第4話 好機は時間と共にやってきて、時間と共に失われていく。永遠の一方通行。
「待って。どこ行くの?」
砂浜に足を取られながらガードレールまで歩き、沿道を東に歩き出したところで、唐木田は亜衣にそう尋ねられた。
「どこって、キミさんの家だよ」言ってから、間を置いて訊ねる。「来ないの?」
「だって、行かないでしょ、まだ?」と、亜衣は首を傾げた。
「どうして?」と、唐木田は訊ねる。
「手紙に書いてなかったんだ?」
唐木田は老婆からの手紙の文面を思い起こす。それは思い出すまでもない、単純にして明確で、それこそプリヘーリヤが愛情を込めて息子へ綴った長文とは比較にならない、容赦の片鱗も窺えない二文字だった。
「『来い』としか書いてなかったよ」
「それはひどいかも」亜衣は苦笑いを浮かべる。「私への手紙には、ここまで迎えに来てくれるって、そう書いてあったよ」
「ここに?」
唐木田は足下まで視線を下げる。砂浜とアスファルトの境界にあるその位置は、老婆の家からはだいぶ離れている。
「そう」と、しかし亜衣は肯定する。彼女はほんの僅かだけ視線を左へ流した。唐木田の肩越しに、彼女は大きく右へ曲がる道路の先を見つめる。「ほら、耳澄ませてみて」
耳、と唐木田は呟いて、亜衣と同じ視線を得て、聴覚へ神経を集中させる。島には自然の音が密集している。鳥の鳴き声、蝉の求愛、葉と葉の擦過音、吹き抜ける風の音、波の飛沫の音。だが遥か遠方から、それらを蹂躙する音が近づいてきていた。地鳴りと遠雷を組み合わせたような音は、大きな鬼の心臓の鼓動を思わせる。それは断続的に大きくなっていき、やがて轟音と形容するに相応しい音量を記録する。他の音を全て薙ぎ倒して耳を刺激するそれを、しかし唐木田と亜衣は表情一つ変えずに受け入れていた。
「成程。非常にわかりやすい」と、唐木田は呟いたが、それすら呑みこまれた。
山陰に隠れる道路の端から、轟音を撒き散らす怪物が姿を現す。朝日を反射する鋼鉄の身体を震わせ、前後に並ぶ剥き出しの車輪を回転させ、尾部から真っ黒い排気を吐き散らし、その怪物は疾駆する。ヘルメットとゴーグルで防備した、背に跨る主を目的地へと導く。怪物とその主は唐木田と亜衣を視認し、真っ直ぐに近づいてくる。
唐木田はそれらの名を承知していた。怪物の名をハーレー・ダビッドソン。怪物の触覚を握る主の名を間野キミ――豪快な笑声を放つ、唐木田を招致した当人である。
ハーレーの主はブレーキを操作し、後輪でアスファルトを磨くようにしながら減速する。世界中の金切り声を集約したような音を立てて、二人の眼前でそれは停止した。
ヘルメットとゴーグルを外した主は、ジャケットから取り出した煙草に火をつけ、美味そうに紫煙を吐き出して言ったものだった。
「遅い」
「これでも急いだんですよ」と、唐木田は応じる。両者共に挨拶もなかった。
老婆は危なげもなくハーレーから降車して、二人の顔を交互に見下ろす。それから一度頷いてから、改めて唐木田へ視線を据えた。
「知るもんかい。あたしはあくまでも主観的に遅いと言ってるんだ。あんたの主観はもちろん、客観的見解だって入り込む余地なんかないんだよ。分かるかい唐木田。理解して尚不満があるなら覆してごらんよ、遅いと言う、このあたしの主観をさ」
彼女の自信に満ちた顔に、唐木田は閉口する。その横柄さは相変わらずだ。唐木田は反論する事なく「遅れてすみません」と頭を垂れた。彼女の主観を覆すには、まず前提から取り掛からねばならない。それを不可能だと断言できる唐木田に、頭を下げる以外の方法はなかった。あるいは時間をかければ前提を覆すことも可能かもしれない。だが試みたところで「話が長い」と、あくまでも主観的に寸断されるに違いないのだ。
「亜衣も、よく来たね」老婆は亜衣に視線を転じる。その口調に剣呑な響きはなかった。
亜衣は背筋を伸ばして頭を垂れる。
「こんにちは、お婆ちゃん。遅れてごめんなさい」
「遅いだなんて思っちゃいないさ」
「あの」と、唐木田が間髪入れずに口を挟む。「それはないでしょう」
間野キミは孫の頭を撫でながら、彼に突き刺すような視線を送る。
「何だい唐木田。水入らずの祖母と孫の再会に水を差そうなんて、スポイトかいあんたは」
「まあ、いいですけど」
唐木田は口癖のようにそう言って、ハーレー・ダビッドソンの軌跡を見る。アスファルトには一本、真っ黒い線が伸びている。そのブレーキ痕は、走行と騒音が置き去りにしていった影だ。
「心配いらないさ」と、唐木田の懸念を掬い上げるように老婆は言う。「総じて、島の住人は本島に旅行中。まあ避難とでも言った方が、より克明かね」
ごく少数の例外を除いて、と彼女は付け加える。
「避難?」と、唐木田が首を傾げると、間野キミは大仰に頷いた。それから額に手の平を当て、艶を失った白髪をかきあげた。
「亜衣から聞いてるだろう。嵐が近いって」
「成程。それで避難」唐木田は得心する。だがすぐに再び首を傾げる。「島民のほとんどが避難している島に、あなたは僕を呼んだ」
「まさしく」唐木田の言葉を待ちかねていたように、老婆は目を見開き、口の端を吊り上げる。新月から二日後の月に似た笑みで、彼女の笑い方はいつもそうだった。
「好機ってものを知ってるかい。物事ってやつには、宿命的にその好機が訪れる。そいつを上手く捕えられりゃ、物事の本質を飛躍的に充実させる事が出来る。根っこから変貌させることも出来る。あたしは一度しか御目にかかった事はないが、完成させる事さえ可能だ。それが好機だ。だが、そいつぁ何度もある事じゃないし、毎度捕えられるとも限らない。一見してそれと判断出来る好機もあれば、どれだけ多角的に観察しても悪手としか思えない好機ってのもあるわけだ。そいつを検分して鑑定して正否を判断する頃には、もうそこに好機はない。痕跡すらない。立つ鳥、跡を濁さずってね。残るのはせいぜい徒労感くらいのもんだね。つまりこういう事だ。逃した好機は二度とは帰ってこない。明日ありと、思う心の仇桜ってやつさ。好機ってやつは時間と密接な関係を持つんだ。好機は時間と共にやってきて、時間と共に失われていく。永遠の一方通行。わかるかい唐木田。あんたを呼んだのは、まさにその好機ってやつを捕えるためだ。いいかい覚えておきな、決して忘れるんじゃないよ。これこそが肝要なんだ。あんたの好機は嵐を伴って、明日このちっぽけな島にやってくる」
一気にまくし立てた老婆は紫煙を吐き出し、煙草をヒールのかかとで踏み潰した。唐木田は老婆の言葉を胸中で反復する。要点をまとめようと試みる。だが唐木田には、その半分も理解出来てはいなかった。消化不可能な言葉の羅列は行き場を見失い、しばらくの間紫煙のように宙を漂って霧散する。残り香のような何かを残して。
ふと唐木田は焦燥にかられる。鉛のような重みを胃のあたりに確かに感じる。その正体は全くの不明で、探ったところでその手は空を切るばかりで、それがまた不安を助長する。唐木田は焦燥にかられる。腹中に違和感を得る。その違和感はごろごろと喉を鳴らして涎を垂らす。べたべたべたべたと粘着質の手足を蠢かせて一心不乱に上昇してくる。べたべたべたべた。唐木田は大きく頭を振る。両手で頬を張る。唾と空気と一緒に焦燥をも飲み込む。やけに大きく喉が鳴った。
「どういう、意味ですか」と、唐木田はようやく言葉を放つ。
城戸亜衣も彼と同じように眉の間にしわをよせて、首を傾げていた。彼女は唐木田と間野キミを交互に見やってから口を開く。
「何の心配?」と、彼女はどちらへともなく尋ねた。それが何を問うているのか、唐木田には理解出来なかった。亜衣から老婆へ視線を転ずると、彼女も同様に意図を測りかねているようだった。しばらくの間が開いた。それは同時に、間野キミがシガレットケースから煙草を取り出し、ライターで着火し、煙を二回吐き出すのに費やした時間だ。
「ああ」と言って、老婆は口を尖らせた。「随分昔の話をまぜっかえすじゃないか。いいかい亜衣。唐木田が心配したのは、あたしの単車が撒き散らす騒音が、近所迷惑にならないかって点だよ」
「成程」と、亜衣と唐木田はほとんど同時に言った。亜衣は老婆の回答に対して、唐木田は亜衣の質問の意図に対して、それぞれ頷く。
彼女の唐突さには、間野キミも辟易しているようだった。ところで城戸亜衣は老婆の予言をどう捉えたのだろう、と唐木田は思う。あるいは血縁という絆が全ての障害を溶解し、彼女は予言を完全に把握したかもしれない。あるいは唐木田と同じく半分も理解出来ていないかもしれない。あるいは全く聞いていなかったかもしれない。それが一番有り得そうだと唐木田は呟くが、胸中での囁きに留めておいた。
「嵐が近い事はわかりました。僕が呼ばれたのも、どうやら意味があるらしいという事も。ただ少しも理解出来ない事がある。キミさんは、どうしてここへ?」
「迎えに来てくれたんじゃないの?」間髪入れずに応じたのは、論理よりも感情を優先する手合いの、論理よりも感情を優先した言葉で、間野キミは顔をしかめた。
「そんな面倒な事を誰がするものかい。行きはまだいいが帰路は最悪だね。あんたらの短いあんよに合わせて愛車を押して歩かないとならない。最悪だ。糞喰らえさ。走れないハーレー・ダビットソンなんてのは主人公が何一つ悩まない小説より劣る」
「出来損ないを好む人もいるらしいですよ」と、唐木田は亜衣に目配せしながら言った。
「欠陥品の言い訳だ」と、老婆は即断する。紫煙を吐き出す。「あたしがわざわざ足を運んだのは、こいつの為だよ」
間野キミは愛車の座席下から一通の封筒を取り出し、亜衣へ渡した。彼女は封筒の宛先を目で追って、あ、と短く声を上げる。
「瓦(かわら)町(まち)さんのところだ」
唐木田にはカワラマチサンという響きに覚えはなかったが、恐らくは手紙を受け取るべき島民の名前なのだろうと見当をつける。
「あんたたち、それを届けておくれ」老婆は二本目の煙草をかかとで踏み潰し、三本目の煙草に火をつけた。「根性のない事に、郵便屋も嵐に備えて避難しちまってね。職務怠慢もいいところだ。で、その代行を頼みたいんだよ。亜衣は何度か配達の手伝いをした事があったね?」
「あるよ。瓦町さんの家も覚えてる」と、亜衣は面倒くさがる様子も見せずに頷いた。
「僥倖、僥倖」
老婆はそれで説明を終えたとばかりに、二人に背を向けてハーレーに跨った。ヘルメットとゴーグルを装着する。両拳で握ったハンドルを操作すると、呼応して地鳴りと排気が息を吹き返した。今にも発進しそうなハーレー・ダビットソンに、唐木田は声を張る。
「どうして自分で届けないんですか。バイク便の方が遥かに早いでしょう」
「この老骨に郵便配達なんて出来ると思うかい」
いけしゃあしゃあとそう言う老婆の背筋は真っ直ぐに伸びていた。少しも縮んでいないに違いない背丈は、唐木田より尚高い視界を老婆に提供し続けている。彼女に届けられない手紙など、少なくともこの地上にはありはしないだろうと唐木田は思う。
「唐木田は用心棒なのさ」と、老婆は言った。
「用心棒?」と、唐木田は繰り返す。その単語はこの島に似つかわしくない。ましてや島民のほとんどが離れた島だ。嵐への用心だろうか、と唐木田は思ったが、即座に否定する。災害に対して個人の及ぼす事の出来る影響などないに等しい。
「そのうちわかる」と、老婆は目を見開いて三日月形の笑みを浮かべる。
彼女は嘘をつかない。だからこの静かな島で、それでも何かに対する用心が必要なのだ。間野キミは胸を膨らませて思い切り息を吸い、盛大に紫煙を吐いた。煙が潮風に洗われる様子を見届けて、三本目の煙草をヘルメットに押しつけて、捨てた。それから右手に巻いた金の腕時計を見やる。
「六時半か。あんたたち、朝飯は?」城戸亜衣は、唐木田の分も代表するように大きく首を横に振る。「じゃあ瓦町の坊やのとこへ行く途中に駄菓子屋があるから、そこで済ませな。菓子パンくらいならあったはずだ。店主のじじいも避難中だが、一週間前に猪がシャッターに突っ込んで大穴開けてね。問題なく入れるはずだ。代金はカウンターにでも置いときゃいいさ。店の名前は確か、石田菓子だ。石田のじじいは覚えてるね?」
「うん」と、亜衣は首を縦に振る。その顔が一層ほころぶ。
「昼飯は瓦町の坊やにでも食わせてもらいな。飯屋は軒並み休業日だからね。もし坊やが渋ったらあたしの名前を出せばいい、大急ぎで島の特産物のフルコースを作るだろうよ。坊やの家からあたしの家までは一時間半くらいだから、全部終わって帰ってくるのは六時ごろだろうね。夕飯くらいはあたしが用意してやるよ」と、老婆は一息を置く。「さて、仕事と飯の予定は立った。一日を有意義に過ごす条件は、申し分なく満たしている。他に質問はあるかい?」
「六時ごろ?」と、唐木田が訊ねる。彼も腕時計を見るが、やはり六時半を差している。手紙一通を届けるのに、老婆の目算では十二時間を要するという。
「そうさ」と、間野キミは簡単に首肯する。「それだけの時間をかける事が肝要なんだ。言っただろう、好機と時間とは密接な関係を持つ」
「わかりました」
実際にはまるで理解出来なかったが、唐木田はそう頷いておいた。
「じゃあ一旦お別れだ。短いお別れ。ショート・グッドバイ。島民はあたし含め三人しかいない。例え困った事になっても誰も助けは来ない。一一〇も一一九もかけたって到着までに七時間近くかかるし、そもそも島には携帯電話の電波が届いてない。だから自分達で何とかしなくちゃならない。一切を委任する事が出来ない。その事はよく肝に銘じときな」
彼女は唐木田と亜衣を交互に見る。熱くなったエンジンが激しく排気を散らす。何かを急かすように鬼の心臓が再鼓動していく。老婆はゴーグル越しにもう一度唐木田に視線を送る。その視線の先は、僅かに唐木田の目の上にあった。目を合わせたくない相手に、あくまでも社交的に送られる視線のようだった。だが次の瞬間に唐木田は見解を改める。老婆は目を見開き、三日月形の笑みを、それこそ満月に近い形に広げた。
「それにしてもその麦藁帽子、破滅的に似合わないねえ!」
そう吐き捨てて、老婆は思い切りアクセルを踏む。前後の車輪がアスファルトを磨いたかと思うと、ハーレー・ダビットソンは勢いよく走り出す。だが周辺に響き渡ったのは鬼の轟音ではなく、それすら呑みこむ老婆の豪快な笑声だった。
その笑い声は彼女の姿と共に、急速に小さくなっていき、やがて消えた。それと入れ替わるようにして、危険はないかと慎重に、忍び足で、自然による唱和が戻ってきた。
「結局笑われたね」と、亜衣は言う。
唐木田は無言で麦藁帽子を脱いで、それを亜衣に被せた。既に寝癖は直っていた。
「脱帽」と、麦藁帽子の位置を直しながら亜衣は言った。それから確認するように唐木田の顔を覗き込む。「もしかして私、いま上手い事言った?」
「あるいは」と、唐木田は応じる。
笑いかける亜衣を適当に受け流して、唐木田は老婆の言葉を強引にまとめてみる。嵐と好機と手紙、と胸中で呟き、しばらくの間それを舌の上で転がした。だがそれは段々と、漠然とした意味すらも綿菓子のように溶けていき、とうとう無味無臭のままに消えた。
結局のところ、疑問だけが残った。嵐と・好機と・手紙?
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