第2話 ナメクジ彼氏、浴室に居を移す

 太志は一体いつからあの姿だったのかわからないが、床の雑巾がけを済ませてベッドを見ると、先ほどまで彼が横たわっていた場所は、ねっとりとした粘液に覆われていた。その巨大な染みからは、ベッドから降りる際にできた太い筋状の這い跡が続く。

 「うわぁこれはダメだな。寝具セット総取り替えしなきゃ」

 ……というのが私の率直な感想だった。

 今はナメクジとはいえ、もとは太志の、身体から出たものである。それを「汚い」と思うのはなんだか申し訳ないような気もしたが、考えてみると、これが仮に人間としての太志の体液――たとえば、血液――であったとしても、やはり「うわぁダメだな」とは思っただろうから、と自分に言い聞かせる。

 

 私は、午前中の講義に出席するのをあきらめ、近所のホームセンターで寝具セット一式を買った。ベッド本体にも粘液は付着していたが、これは綺麗に水拭きすることでよしとすることにして、寝具を取り替えてとりあえずすっきりした。

 部屋を調えた後、バスルームを覗くと、太志はやはりバスタブの中にぴったりと嵌っていた。

 太志に「ごめん。帰りは夜遅くになる」と言いおいて家を出た。


 午後は、いつも通り講義に出て、その後はバイトにも行った。こんな時に、何事もなかったかのように日常生活を送るのもどうかと我ながら思うところではある。しかし、私は教職課程を取っている関係で必修単位数が多く、うっかり落とすと後々に影響する科目もあるから、今学期の単位は取れるものなら全部取りたかったし、大学進学時の親との取り決めで「大学の学費と家賃以外はバイト代から捻出する」ということになっているから、バイトでお金を稼がなければ生活に窮することになる。

 

 講義と講義の間、バイト先の休憩時間といった空き時間には、スマホで「ナメクジの飼い方」について調べた。“飼い方”という表現については、ナメクジの姿であるとはいえ、太志は自分の彼氏だと思うと、ちょっと引っ掛かるところではあったが、太志がああなってしまった以上、どうにかして養わなくてはならないのだから、ナメクジというものが何を食べるのか、水気はどのくらい必要なのか、といった情報を仕入れなければ、と思ったのだ。

 しかしナメクジというのは一般的には駆除されるべき害虫である。「殻が付いていない」という1点のみで、ほぼほぼ親戚のように思われるカタツムリより、更に嫌われる。だから、「飼い方」についてはあまり情報がないだろう――と思っていたら、あった。どうやら個人サイトのようだが、「ナメクジの飼い方」というウェブページが。

 そのウェブページには「捕獲」や「飼育容器のセッティング」といった項目があったが、その点はクリアしているから斜め読みして、「餌」についての項目を読み込んだ。その結果わかったのは、「キュウリが好き」「味の濃い野菜を食べさせると死んでしまう」「実は肉も結構好き」といったことだった。「肉」については、ドッグフードやキャットフードでもいいらしい。


太志ほどの巨大なナメクジが一体どのくらいの量の食べ物を必要とするのかはよくわからなかったので、バイトが終わった後、24時間スーパーでキュウリを10本とドライタイプのドッグフードを1袋買って、あと少しで日付が変わるという頃に帰宅した。

 そっとバスルームのドアを開けると、バスタブの中にはやはり太志がいた。元の姿に戻っていはしないかとほのかな期待をしていたのだが、そこにいたのは巨大なナメクジであることに変わりはなかった。

「ただいま。おなかすいてる? ごはん用意するね」と声を掛けると、太志は「おぉ」と短く返事をした。人間だった頃から、太志の身のまわりのことは全部私が面倒を見ていたから、このやりとり、この関係性は相手が人間ヒトからナメクジに変わっただけといえなくもない。

 狭いキッチンでキュウリをぶつ切りにして深めの皿に盛り、丼にドッグフードをざーっと開ければ食事の準備は完了である。仮にも自分の彼氏に、キュウリはともかくドッグフードを食べさせることには、一抹の罪悪感を覚えるところではあるが。

 片手に皿、もう片方の手に丼を持ってバスルームに入り、

「あのね、ナメクジが何を食べるのか調べてみたら、キュウリが好きで、意外に肉も好きなんだって。だからキュウリと、生の肉は衛生的にどうかなと思ったから、ドッグフードを用意してみたよ」と説明し、皿と丼を太志の頭の上に差し出すと、彼は首をもたげて、まずはキュウリ、次いでドッグフードを咀嚼して行く。

 

「おいしい?」と訊くが返事はない。どうやら、食事に夢中のようだ。

 ややあって、太志は「うまかったよ。ていうか俺、キュウリをこんなにうまいと思ったのは初めてかも」と感想を述べた。確かに太志はガツンとした肉料理が好きで、生野菜は好きではなかった。

 どうやら、キュウリ10本とドッグフードを丼1杯で、当座は足りたらしい。食べさせすぎてもいけないかもしれないからこのくらいでもいいのか、それとも、もっと食べなければ足りないのか。それは、今後の様子も見ながら決めればよいだろう。

 ――今後って、いつまでだろう。ふと、そんな心配が頭をよぎる。



 「杏、悪いけど俺のスマホ持って来て」

 空の皿と丼を持ってバスルームを出ようとした私の背中に、太志の声が聞こえた。

 太志は学校に通っていないし定職に就いてもいない身だが、それでも、丸1日誰とも連絡を取れないと、困ることもあるのだろう。そう思った私は、皿と丼をキッチンのシンクに置き、一旦部屋に戻って、ローテーブルの上に置いてある太志のスマホを取った。幸いなことに、このスマホや顔や指紋によるロックは掛かっていない。もし顔や指紋の情報がロック解除のために必要だったならば、ナメクジと化してしまった彼は二度とロックを解除できなかったはずだったから、本当によかった。


 バスルームに入り、「太志、このスマホ、どうやってロックしてた?」と訊くと、「自分でロック外すから、ちょっと俺の顔の近くまでそれ持って来て」と頼まれた。しかし今の太志にはスマホを持つ手も、細かい操作に使うための指もない。一体どうやってロックを解除するというのか。


 「いいけど、どうやってロック外すの?」となおも訊いてみたが「いいから早く」と言うので、そう言うならば、と、食事の時と同じように、スマホを彼の頭の上に差し出すと、太志はなんと、触角を機敏に動かしてスマホの操作を始めた。それは「ナメクジの触角ってこんなに素早く動くのか」と感心するほどのものだった。なんというかナメクジのポテンシャルを見た思いだ。いや、こういう形で見たくはなかったが。

 あまりプライバシーに踏み込むのも、とは思ったが、「何してるの? 友達に連絡とか?」と、そっと訊いてみた。なんせ今の太志は人前に出られるような姿ではない。たとえば飲みに行く約束があったとしても、遊びに誘われたとしても、断るしかないのである。

「んーLINEでちょっとね」と、彼は呑気なものだ。

「その……太志、今は人と会えないでしょう?会えないわけも、話すに話せないわけだし。どうにかなりそう?」

「んー、まぁ大丈夫」

「ならいいけど」

「あ、それよりガチャ回さなきゃ」

 私は太志の鼻先からスマホを引っ込めた。「ちょっと。悪いけどそんなに長い時間持ってられない」

 

「じゃあこれ、置いてってくれればいいよ」と太志は言うが、私が支えるのでなければ、このスマホはバスタブの中に置いて行くことになる。水濡れが心配だった。

「駄目だよ。水でスマホ壊れたら困るでしょ。また明日にでも防水ケース用意してあげるから、今日はもう切り上げて。私、寝たいし」

「えー」

 不満の声を上げる太志からそのままスマホを引き揚げ、私は部屋に戻った。液晶画面は粘液でぬるぬるになっていたので、ハンカチで丹念に拭った。


 今日1日、太志とは、「これからどうするのか」といった話は全然できていない。明日以降、その辺はふたりで考えなければならないだろう。しかし今日のところはなんだかいろいろと疲れて、感覚的にも麻痺してしまっている感がある。

 私は、太志に宣言した通り、歯磨きとメイク落としを済ませ、パジャマに着替えて、寝ることにしてベッドに横たわった。

 隣に太志がいないベッドは、とても広く感じられた。快適ではあったが、その一方で、ひどく寂しくもあった。

 

 一方太志はというと、翌朝、バスルームに様子を見に行ったところ「あまりうろうろしても迷惑だろ? いいよ俺ここに住むから」と言った。バスタブが使えないのはそれはそれで迷惑だし、掃除はどうすればよいのか、とは思ったが、太志がそれでいいなら、と私も敢えて反論などはせず、こうして、巨大ナメクジと化してバスタブに棲む太志との暮らしが始まった。




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