手放したら手に入るものもある

 中庭に戻ると目がくらんだ。


 掌の簪を見下ろす。青から紫、黄色、緑へと、ころころ変化している。太陽の光の下だとこんなにも輝くのだ。


 不思議で綺麗。


 これが欲しかった。やっと自分の手の中にあるのに、あまり嬉しくないのはなぜだろう。こんなに綺麗なのに、もういらない、と思ってしまう。


 姉は母とおそろいのこの簪をランランに自慢した。だからもうそんなことができないようにしたい。


 母が簪をなくしたと知れば、姉は落ちこむかもしれない。あるいは母に怒るかもしれない。その様子を見てみたい。


 この簪は、土にでも埋めてしまおう。


 だけどもし、埋めたところから見つかってしまったら?


 母がふだん行かない場所から見つかったら、確実におかしい。誰かが埋めたのだと疑われるだろう。母が歩く道筋の地面なら、万が一あとで見つかっても母が落としたのだと思ってもらえる。


 ランランは中庭の出口に向かった。外出するとき母はここから門へ向かう。その道筋に埋めよう。


 中庭を出てすぐ、足が止まった。自分の考えが浅かったことに気づく。


 中庭から門までは壁に囲まれた庭になっているが、地面は石なのだ。これでは埋められない。日頃ランランがここまで来ることはないから、すっかり忘れていた。


 石と石の隙間にねじこんでみようか、と指で地面を触ってみた。


 石は陽射しをたっぷり浴びていて熱くなっている。肝心の継ぎ目は、簪が自然に埋もれるにしては狭い。これは無理だ。


 どこか埋めるのにいい場所はないだろうか。


 注意深く探しながら門に向かって歩いた。門は庭の突き当たり、右手の壁が途切れたところにある。


「外に行くのか?」


 ランランはびっくりして肩を震わせた。振り返って声の主を確認する。部屋着のままの兄が歩いてくるところだった。


 まただ。きのうに続いてまた兄に見つかってしまった。


「家の外に出るのか」

「えっと」


 目の前で立ち止まった兄に気づかれないように、簪を素早く後ろ手に隠した。どうやって切り抜けよう。


 言い訳を探すためにあれこれ考えはじめたランランは、あることに気づいて息を止めた。


 今、兄はなんと言った?


 ランランは外に行くために中庭を出たわけじゃない。けれど「外に行くのか」と問われた。問われたことで、気がついた。



 外に行ってもいいのか。ひとりで、勝手に、好きなように。



 胸がドキドキしてきた。もしもそうなら、そんなことをしてもいいなら。


「……うん」


 兄の反応を窺いながら、小さく頷いてみる。


「父上か母上に言ったか?」


 怒るでも、驚くでもなく、当たり前のように兄が問いをかさねる。ランランは目の前が開けていくような心地がした。


 外に出てもいいんだ。誰かに連れて行ってもらうのを待たなくても。


 高鳴る気持ちを顔には出さないようにしながら、首を横に振る。外に行ってくる、なんてもちろん父にも母にも告げていない。


 兄が呆れたように溜息をついた。


「ばれないうちに帰って来いよ。怒られてもかばってやらないからな」

「うん」


 やっぱりそうだ。やっぱり、ひとりで外に出ていいんだ。すくなくとも兄は叱ってこないし、きっと誰にも告げ口をしない。


 ランランはゆるみそうになる口元を懸命に引き結んだ。


 兄のおかげで外に出ることを思いついたなんて知れたら、兄は自分の失言を恥じて、たちまち機嫌を損ねる気がした。


「ところでさっきの、いま後ろに隠してる簪、ランランのだっけ?」

「え」


 ランランは一気に青ざめた。簪を握る手に力をこめる。隠す前に見られていたなんて。


 兄はランランの目をまっすぐ見つめている。母と似ている目の形、だけど全然ちがう眼差し。


 優しいとは思わない。どっちかと言えば厳しい目だ。でも、母ほど冷たくないし、姉ほど意地悪でもない。


 しばらく見つめ合ったあと、ランランは首を横に振った。


 嘘はつかない。これは母の簪だ。


「盗ったの?」


 兄の言葉が針のように響く。さすがに許してもらえないだろう。ランランは叱責を予想して身をすくめた。


 兄が距離を詰めてランランの左肩を押さえる。もう一方の手をランランの背後にまわし、あっさりと簪を取り上げた。


 没収だ。


 盗んだのは悪いことなのだから、兄に抗議することはできない。けれど母たちに伝わるのは避けたかった。どんなお仕置きがやってくるか、想像しただけで恐ろしい。


 兄は黙っていてくれるだろうか。


 たとえ黙っていてくれたとしても、返しに行けと叱ってくるだろう。


 できれば返したくない。こっそり返すのに失敗するかもしれないし、返してしまっては仕返しにならない。


 兄がランランの頭に手を伸ばしてくる。


 ぶたれるのかと思って目をギュッと閉じた。ところが、兄の手はそっと頭を押さえてくるだけだった。細く固い何かが地肌をすべる感触がする。


 思ってもみない展開に、ランランは顔を上げた。兄は簪をランランの髪に挿したのだ。


「似合ってないね」


 真顔でそんなことを言う。


「売っちゃえば? 持ってると良くない気がする。もちろん返すのがいちばんだけど」

「……うっちゃう、って?」

「あー」


 面倒そうに顔をゆがめて、兄はランランからすこし離れた。簪を指さす。


「お金を手に入れるために、それを手放すんだよ」

「お金……」

「持ってないよな。まあ、じゃあ、いいや。欲しいものと交換したら?」


 兄は両手を腰に当てた。「あーそれと」と、続ける。機嫌が悪いときの声だ。いや、不機嫌なんだろうけども、本当にいらいらしているときとは違う声だった。


「外に行くなら、なるべく広い道を選んで歩け。狭い道には行くな」

「どうして?」

「迷子になるだろ。広い道ならわかりやすい。もう帰ってこられなくてもいいっていうなら好きにすればいいけど」

「わかった。広い道を歩く」

「門を出たら右に行け。まっすぐ行って、広い道を選んで曲がっていけば、この街でいちばん賑やかな場所に行ける。でも遊んでると帰り道を忘れるかもしれない。そうなる前に戻れよ。遅くなっても捜しに行かないからな」

「わかった」


 兄は眉間に皺を寄せてランランを睨んだ。次は何を言われるのだろうとランランも見つめ返す。


 兄はぼそぼそと、ひとりごとのように言った。


「……ついて行ってほしければ行ってもいいけど」


 ちゃんと聴き取ったランランは「え」と驚きの声をあげるのをこらえた。兄が小声だったから、つられてランランの反応も小さくなったのだ。


 嬉しいけれど、どうしようかと考える。


 兄が一緒なら迷子の心配はなさそうだし、両親に怒られることもないかもしれない。


 けれどランランは不安や恐怖よりも、生まれて初めての冒険に心を躍らせていたのだ。


「ひとりで行く」

「そ」


 兄は素っ気なく答えて踵を返した。


「お兄ちゃん、ありがとう!」


 兄はちらっと振り返って、何も言わずに歩きつづける。壁の突き当たりを右に折れた。その先は中庭だ。


 ランランは裳裾をひるがえした。目の前にも突き当たりがあるが、こちらは壁ではない。客間がある棟の外壁だ。門はその棟と隣り合っている。


 兄が挿してくれた簪にそっと触れた。どんな色に輝いているのだろうと想像しながら門扉の前に立つ。


 笑みがこぼれた。


 楽しい。すごく、面白い。


 さあ外だ。


 行こう。

 



(結)

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ランランとシャオゴウ 晴見 紘衣 @ha-rumi

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