから先に有意味的な脅威が待ち構えているかのような言い方だった。唐木田が表情らしい表情を作れないでいると、瓦町さんはほかに聞きたいことはあるか、と訊ねた。唐木田は二十九匹まで猫を数えた。
「手紙の差出人は、誰でしたか?」
「義理の兄からだ。妻のたった一人の兄弟で、実に気難しい人でね。これは妻に先立たれてから初めての手紙にあたる。君は聞きたいだろうか、詳しい話を?」
唐木田は躊躇う事なく首を横に振って否定した。別段聞きたいとも思わなかったし、その程度の覚悟で聞いていい事でもないだろうと思えた。瓦町さんは微妙に表情を変えた。でもそれが笑みを濃くしたのか顔をしかめたのか、唐木田にはわからなかった。
「そうだ」と、瓦町さんは、予め決められた動作を再現するようにして人差し指を立てた。「彼女については口止めされていない」
「彼女」と、唐木田は繰り返し、猫と戯れる少女に視線を向けた。
「この世で最も先天的なものが何か、君にはわかるだろうか」
瓦町さんの問い掛けに、唐木田はほとんど反射的に首を横に振った。最も先天的なものについて考えた事など、ただの一度もなかった。
「僕は家電だと思っている。冷蔵庫、炊飯器、掃除機といった類のね。彼らは――敢えて彼らと呼ばせてもらうけれど――先天的に役割が決定している。冷蔵庫は冷蔵のために、炊飯器は炊飯のために、掃除機は掃除のために存在している、言うまでもなく。重要なのは、役割がそのまま彼らの名称となっている事で、それがつまり最も先天的であるという根拠だ。掃除機が冷蔵する事はないし、炊飯器が掃除をする事は絶対にない。何せ彼らはそれぞれ掃除機であり炊飯器であり、冷蔵庫であるからね。そしてそれは僕や君のような人間には決して起こり得ない」
瓦町さんはそこまで話すと息をつき、そのまま沈黙した。彼は結論を促している。唐木田は少しの間考えて、口を開いた。
「僕の場合、恭介は後天的な名称である、ということ?」
「その通り」と、瓦町さんは首肯する。「もちろん名付けた際に込められた意味はあるのだろうけれど、それは先天性と呼ぶには曖昧に過ぎるものだ。掃除機の持つ先天性にはとても敵わない」
確かにその通りだと頷く一方で、唐木田の胸中には疑問が浮かんでいた。
「それと彼女と、何の関係があるんですか?」
「わからない?」
唐木田は頷く。瓦町さんはあくまでも声の調子を変えずに答えた。
「つまり、家電と同じように、城戸亜衣もまた非常に後天的であるという事だ」
意味はわからないかもしれないけれど、と瓦町さんは付け加えた。彼の案じた通り、唐木田には意味が全く理解できなかった。
「昼食にしようか」唐木田が首を傾げるのを尻目に、瓦町さんはそう言った。
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