第3話 ナメクジ彼氏、晩秋に弱り行く


 1日1回、バスルームに棲む太志に食事を差し入れること、そして、1日おきに太志にバスタブから出てもらって、うっかり太志の身体にバスクリンを掛けたりしないように気を付けながらバスルームの掃除をすることが、私の新たなルーティンとなった。

 食事には、料理の時に出た野菜くずも混ぜて、とりあえず「味見」として食べてもらった。太志によると、ニンジンは甘くてなかなか美味しい、キャベツの芯もまぁイケる。セロリは1口でギブ、二度と食べたくない、とのことだった。いろいろな野菜を食べてみてもらった結果、コスパと味の面でやはりキュウリがよさそうだ、という結論に達した。ドッグフードの代わりとしては、お刺身を1切れ2切れ分けてあげることもあった。ただ、人間だった頃に好んでいたガッツリ肉系料理は、あげるわけには行かなかった。塩分を含んだものはナメクジにはよくない。食べたらきっと、水気が抜けて干からびてしまう。たった1度の楽しみと引き換えに死に至ってしまうのでは困る。

 ここに更に虫でも湧いたらシャレにならないので、バスルームの掃除は必須だった。まさかこうなることを予測してこの部屋に住み始めたわけではなかったが、ちょっとこだわって、バストイレ別の物件にしておいてよかった、というのは、太志がバスルームに棲み始めてからずっと思っていたことではあった。ユニットバスだったら、こうは行かなかっただろう。


 太志とは、「この先どうするのか」という話し合いを持とうとはした。しかし彼は物事を深く考える性格ではなく、自分がナメクジになってしまったことについても、最初の朝の驚きが醒めてしまえば、「俺はスマホができれば別に」という感じで、悲壮感も何もあったものではなく、話し合いにもならなかった。


 いきおい、私がひとりで考えることになる。

 まず、太志がこうなってしまったことを、家族や身近な人に知らせてあげる方がよいのか。そして、太志は元の姿に戻る可能性はあるのか。

 その2点について、誰かに相談したかったが、こんな非現実的な事態である。

 たとえば「実は、同棲中の私の彼氏が巨大なナメクジになっちゃいまして、とりあえずお風呂場にてもらってるんですけど、どうしましょう」と相談することを試みたところで、この私のセリフは最後まで聞いてもらえることはなく、単に私の脳の具合が疑われるだけに終わるだろう。こんな話、他の誰かの身に起こったこととして相談されたとしても、到底信じられるものではない。だから、信じてもらえなかったとして、それは仕方がないな、と思うが、脳の具合を疑われるのは、想像するだに面倒だ。

 仮に「太志がナメクジになってしまった」ということを事実として信じてもらえたとして、太志をどこかの研究機関なりに委ねるのか。そうしたとして、太志が治療ではなく実験や研究の対象となってつらい思いをしたり、命を落としたりする心配はないのか、という懸念もある。今は人権とかプライバシーとかしっかりしているから、「世にも奇妙な蛞蝓ナメクジ男」みたいなうたい文句で見世物にされる、なんてことはないだろう、と思いたいが、元に戻る目処がないのに研究のためにどこかに「飼われる」ために引き渡すということは、したくなかった。


 そんなわけで、私はバスルームに太志だった巨大ナメクジを棲まわせながら、粛々と日々を送った。太志がこうなったこととは関係なく、講義を3回休むと単位は来ないし、バイトしてお金を稼がなければ私は暮らせない。とにかく生きて行かなければならないのだ。

 自宅では巨大ナメクジとのよくわからない共同生活を送り、その一方、大学やバイト先ではこれまで通り友達との会話を楽しんだり、厄介なお客さんに悩まされたり、これまで通りの日々を送った。外での暮らしと家の中での暮らし、かけ離れた双方に、現実味がなかった。太志のことをまわりにあまりおおっぴらにしていなかったのは、幸いだった。彼のことを、人間ヒトとして元気に暮らしているかのように取り繕わずに済んだからだ。


 お金といえば、太志のスマホ代は、本人が稼ぐことは現状では不可能なので、私が持つことになった。「あんたナメクジなんだからもうスマホ要らないでしょ」というわけにもいかない。まぁ、ナメクジとしてはあり得ないほどに触角を猛烈に駆使してスマホゲームに熱中している太志の様子を見ると、意地悪なことを言いたくなることもあるが、彼は、出掛けられないなりに、LINEで友人たちと連絡を取っているのだ。友人たちは、まさかLINEメッセージの相手が今や巨大ナメクジと化しているとは露とも思わず、太志――人間ヒトの姿をした、太志――とやりとりしていると信じている。つまりスマホは、彼の存在証明となるツールとして機能しており、姿かたちがナメクジになったからといって取り上げるわけにもいかなかった。

 正直なところ、太志のスマホ代は痛いが、考えてみると、人間だった頃の太志には同棲にあたり、生活費など入れてもらっていなかったから、スマホ代だけの負担で済む今の方が、楽かもしれない。食費だって、今の彼の食事はキュウリとドッグフードなのだから、たかが知れている。


 つまり、もともと半ヒモ状態だった彼は、ナメクジになったところで、私の生活に大きなダメージは与えないのだ。ただ、「ナメクジになってしまったこと」その1点を除いて。

 太志の巨大ナメクジ化。これがカフカの『変身』で青年ザムザの身に起こったのと同じような現象なのだとしたら、太志にはもう、人間の姿に戻る見込みはないと見るべきだろう。これは、太志がナメクジになった最初の朝に、既に考えたことだ。しかし太志はカフカの『変身』を知らないし、太志の現状を知るのはこの世で私だけだ。となると、「太志は多分一生このままだ」という諦念も、ひたすら、私が抱えるしかなかった。

 これはとても悲しく、絶望的な状況のはずなのに、それでも私は、何故かスッと醒めている。あきらめているのか、感覚が麻痺しているのか。あるいは私も、太志がナメクジになったと同時に、どうかしてしまったのかもしれない。


 それでも、秋が深まり、街路樹の紅葉こうようが綺麗な季節になると、「太志はこの綺麗な景色をもう見られないんだな」と思って鼻の奥がツンとすることはあった。もう、ふたりで歩くこともできないし、遊びに行くことだってできない。そう考えるのはやはり、私にとってつらく悲しいことだった。

 

 彼は、手持ちのお金が足りなくなると学生の私にちょいちょいたかるしょうもないヒモ男で、デートよりスマホゲームが大事で、今だってガチャを回すために課金させろとうるさい、割とひどい奴だが、でも、そのひどい太志が私はどうしようもなく好きで、それは彼がナメクジになってしまった今も変わらなかった。


 秋がいよいよ深まってくるとともに、センチメンタルな感傷に浸っている場合ではなくなった。太志の元気が、なくなってきたのだ。


 最初は、食欲の低下だった。1日10本ぺろりと平らげていたキュウリに対する食い付きが、日増しに悪くなった。2週間ほどで、ほとんど受け付けない状態にまでなった。丼一杯に盛ったドッグフードにしても、それは同じことだった。

 同じものばかりで、食事に飽きたのかもしれないと思い、今まで太志に食べてみてもらった中では評判のよかったニンジンをメインにしてみたり、奮発してトロのお刺身をあげてみたりしたが、やはり、食が進まないことには変わりなかった。


 「どこか具合でも悪いの?」と訊いてみたが、「うーん……なんか、食欲がない」と言うばかりだ。ウェブサイトで検索したところによると、ナメクジは成体の状態で越冬するらしい。ならばこれは、もうすぐ冬眠するというサインなのだろうか。そうかもしれない。というか、そうだと信じたかった。

 しかし、だんだんと口数が少なくなり、食事を受け付けなくなるとともに、太志は「あぁ」「うぅ」という、呻くような声しか発さなくなって行った。

 私はこの時点で「ナメクジ 寿命」でウェブ検索をした。「平均2~3年、長いもので5年、短いものでは1年」ということだった。「寿命」については、今まで目を背けてきたところだったが、思いの外、短いのだと知った。

 まして太志は、ナメクジにあるまじき巨体である。この、自然のことわりから外れた巨体では、数年を生きることすら、最初から無理だったのかもしれない。


 私は、きっと覚悟しなければならない。この先に起こることを。


 食事を受け付けなくなった後は、毎日欠かさずログインし、ガチャを回し、ナメクジになってもなお、課金をせがんでいた、大好きだったスマホゲームにも興味を示さなくなった。動くことができないからゲームもできない、という面もあるのかもしれないが、それ以前に、もう気力がない。そんなふうに見えた。


 極めつけに、なんだかだんだん身体が白っぽくなり、水分が抜けているのか、単に絶食のせいで痩せているのか、身が細り始めるに至り、スッと、わかってしまった。


 太志は、このまま死ぬのだと。


 





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