ランランの簪
願いを伝えてみたけれど
簪が欲しかった。
母と姉が二人で芝居見物に出掛けた日、おそろいで買ってきたあの螺鈿の簪。
おみやげよと母が言い、母のかわりに姉がランランに渡してくれたのは簪ではなく、飴だった。すでに溶けてベトベトしていて、形も大きくて、口に入れるとほっぺたが痛かった。
姉が羨ましかった。
母とおそろいの簪を手に入れた姉が。いつも母と芝居見物に出掛ける姉が。
母と姉が家にいないあいだ、ランランは兄の部屋の前でしゃがみこむことが多かった。閉ざされた扉に耳をくっつければ会話が聞こえる。十四歳の兄の部屋にいるのは兄の家庭教師だ。
太祖様の開国のお話。
今の天子様が七代目であること。
今までは太后様が天子様のかわりに
だから改元されたこと。
左遷されていた宰相が、天子様によってまた宰相に戻されたこと。
宰相はお父様と反対の立場にいること。
――サセンって何だろう。
わからない言葉が聞こえてくると、ランランはひとりで考えこんだ。
家庭教師は部屋の前でしゃがみこんでいるランランを見ても、特に咎めなかった。静かに微笑んで、挨拶をして、帰っていく。
咎めるのは兄だ。ランランを見下ろし、うんざりした顔で溜息をついた。
「盗み聞きか? はしたない」
はしたない、と口では言うけれど、兄がランランの行いを誰かに告げ口したことはない。これが姉なら間違いなく母にも伝わってしまう。母に伝われば父にも伝わる。そうしてランランは母にまた嫌われて、父にまた叱られる。
兄は告げ口をしない。
それだけで、姉よりも兄のほうがランランは好きだった。
「サセンって、なに?」
ランランが問うと、兄はわずらわしそうに睨んだ。
「都から遠くの土地へ行かされることだ」
「旅をするの?」
「遊びに行くんじゃない。昇進が遠ざかるってことだ」
「ショウシン?」
ランランの質問に答えるのは一度にひとつだけ。たぶん兄はそう決めている。だからふたつめの疑問には答えてもらえなかった。
ランランは考える。ひとりで考える。
サセンは、よくないこと。
たぶんそういうこと。
それから間もなくして、父が都を離れることになった。みんなで引っ越すそうだ。
父は険しい顔をしていて、母は眉根を寄せて嘆いて、姉は都から離れることを残念がっていて、兄は憂鬱そうだった。
母が一度だけその言葉を使った。だからランランにもわかった。
これが左遷だ。
新しい屋敷は狭かった。
首をねじって左側を見れば両親の部屋だ。窓の隙間からチラチラと見える母は出掛ける準備をしていて、それを手伝う下女の姿もあった。父はすでに仕事へ出掛けたあとだ。
庭や家屋の並び方は前の屋敷と似通っている。ただし、狭い。庭も狭いし、家屋も以前より小さい。父も母もそう言っていたし、ランランもそう思う。
間取りも窮屈になったから、都では別々の部屋だった姉とランランはひとつの部屋を使うことになった。
「ちょっとランラン、窓の前に立たないで。風が入ってこないでしょ」
背後から噛みつくような声が飛んでくる。下女に髪の毛を結い直してもらっている姉は、ランランが立っている場所を指さしてさらに言い募った。
「それに、そこはもうランランの部屋じゃないから! 言ったでしょ? 扉から窓の手前までがランランの部屋で、それ以外はわたしの部屋なの。わたしの部屋に入っちゃだめ! 窓の前に立っちゃだめ!」
「ごめんなさい」
ランランは窓から離れた。離れたからといって風は入ってこない。外の陽射しは強く、空気は生ぬるく、肌は汗ばんでいる。
姉に見えないように手を後ろにまわした。お尻のあたりで布地をこっそり握りしめる。声に出せない気持ちはこうやって押し殺すのが癖になっていた。
引っ越した初日に部屋の境界線を姉が決めた。同じ部屋だけど、ランランが入っていいのは部屋の入り口付近までで、部屋の奥は姉だけが使うというものだ。
姉の部屋にランランが入ることは許されないけれど、姉がランランの部屋に入ることは許される。この部屋を出入りするときにどうしてもランランの部屋を通るからだ。
そんなのっておかしい。
思うけれど、ランランは口に出さなかった。姉には勝てない。
「あ、そっちの簪がいい。お母様とおそろいの」
姉の指示で下女が簪を手にする。角度によって色を変える螺鈿の簪だ。
姉の髪に簪が挿されるのをじっと見ていたら、姉が口元に笑みを浮かべて話しかけてきた。
「綺麗でしょ? 螺鈿ってね、石じゃなくて貝殻なんだって」
「うん」
最初に見たときから綺麗だと思っていたから、正直に頷く。たちまち姉が得意げな顔をした。
「ランランも買ってもらえるといいね。だけどお母様は、ランランには螺鈿なんて似合わないって言ってた。まだ子供だから、飴菓子ぐらいがちょうどいいって」
まだ子供。
そうは言っても、ランランと姉は一歳しか違わない。ランランが十一歳で姉が十二歳。たった一歳で、螺鈿が似合うかどうかが分かれてしまう。
本当に年齢のせいなのかな、とランランの気持ちはすっきりしない。
「きょうも飴を買ってきてあげようか? 都の飴とどっちがおいしいかな?」
姉が優しい声で訊いてくる。
ランランは床に視線を落とした。姉の瞳に宿る光はちっとも優しくない。
姉はこのあと母と一緒に出掛けるのだ。新しい街がどんなところなのか、牛車に乗りながら見てくるらしい。提案したのは母で、誘われたのは姉だけだった。
母はいつも姉だけを連れて行く。引っ越してもそれは変わらないのかと思うと、ランランの胸はぎゅっと絞られたように苦しくなる。
――わたしも。
一緒に行きたい。一緒がいい。お母様とおそろいの簪が欲しい。
ランランは顔を上げた。
「わたしも行きたい」
姉は呆気にとられたような顔をした。すぐにアハッと吹き出して、馬鹿にしたような顔になって、声をたてて笑った。
「お母様がいいって言ったらね。お願いしてみたら?」
つまり姉は許可してくれたのだ。本当はいやなのかもしれないけれど、一応は許可してくれた。それなら母も許可してくれるかもしれない。わからないけど、もしかしたら、連れて行ってもらえるかもしれない。
ランランはそう考えて、「うん」と頷いた。
姉にくっついて中庭へ下りる。桃色の薄い紗をなびかせて姉が母の部屋に近づいた。それを見計らっていたように母も中庭に下りてくる。
母の黒髪を飾るのは、翡翠と真珠。そして姉とおそろいの螺鈿。それらが陽射しを受けてきらきらと輝く。母は眩しそうに目を細め、色白の顔に小手をかざした。
母と姉の目はよく似ている。目尻が切れ長で瞳が大きいのだ。兄の目も切れ長なところは似ている。
ランランの目は丸いから母に似ていない。じゃあ父に似ているかと言えばそれもどこか違った。
衣に
母は紅をさした唇に笑みをたたえて、「行きましょう」と姉の手を取った。
「お母様、わたしも連れて行って」
ランランが声を張り上げると、母の目がやっとランランに向いた。スッと視線を流すようにランランの頭から足元までを見る。
母は顔をしかめた。
「身支度を整えていないじゃないの。外に出るときはちゃんと相応しい装いをしないといけないのよ。こんな姿では連れて行けません」
ランランは寝間着からちゃんと着替えている。髪も結っているし、暑いからといって着崩してもいない。けれどこれは確かによそ行きの服ではなかった。普段着だ。
「じゃあ、いま着替えてくる」
「着替えてきます、でしょう。それにねランラン、着替えを待っている時間はないの。お留守番してて」
母はよどみなく言い切って、姉の手を引いた。
中庭を出て行く途中で姉が顔だけを振り向ける。勝ち誇ったように笑っていた。
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