第4話 私と彼氏は、共に海に融け逝く

 彼の運命がスッとわかってしまった、その後、太志がギリギリでも生きているうちに、私は準備することにした。

 バスルームはもうどうしようもないとして、部屋の中を綺麗に片付け、パソコンの中のアレコレは探られないための、せめてもの対抗措置として初期化した。

 ローテーブルの上には、パソコンの初期化前最後の作業として作成したWord文書を、一目でわかるように置いた。


 『誰も信じないと思いますが、私の恋人の石山太志は、3ヶ月ほど前に巨大なナメクジになってしまいました。誰にも打ち明けられないまま、彼の世話をしてきましたが、秋の深まりとともに、彼は弱り、今ではもう死にそうです。太志の家族、友達の皆さんには、こんなことになってしまい、とても申し訳ないと思っています。

 私は、迷いましたが――』


 そんな、きっと読んだ人には信じてもらえないであろう、遺書めいた書き置き。

 ここにずっと住んでいた私はともかく、僅かな荷物しか持たずにノリで転がり込んで来てなし崩しに同棲を始めた挙句、ナメクジになってしまった太志のことは、私がこうして書き残さなければ、「生きてここで暮らしていた」という事実すら、誰にも伝わらないだろう、と考えてのことだが、どうだろうか。話の内容が内容だし、彼の行方については、「不審な失踪事件」としか看做みなされないかもしれない。


 連れて行く方法について、最初は、どうにか特大のキャリーケースに太志を詰められないだろうかと思った。しかし、痩せて縮んではいても、その容積はそこまで劇的には減っていないので、このやり方は無理だと判断した。

 それならば、と考えたのが、アウトドアサイズの寝袋を使うことだ。彼の容積が邪魔してファスナーが閉められなかったとしても、上から毛布でも巻けば、見た目はどうにか誤魔化せるのではないかと思った。だが、運ぶ自分が、絵的にはどうやったって「死体を運んでいる人」っぽくなるな、と想像が付いた。

 仕方がないので、移動方法としてはタクシーではなく、レンタカーを使うことにした。これからすることは片道旅行になってしまうので、借りた車を返すことができないのが本当に申し訳ないが、できるだけ人目に触れず、怪しまれずに移動することを最優先するとなると、レンタカー一択となってしまった。


 私は、レインコートを着てバスルームに入った。


 「太志」と呼び掛けると、微かな身じろぎと、「あ、う……」という息遣いで、彼は応えた。

 彼は、もう瀕死だった。


「一緒に行こう。ちょっと窮屈かもしれないけど、ごめんね。我慢してね」

 

 私は太志にそう声を掛け、内側を濡らした寝袋に彼を詰め込んだ。キャリーケースには詰められないサイズの彼は、それでもバスタブのスペースには少し余裕ができるほどには小さくなっていて、大きく持ち上げたりせずとも、バスタブの中で寝袋の中に納めることができた。

 太志が呼吸できるよう、寝袋のファスナーは少し開けたままにしておいた。

 私は作業を終えるとレインコートを脱ぎ、太志の入った寝袋を毛布で包んで、借りた車の後部座席に乗せた。


「太志。あの海に行こう。私も一緒だよ」

寝袋を撫でて囁き、私は出発した。


 私は、さほど車の運転には慣れていない。最後の最期、「こうする」と決めた以外の終わり方をするのは嫌だったので高速道路を使わず、まめに休憩を取りながら慎重に運転した。間に合わないかもしれない、とは思いながら。


 太志がナメクジになってしまった時、「脳の具合を疑われたら面倒」などと思わず、疑われることを恐れず、信じてもらえるまで

「これは私の彼氏なんです! よくわからないけど、ナメクジになっちゃったんで す! 助けてください!」

と訴え続けていれば、今頃、こんなことにはなっていなかったのだろうか。そんな後悔が、胸を刺す。視界がにじみそうになるのを、グッと堪えながらひたすら運転した。


 深夜に到着したそこは、太志がナメクジになってしまう少し前、真夏に行った大きな水族館の、裏手の砂浜海岸だった。この海岸は水族館と隣接しているということもあり、こんな冬の夜には人っ子ひとりいないが、夏の昼間は、波打ち際で遊ぶ親子で賑わうスポットだ。私たちが水族館に行った時も、館内を1周した後、ふたりで裸足になって少しだけ波とたわむれた。あの時は、楽しかったなぁ。ちょっと高い波が来て、怖かったりして。


 この水族館は、いろいろな魚の水槽やらイルカのショーやら見どころたっぷりで、それはもう楽しかったのだが、とにかく人目に付かないようにと考えると、今、この姿の彼と水族館を再訪するわけにはいかなかった。そのことは残念でならない。


 ふたりで水族館デートをした、あの時のことを思い出す。

 彼は魚の泳ぐ水槽を見ても「美味そう」などと言ってしまう、ある意味ぶれない感性の持ち主だったが、一方で、頭に飾り羽根が付いたペンギン、特にマカロニペンギンが好きで、ペンギンの展示コーナーでは大はしゃぎしていた。私には正直、マカロニペンギンといわれてもイワトビペンギンとどこが違うのかよくわからず、太志が何をそこまで夢中になっているのか、いまいちわかってあげられなかったのだが、彼の意外な一面を知ることができて楽しかった。あれが最初で最後の水族館デートになってしまったことが切ない。


 ――この、水族館の裏手の砂浜は、「沖合に向けて急に水深が深くなるし、波の流れも速い」のだとかで、遊泳禁止エリアとなっている。つまり、波打ち際でチャプチャプする分には安全だが、沖合に進めば死んでしまうことができるエリアということだ。


 私は裸足になって車を降り、後部座席に回って寝袋を降ろした。

 

「太志。着いたよ。あの水族館の、裏の海。ほら。一緒に行こう」

 

 呼び掛けたが、返事はなかった。

 彼は、もう息絶えていた。

 

 できれば、彼をここまでは生かして運びたかった。

 やっぱり、間に合わなかった。

 ごめんね。言葉にならず、涙が溢れた。


 私は、もはや人目をはばかることなくじかに太志の亡骸を抱きしめ、歩いた。彼は驚くほど軽かった。その軽さも悲しくて、私は手放しで泣きながら歩いた。空には月が浮かんでいる。あぁ、満月だな、と思った。


 足元の感触で、砂浜から波打ち際に入ったことがわかる。何歩歩けば、足の付かないところに辿り着くのだろう。とにかく、月明かりを頼りに歩き続けた。

 

 ナメクジは塩で融ける。人間だったのに何の因果かナメクジになってしまった哀れな太志は、元の姿に戻ることができないまま、命を落とした。そして彼は、これから海に融けるのだ。私も、一緒に。


 彼は、手持ちのお金が足りなくなると学生の私にちょいちょいたかるしょうもないヒモ男で、デートよりスマホゲームが大事で、ナメクジになってからもガチャを回すために課金させろと煩かった、割とひどい奴だったが、でも、そのひどかった太志が私はどうしようもなく好きだった。それは彼がナメクジになってしまった後も、息絶えてしまった今も、変わらなかった。


 『私は、迷いましたが、彼と一緒に逝くことにしました。皆さんごめんなさい。さようなら』


私は彼とともに海に融ける。死んでも、一緒だ。

波にさらわれ水を呑み、薄れゆく意識の中。

それでも、私は、笑った。太志を抱きしめながら。






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蛞蝓彼氏 金糸雀 @canary16_sing

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