それを選ぶとこっちを捨てることに
たまには日陰で売りたい。
だったらそうすればいいのだ。うん、そうしよう。
「ひとつ一文、ひとすくい六文だよォ!」
入った店にはシャオゴウのほかにも物売りの姿がある。だからといって店主が怒ることはない。売っている物が店で扱っている料理とは異なるからだ。営業妨害にならないなら、店主は怒らない。
飴はなかなかよく売れた。きょうは日が暮れる前に売り切れるかもしれない。シャオゴウはいい気分で外の土を踏む。
風が吹いていた。見上げたさきの青空でも、もこもことした大きくて白い雲が流れるように動いている。
いくつも雲が重なっているおかげで太陽が隠れているが、いつまた陽が射すかわからない。今のうちに早く売っちまおう、とシャオゴウは気を引き締めた。
「獅子の飴、獅子の飴はいりませんかァ!」
前から牛が歩いてくる。隣には男がいて、牛につないだ口取り縄を握っている。牛に荷車を牽かせているのだ。
荷車の背後に見覚えのある姿があった。
「あ」
シャオゴウが見つけるよりも先に相手は気づいていたようで、顔を見たら視線がぶつかった。
牛車が通り過ぎる。どちらからともなく互いの前で足を止めた。先に口を開いたのはシャオゴウだ。
「よかった。きのう最後さ、怒った?」
女の子は一瞬きょとんとした顔をした。
すぐに思い当たったようで、「ああ……」と頬をゆるめる。土に水が染み込んでいくようにじわじわと笑みがひろがっていった。瞳に宿る光がきらきらとして、シャオゴウにそそがれる。
「怒ってないよ」
「それなら、いいけど……」
シャオゴウは内心で首を傾げた。
なんだろう、こいつ。
なんだってこんな急に嬉しそうになったんだろう。
「飴をちょうだい。きょうはちゃんとお金を持ってきたから」
女の子は笑顔で拳を開く。握りしめられていたのは一枚の硬貨。一文銭だ。
ハッと我に返ってシャオゴウはかぶりを振った。
「いらねえよ。あの簪、飴ひとつより高いんだ」
「だから?」
「だから、って……。だから、ひとすくいしてやるよ。銭もいらねえ」
女の子は自分の掌に目を落とした。シャオゴウの顔と見比べたのち、すこし残念そうに握りしめる。
シャオゴウは籠の飴を小鉢ですくい上げた。
「ほら、袋を出せ」
「持ってない」
「布きれでもいいよ」
「ひとつがいい」
「ひとすくいだって」
「ひとつがいいの」
不満げに唇を尖らせる。シャオゴウを見つめてくる目は険しくて、訴えるような熱を帯びていた。
「なんでだよ」
「そんなにたくさん舐められないから」
「持って帰ってあとで舐めればいいだろ」
「だめ」
「……へんなやつ」
困ったなあ、と思う。だけど無理に押しつけても、きっと受け取らない。それなら仕方ない。
小鉢を女の子の前に突き出した。
「じゃあ、ひとつな。取っていいよ」
尖らせていた唇がゆるむ。女の子は遠慮がちにシャオゴウを見つめてきた。
「お金、ほんとうにいらないの?」
「いらねって。そこだけは譲らないかんな」
「わかった」
白い手が小鉢に伸びる。きのうは取る飴を選んでいたが、きょうは特に選ばずに獅子をつまみ上げた。飴が歯に当たる音がする。
「きのうと同じ味」
「ったりめえだ。おんなじ作り方してんだから」
へんなやつ、と思いながらシャオゴウは眺めた。こんなにおいしそうに舐める人もめずらしい。小さい子供だってここまで喜ばない。
「あなたは舐めないの?」
「売り物だって言ったろ」
「わたしが買ってあげる」
思いついたように女の子が言った。シャオゴウは慌てて首を横に振る。
「いらねえよ!」
ひとすくいしなきゃいけないのにひとつで済ませたうえに、自分のを買ってもらうなんてできるわけがない。一文でも多く儲けたいシャオゴウにだって、それくらいの矜持はあるのだ。
女の子の唇がまたすこし尖った。不満そうにシャオゴウを見る。
なんでだよ。なんで怒ってるんだ。
何か言おうとシャオゴウが口を開きかけたとき、頬に冷たいものがぶつかった。天を仰いで、「やばっ」と悲鳴を漏らす。
「濡れっちまう!」
慌てて店の軒下に走った。大事な売り物だ。
道は一気に閑散とした。近くの店に逃げこんだか、走り去るかして人が消えた。
シャオゴウにくっついて女の子も軒下に逃げこんでいた。大粒の雨が地面を叩いて泥の波紋を生むのを不安そうに眺めている。
「すぐやむかな」
「やんでくれねえと困るよ」
シャオゴウは背後の店を振り返った。道具屋のようだ。中に入って飴を売ってみようか。どうしようか。
女の子が膝を抱えてしゃがみこんだ。
「はねるよ」
「うん」
上の空の返事だ。色が濃くなっていく地面をぼんやりと眺めて、飴を舐めている。泥水が裾をすこしずつ汚していることに気づいていないのか、気づいていても気にしないのか。
「買ってみたかったの」
「え?」
「飴、買ってみたかったの」
視線を地面に向けたままそう言って、女の子は黙った。
「……へんなやつ」
ほかに言葉が見つからない。シャオゴウも無言で空を眺めた。
じきに雨が小降りになった。往来に人の姿が戻ってくる。シャオゴウはもうすこし様子を見ることにした。
「帰らなきゃ」
すっくと立ち上がって女の子が告げる。
「怒られちゃうから」
「ん。じゃあな」
声をかけると、女の子はシャオゴウに向き直った。そのまま後ろ向きに一歩、二歩と下がりながら口を開く。
「明日もこのへん来る?」
「うん、雨降りじゃなければ」
「また買いに来る」
「銭はいらねえよ」
「わかった。それとね、心配してくれてありがとう」
「は?」
心配? 俺が? 泥がはねるのを注意したことか? べつにあんなの――
「きのうの最後、大道芸人のこと知らないのかって訊かれて、なんにも答えなかった。知らないっていうのがね、なんかね、うまく言えないけど、こう、もやっとした感じでね。怒ったんじゃなくて、ええっと、恥ずかしかったの。それを怒らせたと思って気にしてくれてるなんて思わなかった。だから、ありがとう」
「え、ええ、ああ、それ。いや、そんなのべつにどってことないから、いや、その……」
まさかそんなことでお礼を言われるとは。
シャオゴウはしどろもどろになってしまう。どう返事をすればいいのかわからない。
女の子はにっこりと微笑んで汚れた裾を翻した。すぐに顔だけをシャオゴウに振り向ける。
女の子が「じゃあね」と告げて歩き出したのと、道具屋から人が出てきたのとは、ほぼ同時だった。
「あ、前!」
慌てて注意したが、遅かった。女の子は店から出てきた人とぶつかってしまった。ぶつかるだけではなく、ぬかるみに足をすべらせて転んでしまう。
手をついたせいで袖が汚れ、膝のあたりにべっとりと泥がつき、顔にもはねている。
「だいじょぶか、嬢ちゃん」
あ、とシャオゴウは息をのんだ。
ヨンジュンだ。一気に緊張が背中を走り、シャオゴウの足は地面に縫いつけられてしまった。
泥がヨンジュンの足元にもはねていたが、それで機嫌を悪くした様子はない。ヨンジュンは女の子を助け起こした。
「汚れちまったな。前を見て歩かねえと」
「ごめんなさい」
ヨンジュンの手を振り払うように身をかわして、女の子は早足で立ち去った。顔を伏せたまま、シャオゴウを見もしなかった。
「シャオゴウじゃねえか。調子はどうだ?」
何事もなかったように声をかけられて、シャオゴウも当たり障りのない返事をする。今しがたの出来事は話題に上らなかった。
ヨンジュンが悠然と立ち去ったあと、少女が消えた方向をしばらく眺めた。
胸がちくりと痛む。
俺、なんにもしないで見てるだけで、それでよかったんかな……。
翌日は朝から曇っていた。
きのうのことが頭を離れないまま、シャオゴウは飴売りを開始する。
うつむいて帰ったのがどうしても気になる。黙って見てたのをあの子は怒ったんじゃないだろうか。
もしかしたら怪我をしたのかも。ひとこと声をかけてあげたほうがよかったんじゃないか。
だけど、ヨンジュンがいたし……ヨンジュンがあの子に怒るかもしれなかったから……でも怒らなかったんだし、やっぱり黙って見てただけっていうのは、よくなかったような気がする。
「飴をちょうだい」
振り向いたシャオゴウの目に飛びこんできたのは、今の今まで脳内を占拠していた女の子の姿だった。
「あ……来たのか」
「来るって言ったでしょう」
「うん……でも来ないかと思ってた」
「どうして?」
まっすぐな眼差しがシャオゴウを見つめてくる。怒っている様子はないが、笑ってもいない。
「きのうさ、ほら、痛そうだったから。転んじゃったのに、見てるだけで……ごめんって思って。だいじょうぶだった?」
女の子はすぐに返事をしなかった。シャオゴウと目を合わせたまま、考えるように口を閉ざしている。
やっぱりちょっと怒ってるんかな。それとも忘れたふりして話したほうがよかったんかな。というか、目。じっと見られると、なんだか体がもぞもぞしてくる……。
たまりかねてシャオゴウは目をそらした。
そらしたことで怒らせたんじゃないかと気になって、そっと様子を窺う。真顔の女の子とまた目が合った。すぐにそらす。また横目で見る。そんなことを繰り返した。
クスッと笑う声が漏れる。シャオゴウが顔を向けると、満面の笑みがあった。
「今ので元気になった」
「は……?」
笑い声をたてずに、ふふ、と息を吐きながらにんまりと笑っている。少女の笑顔を見て、シャオゴウは肩の力を抜いた。
なんだかよくわからないけど、謝ってよかった。
「元気ならいいや。ほら、飴」
差し出した小鉢から、白い指が飴を取る。まだ笑っている。にこにこというより、にやにやとした笑顔に進化していた。
こんなふうにも笑うんだなと、不思議なものを見る気持ちでシャオゴウは女の子を見つめた。
飴を口に含んだ女の子は、目を細めてシャオゴウを見た。楽しそうだ。
「三日つづけて来るってさ……わざわざ俺を捜してんだろ? うちの飴、そんなに気に入った?」
「うん。こんなにおいしい飴があるって知らなかった」
「飴を舐めたことがなかった?」
「そうじゃないけど。えっとね……」
女の子は見えない何かを見るように宙を見つめる。
「おうちで飴を舐めたことがある。でもこうやって外で舐めたことはないの。あなたの飴のほうがおいしい」
「ふーん……」
どこで舐めても飴は飴のはずだ。よくわからない。よくわからないが、うちの飴は最高だという感想だけはわかった。作っているのは母と祖母だから、二人の腕がいいのだ。
最初に会ったときと同じように女の子からは草花の匂いがする。なぜだろう。香りの強い花の世話でもしてきたんだろうか。それとも草花の匂いがする汗をかくんだろうか。
シャオゴウは思い切って女の子の肩に鼻を近づけてみた。
「なに?」
高い声を出して女の子が後退る。びっくりした顔をしていた。
「いい匂いがするから。なんでかなって」
「匂い?――ああ、これ。お香」
納得したように口元をほころばせて、自分の袖に鼻を近づける。そのときだった。
大きな影が二人の上に落ちた。
「よお」
振り仰いだシャオゴウの背後に、のっそりと立つヨンジュンがいる。
いつにも増してぎょろっとした目、蛙のように大きい口。いつもより低くて太くて、おなかに響いてくる声。
怖い、とシャオゴウは背筋を正す。
「きのうのお嬢ちゃん、調子はどうだ? 捜してたんだぜ。やっと見つけた」
シャオゴウはヨンジュンから視線をはずす。ヨンジュンの隣にいるお供の男が、顔に汗を浮かべてひどく息を切らしているのが気になった。
捜してた、と言った。
ここでしゃべっているシャオゴウたちをお供が見つけて、ヨンジュンに知らせるために走って、ここまで連れて来た、ということかもしれない。
そこまでして何の用があるのか。いやな予感しかしない。シャオゴウはそわそわと女の子を窺った。
女の子もヨンジュンが怖いのか、顎を引いて視線を合わせないようにしている。それでも返事をする声はしっかりとしていた。
「きのうはごめんなさい」
「シャオゴウ、おめえの知り合いか?」
「えっと、その、お客さんで……」
「客か。お嬢ちゃんよ、俺の銭入れ見なかったか?」
「え?」
意外なことを言われた、という様子で女の子が顔を上げる。
シャオゴウも困惑した。銭入れ?
「あのあと銭入れがねえことに気づいてな。まさかたァ思うが、わざと転んだんじゃないかと確かめたくって、捜してたんだよ」
「わざとじゃありません」
「俺だって疑いたかない。だがどう考えても、あんときぐれぇしか思いあたらねんだよ。落としたか、抜き取られたんじゃねえかって」
「知りません」
「今すぐ返すならよし、返さねえならガキでも許さねえ。正直に白状しな」
女の子はムッとしたように唇を閉じた。そしてすぐに開く。
「わたし知らない。盗ってない」
ヨンジュンが女の子の細い腕を掴んだ。
「放して!」
「どこの家のガキだって手癖の悪いやつはいる。金持ちでも貧乏人でも関係ねえ。親の名前は? 言わねえと牢屋にぶちこむぞ」
「だってわたしじゃないもの。ねえ、わたしじゃない」
泣きそうに潤んだ瞳がシャオゴウをとらえた。ヨンジュンの鋭い目もぎょろりと動いてシャオゴウにそそがれる。
シャオゴウの脳裡を、家族の顔が駆け巡った。
――怒らせたらだめだかんな。
「お、俺、知らねえ」
潤んだ瞳がシャオゴウを凝視していた。助けてくれないの? と言っているように見える。シャオゴウは目をそむけた。
知らねえ。その子は盗ってないと思う。だけど銭入れの行方は知らねえ。
そんな言葉を胸のうちで唱えつづけた。声に出したいのに、喉につっかえてできなかった。
「来い」
ヨンジュンに連れられて、女の子はシャオゴウの前からいなくなった。
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