裏返しのパズル

【セント】ral_island

第1話 砂糖もミルクも入ってないコーヒーなんて、滑り台もブランコもない公園か、我侭もなければ失敗もしない人間みたいなものよ

その真っ黒な封筒が届いたのは、猛暑と呼ぶに相応しい、夏の盛りの午後のことだった。郵便受けから手に取ったそれは、やはり見慣れた封筒だった。表裏を隈なく観察するが、いつものように宛名も差出人も記されてはいない。そんな礼儀を欠いた封筒がなぜ届くのか。その疑問を、考えるだけ無駄だと諦めたのはいつだったか。少なくとも遠い昔だ。


皺一つなく光沢を放つ黒の封筒は、どこかホテルマンのスーツを髣髴とさせ、夏の日差しにも平然としているように見える。実際、黒の封筒は汗一つかいていなかった。対照的に、唐木田(からきだ)の格好はひどいものだった。何せ夏期講習からの帰りで、熱線を放つ太陽と焼けたアスファルトに挟まれての帰路である。生地の薄いブルーのシャツの背中では塩水の滝が流れ、カーキ色のハーフパンツの中では優れた通気性もどこ吹く風である。ハンカチを忘れたことを悔やみ、腕で額の汗を拭った。


参考書に占拠されたトートバッグに封筒を突っ込み、ポケットから鍵を取り出す。鍵を鍵穴に差し込む。開錠する。ドアノブに手をかける。扉が開く。唐木田は家の敷居をまたぐ。


彼を出迎える声はなく、彼自身もまた、それに不平を訴えない。それは何年も前から継続している不文律だった。唐木田が床に着く頃に両親は目を覚まし、両親が床に着く頃に唐木田は目を覚ます。特に記念日を設けていないから、その習慣が何年目になるのかはわからない。ただ、始まりを思い出せない程度には長い習慣だった。


あと三日で十八歳を迎える唐木田は、廊下を三歩進み、右手の自室に入る。こもった熱でサウナと化した部屋に辟易しながら、勉強机にトートバッグを放り、ベッドに腰掛けた。ベッド脇の書棚、その最上段にあるリモートコントローラーへと手を伸ばし、エアコンディショニングのスイッチを入れる。すぐに送風口から冷たい風が吐き出され、唐木田の頭髪をわずかに揺らした。ぐっしょりと濡れたシャツが肌に纏わりつくが、着替えるのは面倒だった。風邪を引くかもしれないが、風邪を引くかもしれないだけだ。その事について、殊更興味は湧かなかった。


それよりも唐木田の思考は、そのほとんどを黒い封筒に埋め尽くされていた。一旦ベッドから腰を上げて、トートバッグから封筒を取り出し、封を切りながら再び腰掛ける。


例に漏れず、中身は一枚の薄っぺらな紙片のみだった。罫線も引かれていなければ、四角形でもなく、そもそも便箋ですらない。メモ帳を荒々しく破り取ったような、ともすれば屑入れから拾ってきたような、いびつで、くしゃくしゃな紙片である。紙片に書かれた文面も前回までと同様で、達人も思わずうなるような達筆で、あるいは現代かな使いに進化したばかりの象形文字で、ただの二文字、


『来い』


とだけあった。相も変わらず横柄極まる態度は、否が応にも彼女の豪快な笑声を思い起こさせる。「飾ったって仕方がないじゃないか」と、彼女はよく言ったものだった。


「意思ってやつは伝わればいいのさ。いかに迅速に誤解なく伝えるか。それが肝要なんだ」


脳裏に、つらつらと説教を並べ立てる彼女の容貌が浮かび上がる。成程、彼女は装飾品の類を一切身につけていなかった。化粧をした顔も見たことがない。口紅などは非常食程度にしか思っていないのだろうと愚考する。あながち的外れでもなさそうだった。


唐木田は紙片を封筒に戻しながら、彼女の言葉が正しいことを改めて認識する。ただの二文字で、用件は明確に伝わっていた。唐木田と紙片との間で行われた意思疎通に、誤解の付け入る隙はなかった。そうであるならば、唐木田は行かねばならなかった。


屑入れに封筒を突っ込み、トートバッグの中から財布を取り出して紙幣を数えた。一万円札が一枚に、五千円札が二枚、千円札が六枚。これなら貯金を崩さなくて済みそうだと見当をつけ、続いて唐木田はトートバッグをひっくり返した。総重量五キロを記録しかねない参考書が、雪崩れてカーペットに散乱する。それらを一瞥することもなく、唐木田は財布ととりあえずの着替えをトートバッグに突っ込み、早速自室をあとにする。玄関で靴を履く。ドアノブに手をかける。扉が開く。唐木田は家の敷居をまたぐ。ポケットから鍵を取り出す。鍵穴に差し込む。施錠する。唐木田はエアコンディショニングの電源を切り忘れていた。吐き出され続ける冷たい息吹は内を凍らせ、外に熱を捨てていく。


差出人不明の黒い封筒の中には、行先未指定のくしゃくしゃの伝言。にもかかわらず唐木田は、誰が何処で自分を呼んでいるのかを承知していた。

歩き出すと、太陽が日中を過ぎて三時間は経過しているというのに、背中に枯渇したはずの塩水の滝が息を吹き返した。太陽光線とアスファルトの照り返しに挟まれての道程は遥か遠い。驚いたことに徒歩で七分もかかった。駅だ。



目的地までは、都心から逃げるように鉄道を三本乗り継ぎ、港から船で七時間を要する。鉄道は三本ともが始点から終点までの乗車で、一本あたりの所要時間はおよそ二時間。つまり全工程を終えるには十三時間を必要とし、向かう先がいかに僻地であるかが窺える。腕時計を見ると、午後三時半である事を指し示していた。夕飯を食べる時間も加算して、唐木田は夜間の船内を寝床にする事を決めた。


最寄り駅の券売機で最高額の切符を購入し、ふと唐木田は本屋に立ち寄る。彼には文庫を常備する習慣があったが、いまは参考書と一緒くたにして置いてきてしまっていた。長距離に財布一つでは心もとない。適当に書棚を眺めて、ドストエフスキーの『罪と罰』の上下巻を購入した。乱読家である唐木田は、特定の作家に傾倒しなかった。『罪と罰』だって、書棚からなるべく厚いものを選んだに過ぎない。唐木田は二冊をトートバッグに収め、切符を改札口に投入した。無機質な検問官は切符を吐き出し、通行を許可した。「但し戻る事はできない」と静かに言い添えて。だが、唐木田にそれを聞いた様子はなかった。


唐木田の利用する鉄道は正常通りの運転を続け、時速六十キロ前後で連綿と乗客を運んだ。唐木田はその間、老婆を殺害したラスコーリニコフの動向を淡々と読み続けた。老婆の高慢な口振りは、また彼女の豪快な笑声を思い出させたが、両者には決定的な差異があった。彼女は高慢だが卑屈ではないし、老いているが衰えてはいない。そもそも、斧で殺した程度で彼女が死ぬとは到底思えなかった。

二本目の鉄道から降車したところで、駅構内の小さな蕎麦屋で安い蕎麦を食べて夕食とした。都心からの距離と反比例して乗客は減っていき、やがて車両を独占するに至った。その頃には、すっかり塩水の滝は涸れていた。三本目の鉄道に乗車してからは睡魔に身を委ねた。


そうして唐木田は夢を見る。奇想天外と言うには程遠い現実的な夢だった。というのも――脚色を加えられてはいるものの――それは実際に起きた出来事だった。

唐木田は路地裏の屑入れに頭を突っ込んでいた。遮断された視界はただ暗闇に埋め尽くされ、つんと鼻をつく腐臭を嗅いでいた。ひどい臭いに吐き気を催し、吐瀉物をそのままぶちまけた。臭いは一層ひどいものになった。また吐き気がこみ上げてきたが、腹中にはこれ以上吐く物がなかった。霞む思考で身体を動かそうとすると、痛覚という痛覚が刺激されるような激痛が走った。全身傷だらけなのだろうと唐木田は見当をつけ、ああまたこの夢かと嘆息した。幾度も見た夢。今回で十二度目だ。確か、どこかの飲食店の裏口にある屑入れだった。わずかに届く雑踏が屑入れの円周で反響して、それはまるで遥か遠方の世界から漏れた囁きのようで、出会った事もない運命の人を思わせた。


唐木田は文字通りの夢中で、この後の展開を思い出す。確か、全くの唐突に首根っこを掴まれ、屑入れから乱暴に浮上させられるのだ。その通りの事が起きた。唐木田は全くの唐突に首根っこを掴まれ、屑入れから乱暴に浮上させられた。ただでさえ虫の息だった唐木田は、満足に呼吸も出来ずにむせ返った。四つん這いになってアスファルトに唾を吐き散らし、ひゅうひゅうと新鮮な空気を肺一杯に満たした。そして、その様子を見下す影があった。その影は美味そうに紫煙を吐き出して言ったものだった。


「この屑かごは不燃物専用だよ。だけど、あんたはどう見ても可燃物じゃないか。あたしの言う事はわかるね坊や。つまるところ、お門違いだよ」


それが、唐木田の聞いた彼女の最初の言葉だった。


鉄道での移動を終えてホームに立つと、夜の帳はすっかり落ち込んでいた。時計を見ると午後十時を五分過ぎていた。凝り固まった身体をほぐすように伸びをして、唐木田は改札口へと足を向ける。改札口に切符を滑り込ませると、無機質な検問官が通行を許可する。「但し戻る事はできぬ」と静かに言い添えたが、唐木田の耳朶を打つには至らなかった。


夜気に冷やされた空気がひんやりと頬を撫でる。どうやら都内では珍しくない熱帯夜も、なりを潜めているようだった。往来の乏しい道路を歩いていると、たまに思い出したように街灯が現れてその眼下を照らした。照らし出されて不意に現れる蝉の死骸を、危うく踏みそうになってたたらを踏んだ。唐木田の思う以上に往来は少ないのだろう――そんなものが、堂々と道路の真ん中に胡座をかいているのだから。


六万時間以上もの準備期間を経て、満を持して百六十八時間を飛び回った古老は、先を行く唐木田に尋ねた。「準備は十分に済ませたかね、この私のように」。


港までの距離は、観光客や帰省客のための計らいか、歩いて十分とかからなかった。住宅街を越えるとまず水平線が、間もなくして船体が姿を露にした。唐木田を乗せる白い船は、貨物船を改良したような、のっぺりとした体躯をしていた。甲板に設けられた柵は見るからに実用性重視で、美術性を思わせる装飾は一切見受けられない。また、船体の要所にコンテナを固定するための留め具の跡が残っていた。だが貨物船にしては規模が小さく、その船の活躍する姿を、唐木田は想像する事ができなかった。唐木田は船体を見上げながら、一つ大きく欠伸をする。それは志気を高揚させるにはあまりにも似つかわしくなかった。


やがて唐木田は船着場に足を踏み入れ、船員から乗船券を購入した。まだ若い船員は怪訝な表情で、興味津々といった態度を隠そうともしないで、唐木田に尋ねた。


「失礼だが、誰か、急に倒れたりでもしたのかい?」

「いえ」唐木田は無表情に短く答えた。

「そうかい、それは失礼な事を訊いた。いやね、予約もしないで夜間船に乗るお客さん、珍しいもんだから。じゃあ、まあ、良い旅を」


船員は取り繕うように言って、すぐに興味を失ったようにそっぽを向いた。

唐木田は乗船券を片手に、船に乗り込む。ぐらぐらと揺れる床にも慣れたもので、足取りに危なっかしさは見受けられなかった。船内を進んでまず唐木田を迎えたのは、通路右側の、低い壁で仕切られた小さな五つの広場だ。一つあたりの大きさは畳六畳分程度で、通路脇に下駄箱が設置してある。通路を挟んで向かい側には、等間隔にプラスチック製の椅子を二十個並べただけの客席が設けられていた。客船というには小さい規模だが、唐木田はその空間を広いと感じた。というのも、彼のほかに乗客は一人しかいなかったのだ。自然と、唐木田の視線は乗客に向いた。


五つのうちで一番右船側にある広場に、その乗客は座していた。壁にもたれかかって、足を投げ出している。白い両足は素足を晒し、ゆらゆらと左右に揺れて、静かにリズムを刻んでいた。それに合わせるように、同じく左右に揺れる首。それに呼応して流れる、肩までの黒髪。


乗客は女性だった。まだ少女と呼んで差し支えない幼い顔立ちで、年齢は唐木田と同じか、僅かに下回る程度だろう。眠たげに目を細め、微かに動く口元を見て、唄っているのだろうと見当をつける。ただ唄声は極めて小さく、その旋律は杳として知れなかった。無意識のうちに、唐木田は体勢を崩さない程度に耳を澄ませていた。


不意に、唐木田の全身を既視感とも言うべき感覚が襲う。しかし、それは同様の光景を以前に見たという感覚ではなかった。だがそれは紛うことなき既視感であった。その正体を見極めようとすると、突然吐き気を催した。咄嗟に口元を押さえ、腹の底へ意識を向けると、驚いた事に唐木田は音を聞いた。静かで、しかし荒々しい息遣いだ。なぜいままで気付かなかったのだろうか。その巨大な存在感に。何か得体の知れないものが、腹の底で舌なめずりをしていた。ごろごろと雷の如き下卑た笑声を響かせ、じっと見据えて狙っているのだ。そいつはずるずると四肢を引きずり、喉の先にまで這い登ってくる。広い視界を確保し、より鋭利に見据え、あわよくば外へ出ようとする。そして何かを激しく訴えるのだ。求めるのだ。渇望するのだ。


唐木田は焦燥にも似た衝動に駆られて、大きく一度、頭を振った。すると一瞬のうちに、喉から腹の底にかけての存在は消失した。まるで幻覚だったかのように、忽然と姿を消してしまったのだ。その存在はどうやら既視感も共に連れ去ったようで、少女に視線を向けても、もうそういった感覚に襲われることはなかった。彼女は先と変わらず、全身をゆらゆらと揺らしてリズムを刻みながら、小さく唄い続けていた。


唐木田は歩を進めてその少女から離れた。明確な理由こそないものの、彼女から離れる必要があるように思えた。唐木田は客席へ足を向けて、最前列の左端に腰掛けた。潮風に吹かれたのか、プラスチック製の椅子はところどころで変色し、老朽化している。座した際にもぎしりと不安を掻き立てる音を立てた。唐木田は慎重に足を組み、『罪と罰』のページを繰った。ラスコーリニコフが気絶した。


船は白波を切って海上を進む。速度二十ノット毎時での航行を続けながら、巨体は躊躇いがちに体躯を揺らして唐木田に通告した。「君が君でいられる時間が終わる」。


「好きですか?」

「――はい?」


マルメラードフが馬車に轢かれたところで、ふとした声が闖入し、唐木田は顔を上げた。

その声が自分へと向けて放たれたものなのか、唐木田には判断がつきかねた。何しろ唐突だったし、返答自体も、声に応じたというよりは反射運動といった方が克明であろう。顔を上げて彼女を視界に入れて尚、唐木田には声をかけられたという確信が持てないでいた。

声をかけたのは――その対象が唐木田であるとすれば――唐木田を除けば唯一の乗客であるところの少女だった。彼女はうっかり冬眠から早く目覚めてしまった熊のような表情で眼下を見下ろしている。唐木田もまた、同じような表情で彼女を見上げていた。少女は困ったように一度首を傾げた。


「えっと、好き? 缶コーヒー?」


そう言う彼女が差し出しているのは缶コーヒーだった。そこに至って、唐木田はようやく得心した。少女は缶コーヒーの好き嫌いを尋ねている。だがそれならそれで、もっと理解し易い尋ね方をすればいいのに、と唐木田は胸中で呟いた。まず、すみませんと声をかけ、導入に天気の話などを織り込みながら、缶コーヒーを丁寧に差し出し、缶コーヒーを指差し、それから好きか嫌いかを尋ねるべきなのだ。論理や理屈よりも感情を優先する手合いが、しばしばこういった手順を省略する。そしてそういった手合いを、唐木田はあまり好まなかった。論理も理屈も平然と超越するただ一人を除いて。


「嫌いじゃないけど」との唐木田の返答に、少女は顔に満面の笑みを浮かべた。

「じゃああげる、飲んで飲んで」

「ありがとう」


少女の差し出す缶コーヒーを受け取り、唐木田は眉根を寄せた。なぜ彼女が初対面の人間に対して中途半端な親切を振舞ったのかもさることながら、唐木田の懸念の多くが手中の缶に向いていた。その缶は既にプルタブが起こされ、中身が僅かに減っていた。


「これ飲みかけみたいだけど……どうしてこれを僕に?」


少女は苦虫を噛み潰したように表情を歪めた。


「だって苦くて飲めないんだもん。買うのを間違えちゃったの」


改めて缶コーヒーに目を向けると、無糖のブラックだった。成程、と唐木田は思う。彼女は苦虫を噛んだのでなく、苦いコーヒーを飲んだ。


全ての疑問が有機的に結合して間もなく然るべくして氷解した。つまり彼女は船室の隅に置かれた自動販売機で飲料物を間違って購入し、それと気付かないまま一口飲んでしまい、そこに至ってようやく過ちに気付き、捨てるのも気が引けて、誰かに譲ろうと考え、彼女を除いて唯一の乗客であるところの唐木田へ声をかけたのだ。それだけを理解するのに、とても遠回りをしたような気がしてならない。感情は論理よりも説明が下手だ。

少女は人差し指を一本天井へ向けて、噛んで含めるように言った。


「砂糖もミルクも入ってないコーヒーなんて、滑り台もブランコもない公園か、我侭もなければ失敗もしない人間みたいなものよ」

「それなら、これは何?」と言って、唐木田は缶コーヒーをすする。

「コーヒーの出来損ないかな」

「出来損ない」と、唐木田は繰り返す。


「そう。でも誤解しないでね。私は別に、それを否定してるんじゃないの。出来損ないを好む人もいるんだし。優劣じゃなくて好みの問題だよ。実際私の友達の一人に、毎朝一杯ブラックコーヒーを飲まないと日光を浴びれない子がいるの。優劣じゃなくて好みの問題としてね」


その友達とは気が合いそうだと唐木田は思った。ということは、彼女に言わせれば、彼女の友達も唐木田も出来損ないなのだろうか。それを尋ねる機会は失われた。というのも、少女は「ちょっと失礼」と言ってから唐木田に背を向けたのだ。続いてサンダル履きの足でぱたぱたと音を立てながら、自動販売機の方へと小走りで向かった。唐木田は首だけ振り返って、その様子を視線で追う。

彼女は浅葱色のワンピースのポケットから財布を取り出して、硬貨を数枚投入口に入れ、改めてブラックコーヒー以外のボタンを――彼女が背を向けているために唐木田に確信を持つことは出来なかったが――押した。取り出し口から缶を持って、彼女は足跡を辿るようにして座席へと戻ってきて、唐木田の隣に座した。


「今度は間違えなかった?」と、唐木田は尋ねた。

「うん。本当はこれが欲しかったんだ」


答えた彼女が、缶のラベルを唐木田へと向けた。アイスココアだった。


「コーヒーじゃないんだね」

「そりゃあ……だって夜にコーヒーなんて飲んだら眠れなくなるじゃない」


彼女は不思議そうに目を丸くして言った。その少女から唐木田はコーヒーを渡されていたが、それを指摘しないまま、ブラックコーヒーを一口すすった。たった一杯のカフェインで睡眠を左右されるほど、身体が繊細に出来ているわけでもない。まあいいか、と唐木田は区切りをつけた。

少女はアイスココアをうまそうに飲んだ。


「あなた、唐木田恭(きょう)介(すけ)君?」

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