ひとりだって知ったから

 扉を眺めた。


 新築ではないから、古ぼけた木の扉だ。以前の家ではこうした扉の上半分は窓になっていた。でもこの扉には窓がついていない。


 窓は扉の左右の壁に並んでいる。目を向ければ中の様子が見えるけれど、ランランが立っている場所からは二人の姿が見えない。


 どうすればいいのか。


 自分で扉を開けて入る? ここで待つ?


 窓の向こうから母と姉の笑い声が聞こえてきたとき、ランランはようやく扉に背を向けた。


 履いている布靴は室内用で、中庭を歩くなら履き替えないといけない。けれど午睡からさめて母屋に来たとき、中庭は通らなかった。回廊を使ったのだ。だから外を歩くための靴がない。


 ――でも、扉は開かない。


 自分で開けても、きっとまた追い出される。さっきよりもっと怒られる。


 黒い怪物みたいな雲がランランを見下ろしていた。中庭の地面では銀色の筋がたくさん飛び跳ねている。


 風は涼しい。たまに強く吹いて、やんで、また強く吹く。このなかに身をさらせば、確かに暑さはしのげる。


 顔に降りかかる飛沫に誘われるようにして、石段を下りた。


 次から次へと休む間もなく雨粒がぶつかってくる。頭から足先まであっという間に濡れた。


 布靴の中に水が染みこむ。足の裏がビチョビチョして気持ち悪い。それでも一歩一歩、下を見ながら歩く。


 胸の奥からどろどろしたものがこみあげてきた。目が熱い。息が乱れて、くるしい。糸のように細い声が漏れた。


 中庭には門から家屋への道として、灰色の煉瓦が敷かれている。中庭の出入り口から母屋に向かってまっすぐ一本、中庭の中央で交差する横の道が一本だ。


 濡れて黒くなった道を歩いて中庭の真ん中まで来たとき、足が止まった。


 部屋に戻りたくない。


 母の言葉どおり、姉の言葉どおりにするのがいやだった。誰にも見つからないところに隠れたい。そこで思いっきり泣きたい。


 土の上に下りた。足の裏に伝わる感触がぐにゃぐにゃと変化する。


 母屋からも自室からも遠ざかりたい。そして誰にも見つからない場所がいい。


 兄が寝起きしている棟の横にまわりこんだ。中庭からは陰になっているし、草木も茂っているから、ここなら誰にも見つからないはずだ。


 しゃがみこむとき、濡れた草が手にぶつかった。かまわず膝を抱える。布靴も裳裾も泥でぐちゃぐちゃだ。


 こんなに汚して怒られるだろうかと考えた。どうでもいいやとすぐに思う。雨が降る中庭へ追い出されたことにくらべれば、泥汚れを怒られるくらい、本当にどうでもいい。


 お茶をこぼしたのがお姉ちゃんだったらお母さんはどうしたのかな。


 容易に想像できる答えにランランは嗚咽をもらす。


 お母さんは、わたしのことが嫌い。お姉ちゃんも、いつも意地悪。


 わたしだってお母さんとおそろいの簪が欲しいし、内緒話をしたいのに。どうしてわたしはだめなのかな。


 ……違うから?


 わたしが、ふたりと違うから。


 雨も涙も一緒になって顔を濡らす。しゃくりあげる声も雨音に紛れる。本当に自分は泣いているのかよくわからなくなった。


 わかるのは、喉がひりついて息が苦しいこと。ひっきりなしに流れ落ちる雨でも冷やせないほど瞼が熱いこと。


 無意識に呼吸を整えようとしているうちに、しだいに心も落ち着いてきた。


 あれほど勢いのあった雨が今はまばらだ。見上げれば黒い雲がすべるように動いている。雲と雲のあいだに青空も見えた。


 頬をなでていく風が涼しい。いつもなら紗の生地が風を通して気持ちいいのに、濡れそぼった裾はそよともなびかない。


「ランラン?」


 ビクッとして背後を振り仰いだ。


 枝と枝の隙間からはっきりと目が合う。誰も来ないと思ったのに、庭木の向こうに兄が立っていた。


「そんなところで何やってるんだ?」


 問い詰める声というのはどんなときでも怖い。この場所で悪いことはしていないけれど、隠れていたところを見つかったという決まりの悪さで、兄の顔をまともに見られない。


 おずおずと立ち上がって、後ろ手で服を掴んだ。


「……暑かったから。雨で、涼しく……って」


 お母様に追い出されました、と正直に説明する気にはなれなかった。そんなことを話せば、兄も馬鹿にしてくるかもしれない。かといって、うまい言い訳が思いつかない。


 ふーん、と声を発して、兄はしばらく黙った。


 ランランは顔を隠したくて、ますますうつむく。瞼が腫れぼったい。まじまじと見られたら泣いていたことがわかってしまう。理由を追及されたら、もうごまかせない。


 足元の草を眺めた。雨はすっかりやんだようだ。葉っぱに残った雨のしずくが太陽の光を吸ってきらきら輝いている。どの草も青々としていて、土は濡れていて、布靴と裳裾は汚れていた。


「――俺はさっさと着替えたいけどね」


 思いがけない言葉にランランは顔を上げた。


 兄は黒い頭巾をかぶっている。外出するときに身につけるものだ。


 頭巾は後ろの布地が長く、背中まで垂れていることをランランは知っている。頭巾の下では髪をまとめているから、髷の形に膨らんだ後頭部を紐で結んで押さえ、余った布地が背中にかけてひろがっているのだ。


 その頭巾から水がしたたって、ぽたりと肩に落ちるのが見えた。ランランと同じようにぐっしょり濡れている。


 こんなに濡れているということは、これから外出するわけではない、ということだ。


「……外にいたの?」

「街を見てきた」

「街……」


 家の外に出ていたのだ。


 だからランランがここにいることもわかったのだろう。門から歩いてきたのなら、この場所は見える。目敏い兄の目は、草木とは異なる色の衣服がうずくまっていることにも気づいたのだ。


 ずきん、と胸が疼いた。


 ランランはまだ街を知らない。


 都にいたときは、それでも何回か連れ出してもらった。母が街に出るときは姉ばかり連れて行くけれど、父の知り合いの家族と一緒のときはランランも連れて行ってもらえたからだ。


 ここに引っ越してからは、まだ一度も家の外に出たことがない。


 母と姉はさっそく街を見に行っていた。連れて行ってとお願いしたのに、お留守番をさせられた。あのときは結局おみやげもなかった。


 兄もきょう街を見てきた。父だって、家族のなかで誰よりもさきに出掛けていた。


 自分だけ、まだこの街を知らない。


「どうして?」


 静まっていたはずの感情が膨らんでいく。積もり積もった思いを舌に乗せたら、もう抑えがきかなかった。


「どうしてわたしはだめなの? わたしの顔がみんなと違うからなの?」

「え?」

「お兄ちゃんもお姉ちゃんもお母様と顔が似てる。でもわたしは似てないから、だから、お母様はわたしが嫌いなの? お兄ちゃんとお姉ちゃんにはそんなことないのに、わたしに、わたしには……」


 最後まで言い切ることができなかった。あれだけ泣いたのにまた涙が溢れる。胸の底からこみあげてきて、息苦しくて、うまくしゃべれない。


 だからせめて、兄を見た。何度も涙をぬぐって兄を見つめた。


 兄がランランの質問に答えるのは一度にひとつだけ。外にいたのか、というさっきの問いは質問のうちに入っていないと思いたい。どうしても答えてほしかった。だから兄の目を強く見つめた。


 兄は口を半開きにして、唖然とした顔でランランを見ていた。やがて目をそらし、まわりに視線を走らせる。誰もいないのを確認するしぐさだった。


 兄が再びランランを見た。母や姉とよく似た切れ長の目に、母たちとは異なる光が浮かんでいる。


「ランランのお母さんは、違う人だって聞いてる」


 何を言われたのか、よくわからなかった。いま聞いた言葉を頭の中で繰り返す。やっぱりわからない。だから聞き返した。


「……ちがう?」

「ランランだけ、お母さんが違う。母上はランランのお母さんのことが嫌いだったから、その人のかわりに……その人に意地悪できないかわりに、ランランに冷たくしてるって――俺も噂を聞いただけだけど。噂だから、この話は人に言うなよ」


 兄が口を閉ざす。視線を落とし、こめかみを手の甲でぬぐいあげた。頭巾からしたたる水か、あるいは汗だろう。その手を下ろす途中でランランを一瞥する。


「それより、早く着替えたら?」


 言い終わると同時に兄は歩き出した。すぐに姿が見えなくなる。


 ランランは動けなかった。


 足が地面に沈んだように重くて、肩に黒い影がのしかかっているようで、指先ひとつ動かせない。


 そっか、と思った。だからか、とも思った。


 そっか、そうだったんだ。わたしのお母さんじゃなかったんだ。だからお姉ちゃんには優しくて、わたしには厳しかったんだ。


 わたしのお母さんは違う人で、もういないんだ。


 そっかあ……。


 瞬きをしたら涙がこぼれ落ちた。目の中に溜まっていたもので、最後の涙だ。もう新しくこみあげてくることはない。


 わたしだけ、お母さんが違う。それって、ひとりってことだよね。家族のなかでわたしだけ、みんなと違うんだから。だってお父さんも、わたしの味方じゃないもの。


 お父さんとお母さんとお兄ちゃんとお姉ちゃん。おまけで、わたしなんだ。


 焼けただれるようだった心が冷えていくのを感じる。体の中に詰まっていた何かが消えてしまった。からっぽで、行くあてのない、石にでもなったような感覚に襲われる。


 蝉が鳴きはじめた。すぐそばの木にいるらしい。


 うるさくて鬱陶しくて、ランランは耳を塞ぎたくなった。それでも体は動かない。動く気になれない。蝉と木漏れ日を濡れた体に浴びて、ただ耐えていた。


 自分もこんなふうにうるさかったのかもしれないと思った。


 嫌われているのに。


 本当に、最初から嫌われていたのに。


 姉と同じようにしてもらえる可能性なんてあるはずなかったのに。


 それでも。


 それでも、おそろいの簪が欲しかったのだ。






 次の日、ランランと同じ部屋で午睡をとるのを姉がいやがった。


 お母様と一緒がいいと甘えて、母は母で相好を崩す。二人は手をつないで母の寝室に消えた。


 もし同じことをランランが言ったら「幼い子供じゃないんだから」と断られただろう。


 きのうまでのランランだったら、唇を噛んで耐えた。母が母じゃないと知ったランランは、姉のそばで眠らなくていいから嬉しい、と考えた。


 ランランは午睡をしないことにした。


 横になったけれど眠くなかったし、母や姉と同じことをするのもいやだと思った。どうせ一緒に行動させてはくれない。それなら、自分は自分で動こう。


 どうせ、ひとりなんだから。


 この家で、自分はひとりだ。


 下女を退室させてから、何をしようか考えた。


 せっかくなら面白いことがしたい。屋敷を歩きまわってまだ知らない場所を探すのもいいかもしれない。だけど物足りない。もっと、もっと面白いことがしたい。


 そう思っているのに、母や姉の姿が頭にちらつくのを止められなかった。そのたびに胸が疼く。母の目つきや姉の笑い声を思い出しては、引っ搔かれたように胸のあたりが落ち着かなくなる。


 だから、母と姉のことを考えた。


 悔しいなあと思う。


 笑われっぱなし。意地悪されっぱなし。


 わたしばっかり。


 いやだなあと思う。


 もう泣きたくない。我慢したくない。


 これからもずっと続くんだろうか。やめてほしい。本当に、いやだ。


 中庭に出ると、陽射しが強烈だった。目を細めながら真ん中まで歩く。


 立ち止まって三つの棟を見回した。部屋の中はどこも陰になっていて暗く、涼しそうに見える。


 母屋に向かった。石段が二箇所あり、居間と両親の寝室にそれぞれつながっている。


 片方の石段の前で立ち止まり、しばらく様子を窺った。物音がしない。動いている人の気配はない。


 深く息を吸って、石段を慎重に上る。開け放たれた部屋の中から伽羅の香りが漂ってきた。母が好んで使うお香だ。


 ひどいことをされても、ひどいと思っても、ランランはこっそり隠れて泣いて、ひとりで耐えて、何事もなかったように忘れたふりをしてきた。


 ランランが泣くと姉は笑うし、父は母の味方をするし、兄は迷惑そうにするからだ。


 だけどこれからは泣かない。人前でも、人前じゃなくても、泣かない。


 もっとちゃんと、いやだと伝える。抵抗する。それでもいやなことをされたら、あとで仕返しをする。それでおあいこだと思うことにする。そうしよう。


 ランランは決めた。決めたら気持ちが軽くなった。


 今からすることは、これまでのぶんの仕返しだ。


 室内履きを持ってきていなかった。靴の裏を確認して手で撫でてみる。乾いているし、土はついていない。このまま部屋に上がってもきっと足跡はつかない。


 ちょっとのあいだだからいいよね、とそのまま部屋に上がった。


 物音をたてずに寝台に近づく。横たわる母と姉を眺めた。


 二人とも目を閉じて、向かい合うように横向きに眠っている。寝ていても暑いのだろう。姉の額には汗が浮かんでいるし、母の首筋には髪の毛が張りついていた。


 姉は髪をすべてほどき、母は頭のてっぺんだけ結わえたまま、残りの髪はほどいている。


 ランランは寝台の横を見つめた。小物入れが置かれた円卓があり、外したばかりの髪飾りが並んでいる。


 あれもあるんじゃないかと思って見たけれど、目当てのものはなかった。あれは母も姉も、毎日つけているわけではない。


 小物入れに手を伸ばした。


 中に入っているのはたくさんの髪飾りだった。今の季節に合わせた意匠のものばかりだ。いくつか手に取ったあと、ランランの目はそれに吸い寄せられた。


 黒い簪。黒い漆に螺鈿が嵌めこまれている簪。


 角度によって色を変える螺鈿は、今は緑色だ。ランランが持ち上げると、まるで顔色を変えるかのように青色になった。


 簪を握りしめて、片手で小物入れを閉じる。気をつけていたのに、カタン、と音が鳴ってしまった。


 鼓動が速くなる。息を殺してかたわらを見下ろす。


 母も姉も、瞼を開く気配はなかった。


 母の顔をこんなに間近で見ることはめったにない。


 長い睫毛が合わさり、紅をさした唇もぴたりと閉じ、桃のようにほのかに赤い頬は柔らかそうだ。いつもランランに向ける冷たい表情はなく、姉に向けるような甘い表情もなく、ただ穏やかだった。


 母の腕が姉のそばで無造作に投げ出されている。白い掌が天井を向いていた。かすかに曲げられている指の細さを見つめるうちに、思った。


 手をつないだことなんて、一度もないかもしれない。


 姉が母と手をつないでいるところは何度も見た。だけど自分は、ない。



 お母様。

 ううん。

 お姉ちゃんの、お母さん。

 わたしのお母さんじゃない。


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