蛞蝓彼氏

金糸雀

第1話 彼氏、ある朝ナメクジに変貌す

 その朝、私は、毎朝決まった時間になるようセットしているスマホのアラームではなく、圧迫感で目を覚ました。ベッドの、私の左横のスペースには、恋人の太志たいしが寝ている。太志とはしばらく前から一緒に暮らしているが、私がひとり暮らしの割にはゆとりのある間取りの部屋に住んでいるのをいいことに、ある日太志が転がり込んできて、なし崩しに始まった同棲生活だった。ゆえに私達は、シングルベッドで身を寄せ合って眠るのが常だった。


 だから、「寝るためのスペースが狭い」という問題は常に付きまとってはいるが、それにしても、今朝は一段と圧迫感を感じる。

 私は身を起こし、太志の方に目を遣りながら、


「ねぇ太志。もうちょっと離れて……」

 

 離れて寝てくれない? と言うつもりだった。

 しかし、最後まで言い切ることができず、私は息を呑んだ。


 信じられない光景が、そこにはあった。


 ぬらぬらとした粘液を纏い、光沢を帯びた茶色に、何筋か黒い縞模様が入った塊。見覚えのあるTシャツとハーフパンツが胴体に纏わりついているのが、なんだか滑稽こっけいだ。頭と思われる部分には触角が見える。おそらく触覚が生えているのと反対側、先細りになっているのは尻だと思われる。大きさは、目測なので正確にはわからないが、本来ここに寝ているはずの太志と同じくらい。いや、もう少し小さいだろうか。

 

 そこに横たわっていたのは、巨大なナメクジだった。



 人間、驚きすぎると悲鳴も上げられないというのは、本当だ。私はそのことを、身をもって実感していた。悲鳴どころか、声ひとつあげられない。呼吸すら、ままならない。どうしよう。どうすればいいのだろう。というか何よりまず、これは一体、何だ。太志のもののはずの服を身体に引っ付けたこの、巨大なナメクジは。まさか――



「あぁよく寝た。おはよ、あん


 唐突に、くぐもった声が聞こえた。この声は、目の前の巨大ナメクジが出したのか。ナメクジって、喋ることができるんだっけ? 声帯なんかないし、そもそも喉があるかどうかもよくわからないのに、どこから声を出しているのかな、などと、どこか間の抜けたことを考える。いや、今はそんなことはどうでもいい。私の名前を呼び、私におはようと挨拶をしてくるということは、この巨大ナメクジは、やはり――。




「たい、し……なの?」

 私は、やっとのことで声を絞り出した。

「ん? そうだけど? どうかした? なんか変だよ、杏」

 

 変なのはこの状況だ。

 そう言い返したいところだったが、問う。どうやら太志らしい、その巨大ナメクジに。

「太志、その……身体に違和感とか、ない?」

 あんたナメクジになっちゃってるんだよ、とは、さすがに言えない。

 

 ややあって巨大ナメクジは、呆然としたような声で答えた。

「俺、ナメクジになってる? なんで?」

 なんで、と言われても、それはこっちが訊きたいのだが。

「うん、そうみたい……」とだけ、答えた。


 その後は、私も太志も、しばらく黙っていた。意外にこういう時って、パニックになって大騒ぎしたり、しないものなのだな。私は、妙に冷静に、そんなことを思った。初見のインパクトが薄れた今、我ながら驚くほど冷静に、現状を受け止めている自分に気付く。


「俺この前さ、でかいナメクジがいるの見掛けて、小便掛けたんだよね。そしたらそのナメクジ死んじゃってさ」

 沈黙を破って、巨大ナメクジが、再び口を開いた。

「それは……ひどいことをしたね」

 小学生でもあるまいに、一体何をやっているのかと、内心呆れながら相槌を打つと彼は、

「俺、バチが当たったのかな」と続けた。


 どうやら彼は彼なりに、自分がこうなった原因について考えを巡らせていたらしい。ナメクジになってしまった我が身を嘆くこともなく、そんなことを考えられるとは、ある意味すごいと思う。私なんて、正直、そういった真面目なことは何にも考えていなかった。

「ほら言うだろ。ミミズに小便を掛けると……」

「言うね」

 私は彼を遮った。最後まで聞きたくなかったからだ。

 確かに、「ミミズにおしっこを掛けると大事なところが腫れる」とは、私も聞いたことがある。しかしそれは、「ところ構わず立ち小便をするものではない」と、子供に行儀を教えるために言われるようになったことではないのか。いや、実際のところはわからないけれど。


「バチとかじゃ、ないんじゃないかな」

「じゃあ杏は何だと思うわけ?」

「うーん私は……カフカの『変身』を思い出してるけど」

 そう言ったが太志は、カフカの『変身』がわからなかったらしく、「ヘンシン? 何だっけそれ」などと言っている。そうか、知らないのか。実のところ私も『変身』を読んだのは高校生の頃で、うろ覚えなのだが、あれは確か。


「ザムザっていう青年がある朝起きたら巨大な虫になってたっていうところから始まる話だよ。結局ザムザがどうして虫になっちゃったのかは、最後までわからず仕舞いなんだけどね。太志のせいでナメクジが死んだとして、そのナメクジがバチを当てたからこうなったというよりは、『変身』みたいに、理由はわからないけどナメクジになっちゃった、という方が、なんか、それっぽい気がする」

 私は、淡々と説明した。私の覚えている限り、『変身』のザムザ青年は怪我をして、弱って死んじゃって、死んじゃったら家族はみんな大喜びしたりして、かなり可哀相だった。理由もなくある朝突然虫になり、家族には嫌がられ、ものを投げられ、死んだらせいせいしたとばかりの態度を取られるのだ。だが、目の前の巨大ナメクジに、そんなディテールは、とても言えない。


「ふーん。だとしたら、俺、元に戻れないのかな」

「……わからない」

 そうとしか、答えられなかった。


 また、沈黙が私達の間を包んだ。

 私は、『変身』でザムザが変身したのって芋虫だったっけ、いや、それは『変身』を下敷きにして描かれたと思われる、手塚治虫の漫画の中での話だったか、と記憶を手繰った。

 いずれにせよ、太志が巨大芋虫に変身したのでなくて、まだしもよかった、と思う。開発中の物質転送機で自分を実験台にした転送をした結果、ハエと融合してしまった科学者が身も心も変貌して行くというホラー映画を、DVDを借りて観たことがあるが、私はあの映画の本筋よりは、主人公の恋人が見た「出産し、『おめでとうございます』とスタッフに抱かれて連れて来られたのが、びったんびったん跳ねる巨大な蛆虫だった」という悪夢の方がずっと怖かった。正直なところ、未だにトラウマになっている。もし、目が覚めて隣にいたのが巨大ナメクジではなく、巨大芋虫だったとしたら、私は発狂していたかもしれない。


「ねえ杏、パジャマ脱がしてくれる?身体に貼り付いてウザいんだよ」


 私は、太志の声で我に返った。

 脱がす、といっても、相手は巨大ナメクジである。それが太志であったとしても、Tシャツやハーフパンツを、すぼまっている尻の方まで引っ張って脱がせることに対しては、嫌悪感を抱いてしまう。だってこんなにぬらぬらした身体に、触るなんて。

 私ははさみを探し出し、「じゃあ太志、これ切っちゃうね」と声を掛け、太志の身体には傷を付けないよう気を付けながら、まずはTシャツ、続けてハーフパンツにまっすぐ鋏を入れ、1枚布の状態にしてしまってからそっと剥がした。粘液が付いている面には手が触れないようにしながら、切って剥がしたそれを、丸めて脇に置いた。


「ダメだ。干からびそう」 

 言うと太志は、やおら這い始めた。私は、慌てて後を追った。

 部屋にある障害物を除けてやりながら、太志について歩く。太志の這った後には、ぬらぬらとした粘液が残されている。これ、後で拭かなきゃな。


 太志は器用に段差を乗り越え、バスルームの入口まで辿り着き、

「ねえ、杏、ここ開けてくれる?」と言った。

 さすがに、手足のない今の自分に、バスルームの内開きのドアを開けることはできないと判断したのだろう。私は、何も言わず、ドアを開けてやった。


 太志はぬめぬめと這って、バスタブの中に納まった。どうやら今の太志に、このバスタブはジャストサイズのようだ。

「杏、ちょっと水を出して」

 私は、蛇口を少しだけ、水が細く流れ落ちる程度に捻った。私はナメクジの生態には詳しくないが、ナメクジって、確かに乾燥すると死んでしまうが、水分が多すぎても、ふやけてしまうのではないかという気がする。

「このくらいでいい?」と尋ねると、

「うん、いい感じ。あぁ、生き返った~」と太志は嬉しそうに答えた。

「そう、よかった。じゃあ私、部屋に戻るね」


声を掛けて部屋に戻り、雑巾の用意をしながら、私は、

これからどうすればよいのだろうか? と、初めて、真剣に考え始めた。






 







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