第4話 デッド・エンド

 バケツをひっくり返したような土砂降りだった。

 アパートの狭い外階段を、滑らないよう慎重に、だけど可能な限り早足で駆け下りる。

 雨の音に紛れて、後ろからカイの声が聞こえた気がした。あたしはそれに構わず、細い路地を走り抜けた。


 程なくして十条駅に辿り着く。

 改札から出てくる人たちの姿を目にして、あたしはようやく自分が手ぶらだということに気付いた。財布もスマホも、何もかもあの部屋に置きっ放しだ。電車に乗ることができない。

 とりあえず雨を避けるため、駅前のアーケードに入った。

 既に余すところなく全身ずぶ濡れだった。帰宅時間帯の商店街はそこそこ人通りがある。不自然に薄着な上、髪の先や服の裾から盛大に水滴を垂らすあたしは完全に浮いていた。


「ちょっと、あんた大丈夫?」


 そう声をかけてきたのは総菜屋のおばちゃんだ。


「そんな格好でどうしたの? 傘忘れたの? 家はこの近く?」


 無言のまま小さく首を振ると、おばちゃんはあたしが何か訳ありであることを察したらしかった。


「ちょっと待ってて、とりあえずタオル持ってくるから」


 おばちゃんが店の奥に引っ込んでいく。あたしは少しの間ぼうっと突っ立っていたけど、すぐ我に帰った。

 手を差し伸べられてしまった。店先に並んだ揚げ物の美味しそうな匂いに、なぜだか胸が苦しくなる。


 道行く人がちらちらとあたしを見ていた。

 帰るべき家へと向かう人々と、それを持たないあたし。

 匿名希望のまま東京の街にうまく紛れ込んだつもりでいたのが、ついに暴かれてしまったのだ。

 もう、居ても立ってもいられない。おばちゃんがタオルを手にして戻ってくる前に、あたしは再び雨の降りしきる闇へと駆け出した。



 駅裏から続く人気ひとけのない住宅街を、とぼとぼ歩いていく。もちろん当てなんかないから、でたらめに道を選んではふらりふらりと彷徨っていた。

 冷たい雨は相変わらずあたしの身体を打ち続けている。民家の窓から漏れ出る光に対して、目の前の暗闇はいっそう濃く、自分の息だけが嫌に白かった。


 頼りない街灯の向こうに児童公園が見えた。

 フェンスのゲートを通って、公園の中へと入る。ざりざりと砂を踏んでいく感触が気持ち悪い。

 遊具のゾーンと広場の境目に小さな建物がある。公衆トイレだ。あたしに相応しい場所かもしれない。

 思い付いた皮肉を披露する相手もなく、あたしは独りそこに身を隠した。


 夜道を照らす明かりも、さすがにここまでは届かない。底なし沼のような闇の中、手洗い場の鏡にあたしの顔がぼんやり映っている。


 ねぇあんた、生きてんの? 死んでんの?


 もう、わざわざ問いかけるまでもない。

 生きるも死ぬも、選択肢なんて初めから存在しなかった。

 帰る場所もなければ、行く先だって分からない。進むことも戻ることもできずに、あたしはその場にしゃがみ込んだ。


 この世界に、あたしの居場所はどこにもない。あの日からずっと知っていたはずだった。

 独りでも生きられるようになりたかった。

 独りだとしても、強くありたかった。

 自分の全てを男に委ねてゴミみたいに死んだ、あの母親のようにはなりたくなかった。

 だから、誰かに身体を許しても、心まで明け渡すわけにはいかなかった。

 そうしてあの部屋から、カイから逃げ出したのは、他でもないあたし自身だ。あたしが望んで、自分で背を向けた。

 それなのに今さらなぜ、こんなにも打ちのめされているのだろうか。

 馬鹿みたいだ。涙を流す資格もない。零れるのは、ただ乾いた笑いだけだ。


 膝を抱えて、震えていた。

 指先の感覚は既にない。ぐっしょり湿った服が肌にまとわり付いて、丸ごと凍ってしまいそうだ。このまま氷になって、朝が来るのと同時に跡形もなく溶け去ってしまえたらいいのに。

 寒かった。身も心も、これ以上ないくらい冷えきっていた。

 でも、どうしてだろう。

 縋りたくなんてないのに。早く忘れてしまいたいのに。

 唇に残ったカイの体温だけが、全然消えてくれない。



 どのくらい時間が経っただろうか。

 ひたすら静かな夜だった。あたしのくしゃみが辺りによく響く。

 たまに通行人の足音も聞こえたけど、誰もあたしには気付かないようだった。もしくは、気付いても無視して通り過ぎたのかもしれない。だとしたら、その無関心がありがたかった。


 なんだか眠い。寒さを感じる峠を越えて、だんだん頭がぼんやりしてきた。

 うとうと微睡まどろんで、何度目かのくしゃみで少しだけ覚醒する。洟をすすって、顔を膝に埋めた。

 その時、また誰かが外を通りがかった。

 足音の主は、どういうわけかこの公園に入ってきた。

 ざり、ざり、ざり。砂の上を歩く音がする。あたしはわずかに身構えた。


 こんな真冬の夜だ。どんな人だか知らないけど、公園に用があるとしたらトイレぐらいだろう。はたまた、あたしのように夜風を凌ぎたい浮浪者か。いずれにしても、見つかるのは時間の問題だ。

 もう、どうなったって良かった。

 例えばそれが頭の狂った奴で、見つかった瞬間にナイフでメッタ刺しにされたとしても構わなかった。悪くない最期だ。

 誰でもいいから、この腐った人生からあたしを解放してほしかった。


 足音がゆっくりこちらに向かってくる。その人物は側溝の蓋をがたりと踏み鳴らし、あたしの前でぴたりと止まった。

 ふわりと漂う、煙草の匂い。

 セブンスターの香りだ。

 心臓が、びっくりするほど大きく跳ねた。


「やっと見つけた」


 疲れたような、呆れたような声だった。

 恐る恐る顔を浮かせると、見慣れたスニーカーのシルエットが目に入った。閉じた傘の先からぽたぽたと水滴が落ちている。


「なんで……」


 ひどく掠れた声でそう呟いたら、盛大な溜め息が降ってきた。煙草の匂いが濃くなったので、煙のついでに吐き出したのかもしれない。


「なんでって……あのなぁ、同居人が雨ん中飛び出してって、心配しない奴がいるとでも思ってんの? しかもこんな真冬の夜に、何も持たずに。普通に死ぬでしょ」


 カイは怒っているみたいだった。返事の代わりにくしゃみが出た。


「ほら、もう風邪引いてんじゃねぇの? まぁ、そのでっかいくしゃみが聞こえたおかげで、ここにいるって気付いたんだけどさ」


 あたしはまた膝に突っ伏した。胸の奥がそわそわとむず痒い。きっと今のあたし、すごく変な顔をしている。

 がしがしと頭を掻く音。しばらくの間の後、少し優しいトーンの声が耳を撫でた。


「あのさ……俺のこと、嫌い?」


 俯いたまま、首を小さく横に振る。


「そんなら良かった。一回仕切り直ししようぜ」


 カイが煙草を側溝の金網に捨て、あたしの目の前にしゃがんだのが気配で分かった。


甲斐かい 晴人はるとです。初めまして、どうぞよろしく」


 ぱちりと瞬きを一つ。思わず顔を上げる。久しぶりに視線がぶつかった。

 カイはやけに真面目くさった表情で、右手を差し出している。それが妙におかしくて、不覚にもちょっと笑ってしまった。


「え……? そっち?」

「そう、そっち。本名だよ。なんも嘘は言ってないでしょ。苗字で呼ばれることが多い人生なんだよ。晴れの人で晴人。以後お見知り置きを」


 いっそ場違いなくらいにおどけた口調だった。急に肩の力が抜けた。

 カイが強引にあたしの手を取った。


「うわっ、冷てっ! これ、しもやけになってんじゃねぇかな」


 大きな両のてのひらが、かじかんだ指先を包んでやわやわとほぐしてくる。

 あたしはこの手を知っている。とてもよく知っている。


 彼はまた、ごく自然な感じに口を開いた。


「……もし良かったらさ、もう一度ちゃんと教えてくんねぇかな」


 いや、たぶん、ものすごく慎重に言ったのだと思う。


「名前。教えてよ」


 あの時と、同じ言葉を。

 だけどそれはあの時とは違う意味を持って、あたしの中に柔らかく沁み込んでくる。

 心臓が、とくとくと鼓動している。

 そこから甘く温かいものがどんどん溢れ出して、身体の隅々にまで拡がっていく。

 雨はいつの間にか上がっていた。そのくせ視界は滲んでぼやけている。


「あ、あたしは……」


 喉の奥が苦しい。ちゃんと息をしたいと思った。冴えた空気を吸って吐いたら、涙が一粒、やっと零れ出ていった。

 晴れた空が嫌いだった。

 だけど彼は今、あたしと同じ目線の高さにいる。穏やかだけど強い光を宿した眼差しが、まっすぐあたしに向いている。


「あたしの、名前は――」


 はっきりと分かった。あたしたちはやっぱり共犯なのだと。

 この日、この時、この瞬間。

 『あたし』は死んだ。それはきっと、悪くない最期だった。



—了—



・スミス=匿名の人

・ミュー=μ

・カイ=χ

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スミス殺しにうってつけの日 陽澄すずめ @cool_apple_moon

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