悪人なのか、どうなのか

 もうすぐ日が落ちる。


 屋台が増え、趣向を凝らした提灯がともりはじめるなか、シャオゴウは道行く人に片っ端から声をかけていた。


 何本もの刀でお手玉をする人、身軽にとんぼ返りをきめる人、客と謎かけをしあう人。


 それらに集まる見物人たちのあいだを練り歩き、目についた人の腕を叩いて「飴はいりませんか?」と話しかけるのだ。


 断りの返事をくれればいいほう、ほとんどは無言で手を振り払われる。


 人だかりの向こうから説話が聞こえてきた。足を休めるついでに耳を傾けてみる。


 宋の王朝の始まりについて、だ。およそ百三十五年前、五代十国の争乱に終止符を打った太祖と太宗の建国物語だった。


 説話人の声は伸びが良くて聴き取りやすい。いっぽう自分の声はざわめきに負けてしまう。叫んでも聞こえないとわかっているから、喧噪のなかでは声を張り上げない。


 飴の残りは三つ。溶けてくっついたのを引き離したら獅子の顔が潰れてしまったやつが三つ。


 ひとつ一文で売れればありがたいが、もうこれは三つまとめて一文で売るのがいい。売れ残るよりはマシだ。


 そう思っているのに、声をかけても興味すら持ってもらえないのがつらい。


 本格的に腹をすかせる人が増える時間帯だからか、どうしても飴より肉の入った包子パオズのほうが人気なのだ。


 それでも飴が欲しい人もいるはずだと、シャオゴウは声をかけつづけた。


 小鉢を手に売り歩いているのはなにもシャオゴウだけではない。さっきは砂糖漬けの蜂の子を売り歩く友達と行き会った。残りの飴が十個を切ったころだ。


 友達の蜂の子も同じくらい売れ残っていた。そうすると、じゃあ勝負しようぜという流れになる。先に三個売ったほうが勝ち、負けたら買ったほうの品をひとつ買う、というものだ。


 結果はシャオゴウの勝ちだった。


 そのまますんなり売り切れてくれるかと思いきや、そんなことはなかった。さんざん歩きまわって足は棒のよう、喉も渇いているし、おなかもすいた。


 売り切りたいけど、もう諦めて自分でこの飴を舐めちゃおうかな、という考えが頭をちらつく。


 食べ物の匂いをのせて吹き抜ける風は、昼間に飴を売り始めたときより涼しくなっている。それでも人混みにいるせいで熱気からは逃れられない。たまらず桃を買い求めて口を潤したが、疲労はごまかせなかった。


 あと一人だけ声をかけてみて、それがだめだったら帰ろう。


「ね、ね、飴はいりませんか? 獅子の飴、三つで一文、どうですか?」


 人だかりの後ろのほうにいる恰幅のいい背中を叩いた。振り向いた顔を見て、慌てて手を引っこめる。


「おう、シャオゴウか」


 大きな口がにやりと笑った。きりりと上がる太い眉、ぎょろりとした目玉と高い鼻筋がシャオゴウを見下ろしてくる。


「あ、ヤン家のだんな。こんばんは」


 笑顔を取り繕ってシャオゴウは挨拶をした。


 ヤン・ヨンジュン。気安く声をかけていい相手ではなかった。へたに関わって機嫌を損ねたらと思うと、どうしても緊張してしまう。


「飴か? 売れ残ってるのか」

「あと三つだけ……」

「三つならちょうどいい。ぜんぶ買ってやるよ。いくらだ?」

「え、あ、一文です!」


 ヨンジュンの太い指が小鉢から飴をひとつ取る。口に放りこみながら、連れに顎で指図した。いつもヨンジュンに付き従っている二人の男たちだ。それぞれが飴を取ったのを見ると、ヨンジュンはからっぽの小鉢に銭を落とした。


 一文銭が一枚。と思ったら、二文銭だ。それが三枚も小鉢に入った。


「半分は小遣いだ。とっとけ」

「すげえ……ありがとうございます!」


 三つで一文のつもりだったのに、ひとつ一文でもあまりが出る。売り上げ三文、小遣い三文だ。シャオゴウは感動してしまった。


「親父さんには世話になってるからな。そのうち店にも顔を出すぜ」


 大きな目をさらに大きく見開いてヨンジュンが笑う。


 この顔はやっぱちょっと怖い、と思いながら、シャオゴウは明るく返事をした。


「へい、父ちゃんも喜びます」


 じゃあな、とヨンジュンがシャオゴウの肩を叩く。


 歩き出したヨンジュンに気がついて、挨拶をしにくる人が何人かいた。ヨンジュンのほうから声をかけた相手もいる。


 それらの様子を眺めているうちに、いつしかヨンジュンの背中は見えなくなった。


 軽く叩かれただけなのに、まだ肩が痛いような気がする。


 役人よりもヤン家のだんな。この街ではそう囁かれる。


 ヤン家は薬屋だ。薬屋のくせに当主のヨンジュンは武術も得意で、当主になる前は荒っぽいこともさんざんしていたという。そのせいかなんなのか、やたらと顔がきく。


 もめごとや困ったことがあればヤン家に相談するのがいい。日頃から付け届けをしているなら、たいていのことは解決してくれる、らしい。


 シャオゴウの家も月に一度、ヤン家まで挨拶に行く。さっきヨンジュンが言った「親父さんに世話になってる」というのは、たぶんそのときに差し出しているお金のことだろう。


 善人か悪人かでいったら、悪人だ、と父は笑いながら言った。そして怖い顔になって、怒らせたらだめだかんな、と続けた。


 怒らせたら怖い。ヤン家を敵にまわしたらこの街で生きていけない。ましてや俺ら物売りなんて、あっという間に野垂れ死にだ――


 だけど怒らせなければ、ヨンジュンほど頼れる人もいない。


 難しいことはわからないが、すくなくとも、きょうは良いお客さんになってくれた。売れ残りのべたついた飴を小遣いまでつけて買ってくれたのだ。


 悪い人なのかもしれないけど、ほんとに悪い人なのかな? とシャオゴウは思う。


 悪い人じゃなくても、顔が怖いから近づきたくないや。


 シャオゴウはヨンジュンについて考えるのをやめた。家に向かって歩き出す。


 あたりは夕闇に包まれ、白い月がうっすら見えていた。






 門を開けたらよだれが出た。


 右手の母屋から漂う夕飯の匂いに腹の虫が鳴る。荷物を放り投げて「おなかすいた!」と食卓に向かいたいのをグッとこらえ、左手に体を向けた。商売道具をちゃんと片付けないと叱られるのだ。


 道具小屋に入ると六歳上の兄が笑いかけてきた。床に座っている兄の足元にはシャオゴウと同じ籠がある。中身はからっぽだ。


「おかえり。どうだった?」

「売り切ったよ。最後はヤン家のだんなが買ってくれた」

「ちゃんとお礼を言ったんか?」

「言ったよ。あとで店にも寄るって」

「そっか。父ちゃんに言っとかないとな」


 兄は特に表情を変えなかった。ヤン家のだんなと聞いても驚かないし、怖がらないし、しかめっ面もしない。そういう兄の態度を見て、シャオゴウは安心する。


「父ちゃんは?」

「もう出掛けたよ。会わなかった?」

「会わなかった。狭いほうの道で帰ってきたから」

「近道したんか。人が多いところを歩けって。狙われるぞ」

「ちゃんと銭は持ち帰ったよ」


 だって早く帰りたかったんだ。危ないってのはわかってるよ。だから売り上げを泥棒するやつがいないかちゃんと気をつけて帰ってきたんだ――と言いたいのを呑みこんで、兄の籠に自分の籠を重ねた。


 しゃべるより横になりたい。その前に水を飲みたい。ごはんが食べたい。


 疲れた足を投げ出すと、床に吸いこまれるようなだるさに襲われた。布靴の爪先は完全に破けてしまっている。


 兄はシャオゴウに背を向けた。壁際の盥で小鉢を洗うためだ。水の音が心地良い。


 シャオゴウは自分の小鉢で兄の背中をつつく。兄は振り向き、薄く笑って受け取ってくれた。


「恩に着るぜ兄ちゃん」

「なんだその言い方」


 ぷっ、と兄が背中で笑う。


「軽業師が客に言ってたんだよ! 恩に着るぜって」


 窓は開いていても風がないのが恨めしかった。薄明るい庭の先に灯りが見えるのだけが今の救いだ。ごはんが待っている。


 水音のせいで、ますます喉が渇いた。


 道具小屋は狭いから、兄の体も近い。汗臭さと泥臭さがむんむん臭う。


 一年前はこの兄にくっついて飴を売っていた。シャオゴウが飴売りに慣れると、兄は弟とは別の場所で飴を売るようになった。聞けば民家をまわって売っているそうだ。


 大道芸人が集まる大街ダアチエとどっちのほうが楽なのか、シャオゴウにはわからない。兄が先に帰っている日もあれば、シャオゴウが先に帰る日もあるから、どっちもたいして変わらないのかもしれない。


「あ、そうだ。銭がわりにこんなのもらった」


 シャオゴウが簪を取り出すと、兄は濡れた手を服にこすりつけてから手に取った。しげしげと眺めまわす。


「こりゃあ、高そうだな。飴は何個やった?」

「ひとつ」

「そりゃあおまえ、少なすぎるぜ。安物の簪だって飴ひとつじゃ釣り合わねえ。その客、文句を言ってなかったか?」

「言わないよ。銭も持ってないのに飴だけ舐めたんだぜ。返せって言ったら、これでって」

「どんなやつだ?」

「女の子。俺と同じくらいの。着てる服が綺麗だった」

「いいとこの子か。大人といっしょじゃなかったか?」

「ひとりだったよ」

「へえ……」


 兄は腑に落ちないらしく、首をひねった。


「まあいいや。母ちゃんに見せよう」


 夕食にはいつも父がいない。


 さっきまでシャオゴウが売り歩いていたあの道で、父は日が落ちてから屋台を出している。昼間は小さな店で飴を売っているが、店がある通りは夕方になると人がいなくなるらしい。店で客を待つより大街ダアチエで売ったほうがいいんだそうだ。


 だから夕食を囲むのは祖母と母と、二人の兄を加えた五人だった。


「シャオゴウ、その子がまた来たら、飴をひとすくいしておあげ」


 母はそう言って椅子から立ち上がり、簪を棚に置いた。


 食卓に蝋燭を置いていても部屋の隅は暗い。棚も暗がりに沈んでいて、母の動きも見えづらい。それでも母はまっすぐ食卓に戻ってきた。


 十九歳の長兄が、蒸した鴨肉を頬張りながら声をあげる。


「金持ちの子は、自分が身につけてる物の価値もわかんねぇんだなあ」

「知る必要がないんだろ。あたしら商売人とは違う」


 祖母が滑舌よく返す。衣は地味で、簪の少女が着ていたような花柄も襞もない。母が着ているものも同じで、よく見れば染みがあった。


「えー? あげるって言われたんだよ。なのに飴をただでひとすくいさせんの? このままにしといたほうが儲かるじゃん」

「大人がそばにいたんならだけど、子供ひとりの判断じゃあねえ。あとで親からなにか言われかねないよ。簪はしばらく取っておくから、返せって言われたら、ちゃんと別に代金をもらって、それから返すこと。返せって言われなかったらひとすくい。いいね?」

「ふーん……わかった」


 そういうもんか、とシャオゴウは黙る。


 塩辛い味付けの汁物をあっという間に飲み干したあと、少女の顔を思いうかべた。


 明日もここにいるかと訊かれたから、明日も来るかもしれない。返せって言ってくるだろうか。いや、でも、別れ際は機嫌が悪そうだった。もしかしたらもう来ないかもしれない。


「金持ちといやあ、買いつけのときに聞いたんだけど」


 むしゃむしゃと口を動かしながら長兄が話題を変えた。


「リイ・ウェイシイっていう人が引っ越してきたらしいよ。都の偉い人だったけど、失脚してここに飛ばされたって」

「ああ、俺も聞いた」


 次兄も頷く。口の中のものを飲み下してから、さらに続けた。


「あれだろ、宰相様だかなんだかの派閥争いがあって、その負けたほうに味方してたんだ。だから追放された」

「派閥争いっていうか、あれだ、昔のやり方と新しいやり方とで対立って聞いたな」

「まあ、偉い人もたいへんだこと」


 皮肉っぽく母が告げる。結い上げた髪はところどころほつれていて、髪飾りの類はない。シャオゴウが知るかぎり、そんなものは持っていないのだ。外に出るときに頭巾をかぶる程度だった。


 あの簪の女の子は今頃どんな食事をしてるんかな、と考える。食卓も椅子も立派なやつで、食べきれないくらいの料理が並んでいるのだろうか。


 鴨肉を噛んでいたら汗が首筋を流れるのがわかった。期待をこめて窓を見るも、青みがかった薄暮の庭に棗の木が立っているだけで、梢はそよとも揺れていない。風が欲しい。


「ほら、あれだよ。法が復活しただろ。十年前ぐらいに廃止されたっていう、物が売れなかったら買い取って貸しにしてくれるっていうあれ。あれに反対した人らしい」


 長兄の言葉で母が苦笑いを浮かべる。


「あら、それじゃあ、あたしらにとっては敵なのねえ。ありがたい制度だもの。昔その法があったとき、おかげでお店を持つことができたんだから。復活してよかったわ」


 難しい話だと直感したシャオゴウは聞き流す。誰よりも早く食事を終え、さっさと眠った。

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