失敗したら、だめなの
「ランランの髪、すっごくからまる!」
姉の声が笑っている。
グッ、グッ、と髪の毛が引っ張られて、頭も後ろに持っていかれてしまう。ランランは思わず叫んだ。
「痛い!」
「がまんしてよ、ランランの髪が悪いんだから」
そう言って姉は力ずくでランランの髪をとかす。
痛くて痛くてたまらない。ランランは両手で頭を押さえたが、姉が手を止めてくれることはなかった。
きょうは来客があり、父も母も客間で応対している。母が忙しいとわかると、姉は「
楽器は嫌いじゃない。だから特にいやとは思わず頷いた。
姉が途中で演奏を止めたのは、ランランの髪の毛がほんの少しほつれていたせいだ。「わたしが結い直してあげる」と笑顔で言われたため、しぶしぶ従った。
髪の毛はいつも下女に結ってもらう。姉だってそうだ。姉がちゃんと結えるのか不安だったが、姉の申し出を拒む勇気がランランにはない。拒めばきっと怒らせてしまう。母に告げ口される。
姉は無造作にランランの髪飾りを取り払って、髪型を崩した。そうして櫛を入れてくれたのだが、待っていたのは苦痛だったのだ。
――下女ならもっと痛くないようにしてくれるのに。やっぱりお姉ちゃんは下手だ。
痛みに耐えつづけていると、ようやく櫛から解放された。
「疲れちゃった。またあとでね」
え、とランランは振り返る。
「喉かわいた~」
姉はそう言いながら、ランランを置いて部屋を出て行ってしまった。
床に髪飾りが散らばり、櫛が落ちている。たまに母が髪飾りとして使う櫛とは違って、彩りのない木製の地味な櫛だ。その櫛の歯に髪の毛が何本も絡みついていた。
唇を噛んだ。
熱くて苦いものがこみあげてきて、両目からこぼれる。
頭が痛い。今もまだ引っ張られているように痛い。
やめて、ってもっと強く言えばよかったかな。
振り払って逃げればよかったかな。
怒ればよかったかな。
直してあげるって言われたとき、下女に直してもらうって言えばよかったかな。
ランランはしゃくりあげながら、それでも手を伸ばした。櫛を拾い、髪の毛を取り除く。散らばっている髪飾りもすべて拾った。
髪を下ろしたままなのはみっともないし、落ち着かないし、暑苦しい。
姉が続きを結いに戻ってくるかもしれないけれど、そんなのは待ちたくない。下女のところまで行って、結ってもらおう。
涙を袖でぬぐって立ち上がる。髪飾りと櫛を両手で包むように持ち、部屋を出た。
下女がいるのは別の棟だ。両親の寝室がある母屋の真後ろに位置している。中庭とは反対側だ。
そこまで考えて、姉がどこに向かったのかが気になった。
もしも
――姉に見つかりませんように。
願いながら歩き、棟と棟をつなぐ回廊に踏みこんだ。とたんにランランは息を呑む。十歩ほど前を姉が両親と歩いていた。
客は帰ったのだろう。両親が先か、姉が先かはわからないが、全員が同じ方向に歩き、こうして追いついてしまったのだ。
父と母のあいだを歩く姉の表情は見えないが、足取りが弾んでいる。母は笑っているようであり、父も機嫌が良さそうだった。
――出直してこよう。
元来た道を戻ろうと片足を引いたとき、父がランランに気づいた。あっという間に父の眉間に皺が寄る。
「ランラン、その頭はどうした? 自分でほどいたのか?」
母もランランを見る。父と同じように眉をひそめて、溜息をついた。
「はしたない子」
「髪の毛も体の一部だ。服を着るのと同じように、頭巾で隠したり、まとめたり飾ったり、手を加えないといけない。それなのにどうして下ろしたんだ。今から髪を洗うのか?」
ランランは慌ててかぶりを振った。
「ちがうの、あの、ほどけてたから、お姉ちゃんが結ってくれるって、それで」
「わたしじゃないよ!」
ひどい、という顔で姉が叫ぶ。
「ほどけてるよって教えてあげたら、自分で直せるってランランが言ったの。それで自分でほどいて、でもやっぱりできなかったみたい」
「それなのに、お姉ちゃんのせいにしたのね」
母の声は呆れていた。
「ちがう……お姉ちゃんが」
「目が赤いな。自分でできなくて泣いたのか?」
そうじゃない、とランランは首を横に振る。泣いたけれど、泣いた理由が間違っている。姉の嘘を説明したいのに、ランランが言葉を探しているうちに話が進んでしまう。
父が溜息をつき、険しい声でたしなめてきた。
「人のせいにするのは良くないな」
「謝りなさい、ランラン。お姉ちゃんに」
え、とランランは母を見つめた。
鋭い目つきで見下ろされる。姉の言葉を疑わず、ランランの行いに腹をたてている。
どうして、とか、いやだ、とかいう言葉が頭の中をぐるぐる駆け巡った。謝るのは姉のほうだと声に出したかった。何を言っても無駄だとも思った。
ランランはうつむいた。
「……ごめんなさい」
姉の顔は見なかった。見たくもなかった。
「下ろしていてもいいが、髪飾りぐらいはつけなさい」
父の言葉が降ってくる。小声で「はい」と答えた。
三人が歩き去っても、ランランはその場に立ち尽くしていた。
手に力をこめる。髪飾りや櫛が掌を刺して、痛い。
痛い。
痛いのは、髪の毛が抜けるほど引っ張られた頭。
父の言葉と、母の視線。姉の嘘。
痛い。痛い。
お姉ちゃんはずるい。
いっつも、いっつもお母さんやお父さんに味方してもらえる。お姉ちゃんのせいでわたしが痛くても、わたしが悪いってことになる。
わたしの話は聞いてもらえない。
どうして?
どうしてなのかな?
わたしだけ、似てないから?
前に侍女たちが話していた。末のお嬢様だけは違うから、って。そう言っていた。
何が違うの?
わたしの何が、だめなんだろう。どうすればいいのかな。どうすればお父さんは褒めてくれるの。どうすればお母さんは微笑んでくれるの。
止まったはずの涙がまたこぼれた。袖で何度もぬぐいながら、ランランはよろけるように歩いた。
母も姉もランランも、午睡をする。
父と兄はしないが、女たちは特別な予定がないかぎり、することになっている。
暑くてなかなか寝付けないけれど、下女が風を送ってくれると、いつのまにか眠りに落ちてしまう。
午睡からさめるとお茶の時間だ。三人で母屋の食卓を囲み、お茶とお菓子を楽しむ。
食卓は細長くて、ランランと姉が並んで座っているところのほうが広い。母は狭いほうに座っているが、そこが定位置なのだ。姉はランランから椅子を離して、なるべく母のそばに寄って座っていた。
お茶とお菓子を味わいながら、母と姉の会話を聞く。
都での思い出話、訪問した家の娘が小さい足を保つためにわざと小さな靴を履かされていた話、父や兄の話、この街の大路で観た曲芸の話、次に出掛ける日の約束。
そのときどきによって内容は異なるものの、ランランがひたすら聞いているだけというのはいつもと変わらない。なるべく音をたてないようにするのも、二人の機嫌を損ねないために身につけてしまった習慣だ。
お茶は引っ越す前に飲んでいたものと同じだった。固めてある茶葉の一部を削り取り、お湯に混ぜて飲む。茶葉の種類によって色も変わるのだろうが、ランランは木の皮のような茶色いお茶しか知らない。ほっとするような香りがして、味はすっきりとしていて飲みやすい。
蒸し暑くて喉が渇いているときに飲むお茶は格別だ。温度もちょうどよく、ぬるすぎず熱すぎない。ついゴクゴクと飲んでしまい、二杯目、三杯目と下女についでもらった。
小皿の中には蜂蜜漬けにした
そのあいだも母と姉はおしゃべりしている。都とこの街の違いについて、気に入ったところと嫌いなところを語りあっていた。
不意に、バラバラッという音が聞こえた。
開け放った扉から中庭を見ると、すでにザーッという音に変わっている。雨だ。遠くのほうで雷が鳴っているのも聞こえた。
大きい雷は怖いけれど、まだかなり遠そうだから大丈夫だ。こういう雨は冷たい風を連れてくることがある。冷えてくれればいいな、とランランは思う。
「降ってきた」
姉が言うと、母も「まあ」と返事をする。
「ほんとね。風が冷えてくれればいいけど」
ハッとしてランランは母を見た。自分が思っていたことと同じことを母も思った。それだけですこし、心が弾む。
母は中庭を見ていた。雨が降っているのを確認したあとは、桜桃が入った小皿に目を落とす。匙を口に運ぶ様子をランランが見つめても、母が見つめ返してくることはない。
けれど姉はランランを見ていた。
視線に気づいて目を向けると、姉はすぐに顔をそむけ、立ち上がって母に近づいた。体をくっつけ、母の耳に口を寄せる。ひそひそと何かを囁いた。
母と姉が笑い声をたてた。姉が何かを含んだ眼差しでランランを見る。
――何だろう。わたし、何か変なのかな?
桜桃を食べる。さっきよりもおいしくない。口の中をすっきりさせたくなって、お茶を飲んだ。
母と姉の内緒話に気を取られていたせいか、急いで飲んでしまったせいか、うまくお茶が喉を通らずに噎せてしまった。
ゴホゴホと咳きこんだ拍子に、口の中に残っていたお茶も吹き出しそうになる。慌てて口を押さえたら、茶碗を持っているほうの手から力が抜けて、お茶をこぼしてしまった。
母が小さく悲鳴をあげた。
「あ! ランランきったな~い!」
「こっちに向かって咳をしないで!」
ごめんなさい、と謝ろうとしたけれど、咳が邪魔してうまくしゃべれない。ランランがこぼしたお茶は姉の小皿の底を濡らし、さらに母のほうに向かって伸びていた。
下女が飛んできて拭いてくれる。床にはこぼれなかったけれど、ランランの桜桃にはお茶がかかってしまった。
「欲張って何杯も飲むからよ」
母が尖った声を出し、中庭を指さす。
「ランラン、もう部屋に戻りなさい」
え、と声をあげようとしたとたん、また咳が出た。そんなことはお構いなしに母は言い募る。
「暑いんでしょう? 雨が降ってるからちょうどいいわ。ここからまっすぐ自分の部屋まで戻れば涼しくなれますよ。戻ったら着替えなさい」
「でも」
まだ桜桃が残っている。お茶がかかってしまったけれど、それはほんのすこしだ。できれば食べてしまいたかった。
姉が小走りでランランのもとにやってきた。ランランの腕を掴んで椅子から立ち上がらせる。
「ランランはお部屋に」
背中をぐいぐい押されるから歩いてしまう。扉の外の石段まで下りたところで解放された。
まだ屋根の下だけれど、部屋の中から雨を眺めるのとはわけが違う。地面を叩く音が大きくなり、こまかい飛沫が降りかかってきた。
雨という巨大な生き物が唸り声をあげ、湿った息を吹きつけてくるようだ。遠くの雷もランランに気づいたように吼えている。
――やだ。
化け物の巣に放りこまれるような心地がした。この雨のなか、こんなふうにひとりで中庭に出たくない。
「降りこんでる? 閉めてちょうだい」
「は~い」
母の声に姉が応じる。扉を閉めながら、姉は楽しそうな笑顔をランランに向けていた。
「またあとでね、ランラン」
扉が完全に閉まる直前に見たのは、ランランの桜桃を手振りで下女に片付けさせる母の姿だった。
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