買ってもらうのも悪くない

 簪の少女は姿を見せなかった。


 牢から出たという日も、翌日も、さらに次の日も、その次の日も、シャオゴウの前に現れなかった。


 螺鈿の簪はまだ棚にある。シャオゴウは誰もいないときにこっそり手に取って、不思議な輝きに見入るようになった。


 きっともう来ないんだろうな。俺に会うのもいやなんじゃないかな。


 そんな思いを抱きながら日々の飴売りを続けた。


 ヤン家を訪ねた日から十日が過ぎた。


「ひとつ一文、ひとすくい六文だよォ!」


 昼下がりの空には雲がひとつもなく、太陽は白く眩しく照りつけて、溜息のように生ぬるい風が吹いている。この暑さのせいか、大街ダアチエに人の姿は少ない。


 店の中にいる客にまで聞こえるように、シャオゴウは声を張り上げた。鼻には汗が玉となって浮かんでいる。


 不意に袖を引かれた。幼い子供がシャオゴウを見上げている。握りしめた小さな手を開いて、一文銭を差し出してきた。


 小鉢から飴をひとつ選ばせてやると、嬉しそうに走り去っていく。その先では男がにこやかな顔で待っていた。


 買ってもらえてよかったな、と心の中で語りかけた。味わって舐めろよ、うめえんだから。


「飴をちょうだい」

「へい」


 反射的に振り向いたとたん、言葉をなくしてしまった。


 もう会えないだろうと思っていた相手が目の前にいる。あいかわらず物語から抜け出たような可憐さで、シャオゴウの目をまっすぐ見つめてきた。


「お金は、いらないんだったよね?」


 いろんな思いが頭を駆け巡るせいで、シャオゴウは返事ができずに黙っていた。女の子が不思議そうに首を傾げるのを見て、やっと口を開く。


「もう来ないと思った」

「どうして?」

「だって、助けなかった、から」


 声が細る。小鉢を持つ手に力をこめて、伏し目がちになった。


 荷車がそばを通り過ぎた。口取りの男が鼻歌を口ずさみ、牛が悠々と大地を踏みしめていく。


「えっとね」


 女の子は迷うような顔をして、すぐに微笑んだ。歳上のお姉さんのような顔つきで、ゆっくり慰めるように言葉を紡ぐ。


「わたしはね、気にしないの。気にしないことにしたの。あのときはね、助けてもらいたかった。だけどね、あの人って、おっかないもの。あの大きい人。怖いときって、なんにも言えなくなっちゃうことあるから。あんな人には、わたしだって何も言えない」


 シャオゴウは縮こまる思いで女の子から目をそむけた。


 見抜かれていたのだ。自分がヨンジュンに対して怖じ気づいていることを。情けなくてみっともなくて、すごく恥ずかしい。


「それにね。助けてって思っても、助けてもらえないっていうことはあるから。それでも泣いたりしないんだよ、わたし」


 誇らしげな言い方だった。


 シャオゴウの胸がざわつく。何かが引っかかって、警鐘を鳴らした。


「だから気にしてないの。あなたがわたしに意地悪したかったわけじゃないんだって思ったから。だから、いいの」


 だめだ、と思った。


 胸のあたりがカッカッとして、腹立たしいような、悔しいような、なんとも落ち着かない気分に襲われる。


 だめだ。これじゃだめだ。


「それより、ねえ、飴をくれないの?」


 飴なんて、欲しいなら取ればいいだろ。お代はいただいてんだ。


 シャオゴウは獅子を女の子の唇に押しつけた。戸惑ったように開いた口の中に落とす。すぐに手を引っこめたものの、指先が柔らかい唇をかすめた。


 飴が歯をこする音がして、女の子のほっぺたが片方だけ膨らむ。


「びっくりした」


 ぱっちりと大きくて丸い目が、きらきらと輝いた。さっきまでの目とは違う。急に日が差したように生き生きとしている。


 うまく言葉にできないまま、自分の感情をシャオゴウは持て余した。口調が尖ってしまう。


「何日も来なかっただろ。怒ってたからじゃないんか」

「叱られてたの。外に出してもらえなかっただけ。きょうだって、こっそり抜け出してきたんだから」

「ばれたらまた叱られるじゃんか」

「そうかも。でもあなたの飴が欲しいから来たの」

「俺が作ってるんじゃないよ。売ってるだけだ」

「ああ、そういうことは考えなかった。んー、でもやっぱり、あなたがくれた飴だから、あなたの飴だって思う」

「違うって言えなくてごめん」

「え?」

「次はちゃんと言う」


 しゃべっているうちに、もやもやしていた気持ちの一部が言葉になった。頭を通さず口から飛び出した感じがする。口に出してから、そう、それが言いたかった、と思った。


 ヨンジュンが人に頼られるのはどうしてだ。怒らせるな、悪人だ、と言いつつ毎月の付け届けを父が進んでやっているのはどうしてだ。


 助けるからだ。おっかないけど、でも助けてって言ったら助けてくれる人だからだ。


 助けてっていう目を向けられたのに見て見ぬふりして逃げたら、頼られる男にはなれない。


「次は助ける。約束する」


 澄んだ声音がシャオゴウの耳を打った。


「ありがとう」


 感謝を告げると同時に女の子は笑った。強い陽射しのせいか、その頬は赤い。


 体の中でくすぶっていた言葉にできない気持ちが、涼風に吹かれたように静かになった。消えたわけではない。芽生えて、根付いたのだ。だから胸の奥はさっきよりも熱かった。


「ね、お願いがあるの」

「なに」


 女の子が笑った。にこにこではなく、にやにやと。


「わたしがあなたのぶんを買うから、いっしょに舐めよう? いいでしょ?」

「え、飴を?」

「うん。それで仲直り。ね?」


 どうしてそんな変なことを、と思ったが、すぐに思い当たる。前に言っていたじゃないか。飴を買ってみたかった、と。


「いいよ」


 女の子は笑顔で自分の帯の中に指を突っこんだ。取り出したのは一文銭だ。


 シャオゴウが銭を受け取ると、女の子はすぐに獅子をひとつ取った。それをシャオゴウの唇に押し当ててくる。


「え」


 驚いて声を出した瞬間に、獅子がシャオゴウの口の中に入った。舌の上にでこぼことした形の甘さが落ちてくる。


 くふふ、と女の子が楽しそうに笑う。


「なんだよ、びっくり」

「そうでしょ?」


 予想外の仕返しが面白くて、シャオゴウも笑ってしまった。


「ね、座ろう」


 言いながら袖を引っ張ってくる。白い指がさしているのは店先にある石段だ。


 日陰になっている場所を選んで、隣り合わせに腰を下ろす。とたんに大街ダアチエの風が遠のいて、二人だけが切り離されたような心地になった。


 息を吸うと、草花の香りがする。触れそうなほど近くにある少女の体から、ふんわりと香ってくる。


 舌で獅子をなぞった。まろやかな甘みが、どういうわけか指先にまでひろがっていくようだ。


 ――こんなにおいしかったっけ。


 舐めるのは初めてではない。知っている味のはずだ。それなのに、いま口に入っている獅子は記憶にあるものよりも格別においしかった。


「そういえば」


 ほのかな草花の香りを纏って、女の子がぽつりと呟く。


「わたしたち、まだ名前も知らないわ」


 そういえばそうだった。


 シャオゴウは飴を舌の上から頬に寄せて、口を開いた。




(結)

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