もう遅い?

「まだいたのか」


 手招いた父は、目をまるくしていた。


 あれからどうにも飴が売れなくて、シャオゴウは日が暮れても大街ダアチエをうろついていた。屋台の準備をしていた父がそんな息子を見つけ、呼び寄せたのだ。


「売れなかったんだな。どれ、父ちゃんが売ってやるからだいじょうぶだ」


 父はシャオゴウの籠に残っている飴を、自分が持ってきた飴に混ぜてしまった。


「飴は日持ちする。一日で売れなくたって平気なんだよ。母ちゃんはうるさく言うけどな。だいじょうぶだ。暗くなったら溶けててもわからねえ」


 アハハ、と父が笑い声をたてる。


 夕暮れの薄闇の中、提灯が白い獅子を蜂蜜色に染めた。まるで新しい命が獅子に宿ったように見える。


 提灯にはそういう力があるんだろうか。


 道に並ぶいくつもの屋台で提灯が使われ、行き交う人々を照らしているのも、実は明かりのためだけではないのかもしれない。


 提灯を目にした人は元気になる。元気になって銭を使う。そういう仕掛けがあるのかもしれない。


「何かあったんか」


 椅子がわりの木箱に腰を下ろした父が、唐突に訊いてきた。


 乱舞しているかのような提灯の光に目を奪われていたシャオゴウは、ちらりと父の顔を見て、うつむく。


「……ヤン家のだんなに会った」

「何を言われた」

「言われたっていうか、その、お客さんが……」

「お客さんともめたんか」

「あの簪の子だよ。父ちゃんもきのうの朝、見てただろ? あの簪」

「簪。ああ、銭のかわりにもらったっていうあれか。その子がどうした」

「だから、ヤン家のだんなが、連れて行っちゃって。銭入れをその子が盗ったって言うんだ。でも違うんだよ。違うんだけど、俺……」


 シャオゴウは口をつぐんだ。これ以上は言葉が出てこない。連れて行かれるのを黙って見てた、その言葉が続かない。


 近くで音曲が聞こえてきた。銅鑼どらの拍子に合わせた軽快な演奏があたりに響く。楽器のほかに何かの芸もやっているのかもしれないが、人の壁に阻まれて見ることはできない。


 シャオゴウは籠の中の獅子を眺めた。


「シャオゴウ」


 呼ばれて顔を上げる。糸のように目を細める父がいた。


「真面目で正直なところがシャオゴウのいいところだ」


 のんびりした声が、「だけどな」と続ける。父の声はたいして大きくないのに、不思議とまわりの音に負けない強さがあった。


「だけどすこし賢さが足りないな。兄ちゃんたちはもっとずる賢いぞ。シャオゴウぐらいの歳のときでもな、すこし高く売って儲けたぶんをこっそり自分の小遣いにしてたんだ」

「え、そうなの」


 急に話題が変わって、あれ、と思ったが、自分が知らない兄たちの真実ですぐに頭がいっぱいになった。


「おたくの息子さんがあっちで飴を売ってたけどお店で売ってるのより高いんだなあ、ってお客さんに言われることあったからな。運び賃も含まれてますんでってとっさに父ちゃんも嘘ついた」

「それ、いいの?」

「よくないなあ。だから兄ちゃんたちにはこう言った。運び賃が欲しいなら、もうちっとわかりにくくやれってな」

「ええー……」


 いいのだろうか。父が怒らないということは、いいということなのだろう。だけども、どうにもすっきりしない。


 ハハッと父が笑い声をあげた。シャオゴウの頭を乱暴にかきまわしてくる。父の手の重みが、頭の上から中身を通って心まで揺さぶってくるようだった。


「いいんだ。ずる賢くっても、馬鹿正直でも」

「なんだよ」

「正直な気持ちのまんま、友達を大事にしろ。ヤン家のだんなは嘘つきが嫌いだけどな、ほんとの話ならちゃんと聞く。正直者のシャオゴウの話も聞いてくれるさ。それでだんなを怒らせることになったとしても、うちは誰も怒らない。馬鹿正直で優しい末っ子シャオゴウを怒るやつなんて、うちにはいない」


 不意打ちで話題が戻ってきた。こういうのはずるい。言い訳もごまかしも封じられて、強がることができなくなる。


「……うん」


 父の手が離れる。頭が軽くなる。一瞬だけ涼しさも感じた。


「さ、真っ暗になる前に帰れ」


 肩を押されて、もういちど「うん」と答える。歩き出したら、背中に声がかかった。


「シャオゴウ、ありがとな」


 振り返ると父が笑っている。何に対してのお礼なのか、ピンとこなかった。それでもシャオゴウは、「うん」と笑い返した。






 いつものように飴売りの装いをしたものの、向かう先はいつもの大街ダアチエではなかった。


 一人でヤン家を訪ねるのは初めてのことだ。走っていないのに全力で走ったときのように心臓がバクバクする。


 門は開いていた。


 中を覗くと人がいる。庭の手入れをしているようだ。父よりすこし歳上の男の人で、ヤン家の使用人だとシャオゴウは思い出す。父にくっついてここを訪れたときにも話をしたことがあるのだ。


「あの」


 使用人はすぐにシャオゴウに気づいてくれた。


 知り合いだから、すこし気が楽だ。まっすぐ見上げて「だんなさまに会いたい」と告げることができた。


 使用人は不思議そうな顔をしたが、庭に入れてくれた。ここで待つように、と告げて母屋のほうに消える。


 ヤン家の敷地は広い。その半分は薬屋の店舗で、もう半分が家族の住む屋敷となっている。店舗と屋敷は建物の中でつながっているらしい。


 シャオゴウが訪ねたのは店ではなく屋敷のほうだ。薬に用はないし、父に連れられて挨拶に来たときも店には行かなかった。


 敷地の広さはもちろんのこと、屋敷の造りもシャオゴウの家とだいぶ違う。


 門を入ってすぐ庭があるのは同じだが、シャオゴウの家の庭は細長くて、母屋や道具小屋、家畜小屋などを行き来するための通路と化している。


 それにくらべてヤン家の庭は広場のようだ。庭には門からまっすぐ母屋に向かって煉瓦が敷いてある。それこそが通路だった。


 庭を囲む建物もそれぞれ大きく、間違っても小屋とは言えない。棟と棟をつなぐため、屋根付きの回廊が設置されている箇所もあるから驚きだ。そんなものはシャオゴウの家にない。


 これだけ違えば雰囲気も違う。どことなく空気が引き締まっているように感じるのだ。それがシャオゴウの緊張を強めていく。


 じっとしているのがつらくて、そわそわとあたりを見回した。


 陽射しはきついし、庭木があるんだし、と木蔭に入ることにした。すこしでも風通しをよくしようと、回廊のそばを選ぶ。


 蝉が近い。耳をつんざくような大音量で鳴いている。


 木漏れ日に目を細めながら姿を探してみたが、見つからない。シャオゴウはすぐに興味を失って、ぼんやりと飴を眺めた。


 ヨンジュンが来たら何をどう言うか、何度も頭の中で繰り返す。口はからからに渇いている。うまく話せるだろうか。


「どうしたシャオゴウ」


 心臓が飛び跳ねるほど驚いて、シャオゴウは振り向いた。


 てっきり母屋から出てくると思っていたのに、ヨンジュンはシャオゴウの背後にいきなり現れた。回廊から見下ろしているのだ。


「あ、あの!」


 シャオゴウは伸び上がるようにしてヨンジュンを見上げた。


「きのうの、あのお客について、あの、あの子は泥棒してないと思います! 転んだときは、俺と話してて、だからよそ見してただけで、わざとぶつかったわけじゃないんです! それを言いたかったんだけど、その、あのときは、うまく話せなくって……」

「それで?」

「え?」

「それだけ言いに来たんか」


 ヨンジュンの声は冷ややかで、シャオゴウを見下ろす目も鋭い。シャオゴウは唾も出ないのにゴクリと飲みこんだ。


「あの、だからあの子を助けてください! おねがいします!」


 勢いよく頭を下げた。籠の中の飴がこぼれ落ちそうになって、慌てて押さえる。掌にじっとりと汗をかいていた。


「飴をくれ。ひとつな」

「は?」


 顔を上げると、ヨンジュンが手を開いて待っていた。笑顔はなく、不機嫌そうだったが、怒鳴ってくる気配はない。


 シャオゴウは恐る恐る近づいた。小鉢も入れてある籠をそのまま掲げる。


 飴をひとつ取って口に放りこむと、ヨンジュンは回廊の奥に「おーい」と声を飛ばした。


「おい、銭だ! 一文もってこい!」


 奥から誰かの声がして、すぐに人が来る。ヨンジュンは受け取った一文銭を小鉢の中に落としてくれた。


「てめえな、言いに来るのが遅えんだよ」

「え、あ……」


 遅かった?


 もしかして、もうあの子は罰を受けてしまったのだろうか。盗みの罪は、罰は何だっけ、ええっと、鞭打ち、だったっけ……。


 さあっと青ざめるシャオゴウに向かって、ヨンジュンは溜息をついた。


「一晩、牢屋で寝泊まりさせちまったが、もう家に帰ってる」

「え?」

「銭入れはな、盗られたわけじゃなく、落としたわけでもねえ。まあ、つまり、なんだ」


 言いにくそうにしながら、ヨンジュンは首の後ろをかいた。


「懐に入れて出掛けたと思ったつもりが、そうじゃあなかったってことでな。忘れたのは俺だが、出掛けてるあいだに部屋から銭入れが消えちまっててな。それで外でなくしたんだと思ったわけだ。実際はうちのチビのいたずらで、違う場所に隠されててな……」


 苦虫を噛み潰したような顔でヨンジュンが目を伏せる。


 事態がうまく呑みこめずにシャオゴウはぽかんと口を開けたままだ。


 チビのいたずら。チビ?


 ヨンジュンには四歳になる子供がいるはず。その子のいたずら?


「ゆうべ発覚してな。きょうの朝一番で訴えを取り下げてきた。嬢ちゃんはちゃんと家まで送り届けたぜ。ちゃーんと謝った。だからこの件はもう解決してるんだ」

「そう……なん……」


 なんだ、そうだったんだ。


 じゃあべつに俺がこうやってここに来る必要はなかったってことか。


 なんだ、そっかあ。


 ほっとした反面、よけいなことをした、と気恥ずかしさが立ちのぼる。籠を抱えてうつむいた。


「それにしてもあれだな。リイ・ウェイシイの娘と仲良くなるとはな」


 なんのことだ、とシャオゴウは上目遣いにヨンジュンを見る。


 リイ・ウェイシイ? どこかで聞いた気がする。誰だっけ。


 ヨンジュンは大きな口でにやりと笑った。


「ま、嬢ちゃんには悪いことしたし、シャオゴウにもあたふたさせちまったし。もしシャオゴウがあの嬢ちゃんと喧嘩でもしたときには仲裁に入ってやるよ。それでいいか?」

「えっと……はい」


 いいか、と訊かれても、今はとにかく恥ずかしくて、「はい」以外の答えを思いつかない。


「あの嬢ちゃんもなあ、これで終わりってするには寝覚めが悪いんだよなあ。もともと一晩たっても違うって言い張るんなら本当に違うんだろってことで、出してやるつもりだったけどさ」

「……出してやる? それってあの、だんなが決められることなんですか……? あ、訴えを取り下げるってやつか」

「ん? ああ、まあ、そうだが。もっと言うと、牢役人に知り合いがいてな。酒代をはずめばいいんだ。牢にぶちこんで反省させたかっただけで、痛めつけたかったわけじゃねえから、それもよくよく言い聞かせて酒代を渡したしな。銭がありゃ、たいていのことはどうにかなる世の中だ」

「銭って――」


 シャオゴウは鼻白んだ。


 その銭の中に父の付け届けも入っているのだろうか。身を粉にして売った飴の対価がこんなふうに他人の酒代に化けているのか。今回のことだけじゃなく、きっといろんなことで、酒代になってしまっている。


「それって、もともとはみんなのお金……だったやつですか……?」


 納得いかない気持ちを抑えられずに訊いてみれば、ヨンジュンは「そうだな」とあっさり肯定した。


「いつの間にか銭が勝手に集まるようになっちまった。どうしてだろうな」

「どうしてって、だんなに銭を渡しておけば、あとでいいことがあるって、父ちゃんが言ってたけど……」

「いいことなあ。それはちっと違うんじゃねえか?」

「え、でも――」

「シャオゴウ、おまえは男だから、聞いておいても損はないだろ。耳を貸せ」

「はい?」

「おまえの父ちゃんがな、むかし店を出したばかりのころだ。あの店の通りは今でこそ静かだが、当時は荒っぽい連中がたむろしててな。飴󠄀屋も被害を受けてたんだ」


 え、とシャオゴウは息を吐く。そんな話は聞いたことがなかった。


「どっから俺のことを聞いたか知らねえが、助けてくれってぇ、おまえの父ちゃんが言ってきた。義理はねえが、追い返すのもかわいそうだ。だから片付けてやった。そっからだな、おまえの父ちゃんが銭を持ってくるようになったのは」

「知らなかった……」

「持ってこいなんて俺はひとことも言ってねえよ。だけど持ってくる。いいことを期待してるんじゃあなくて、ありがとさんってぇ気持ちだろ? それを断るのも失礼だからよ、受け取ってるわけだ。受け取るからには店がどうなったかも気にかかる。また困ったことがあったら言いに来いよって気持ちになる。銭ってのは、そういう使い方もできるわけよ」

「はい……」

「銭で解決できることは銭で解決すりゃあいい。拳のほうが有効なら拳を使えばいい。どっちも通用しないならほかの手を考える。今回のことなら、嬢ちゃんにはまだまだ償いきれてねえと思うから、そのうち何かしらさせてもらう。そういうわけだ。わかるか?」

「はい」

「よし。話はしめえだ。じゃな。飴、ごちそうさん」


 軽く手を上げて、ヨンジュンは回廊の奥へと消えていった。


 シャオゴウは息をつく。


 すごい、と思った。考えがうまくまとまらないが、とにかくすごい、ヨンジュンはすごい人なんだ、と思った。


 気分が高揚していた。簪の少女は無事だし、ヨンジュンは思っていた以上にすごい人だった。


 心配事が何もなくなって笑顔になったシャオゴウだったが、ヤン家を出たあと、また笑顔が消えた。


 大事なことに気がついたのだ。


 ヨンジュンのあの子に対する誤解が解けても、自分があの子の前で「知らない」と発言したことは、いまさら消えない。


 あの子は、もう飴を買いに来ないかもしれない。

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