第3話 リアル・ガール

 年を越して少し経ったある晩のこと。

 その日はカイが休みで、いつものように二人でコンビニ弁当をつついていた。

 食事が終わり、揃って手を合わせようとした時、突然インターホンが鳴った。


 外は大雨が降っていた。激しい雨音の上を、間延びした呼び出し音が横切っていく。

 どういうわけか、嫌な胸騒ぎがした。


「珍しいな。誰だろ」


 カイが腰を上げ、玄関へと向かった。覗き穴で来客を確認して軽く首を傾げ、チェーンはかけたままでゆっくりとドアを開く。


「はい?」

「警察です」


 低く響く声があたしのところまで届く。扉の隙間から、身分証と思しきものが差し込まれたのが見えた。


「へっ? 警察?」

「こちらに、桜井 理華りかさんという方がいらっしゃいますよね」

「……はい?」


 カイが戸惑った表情であたしに視線を投げてくる。

 すうっと体温が下がったのが分かった。

 いったい誰がどうして、その名前を呼ぶのか。いつかあたしが捨てた名前を。


「ミュー?」


 カイの声を、無視することはできなかった。あたしは痺れた足でのろのろと立ち上がって、短い廊下をふらふら進んでいった。カイの不安そうな顔が視界の端にある。

 わずか十センチほど開いた扉。玄関の外には、黒っぽいスーツ姿の男女が立っていた。男の方があたしに問う。


「あなたが桜井 理華さん?」

「はい……」


 まるで逮捕直前の逃走犯だ。一瞬のうちに、いろいろなことが頭をよぎる。

 母親があたしの捜索願いを出したのか、それとも売春していたのがバレたのか。

 だけどその男が口にしたのは、意外な言葉だった。


「あなたのお母さん、桜井 直美さんのことでお話を伺いたいんですが、よろしいですか?」

「え? あ、あの……母親とは、しばらく連絡も取ってないんですけど」

「では、お母さんが亡くなったこともご存知ではないですか?」

「……え?」


 その瞬間、全ての音が消え失せた。

 あたしは何の返事もできず、しばらくの間ただそこに立ち尽くしていた。


 カイの手によってドアチェーンが外され、捜査員だという二人が部屋に上がり込んできた。こたつに彼らと差し向かいで座って、呆然としたまま事件の概要を聞いた。

 二週間ほど前、あのボロアパートで母親が死んでいるのが発見されたこと。腕に注射痕があり、遺体から覚醒剤が検出されたこと。一緒に住んでいた男の行方が分からないこと。

 まるでテレビの中の話みたいで、とても現実のことだとは、ましてや自分の母親のことだとは思えなかった。


 どうやら警察は、Suicaの使用履歴やバイト先に提出した履歴書などから、あたしの居場所を突き止めたらしい。

 履歴書にはここの住所を書いていた。氏名欄に記入した名前は『桜井 美雨』だったはずだけど、顔写真が決定打になったのだろう。


「その男のことはご存知ですか?」

「はい」


 知っているも何も、あたしをレイプしようとした男だ。


「では、覚醒剤のことは?」

「いえ、何も……」

「理華さんは、事件のことは何も知らないということですね」

「はい」


 顔を俯けたまま、短い返事だけを繰り返していた。

 そう、あたしはもう、あの女とは何の関係もない。

 自宅での母親と男はどんな様子だったか。トラブルがあったような話はなかったか。そんなことを訊かれても、あたしにはよく分からなかった。だってあの男が来ている時は、家から締め出されていたのだから。


 男の捜査員との問答が一通り終わると、今度は女の方が口を開く。


「理華さんは半年くらい前から高校にも行ってないみたいだけど、どうして東京へ来たのかな」


 柔らかい口調だった。だけど急に話の矛先が自分に向いて、あたしはぎくりとした。

 そこで気付く。こんなところまで警察があたしを探しにきたのは、あたしが未成年こどもだからだということに。


 母親から縁を切られた。そのことを明かして、もし理由を追及されたらどうしよう。

 あの日、襲ってきたのはあの男の方だった。だけどあいつはあたしから誘ったのだと嘘をつき、母親はそれを信じた。そんな話を、今ここですることになるのか。

 それから当然、売りのこともまずい。冷や汗が腋の下を伝っていく。


「あの、彼女、その男の人のことでお母さんと気まずくなったみたいで」


 そう口を挟んだのは、ずっと黙っていたカイだった。


「それでこっちの友達を頼って上京してきたんですよ。な?」


 目配せされて、思わずこくりと頷く。


「……失礼ですが、あなたは? どういうご関係の方ですか?」


 女の声が少し硬くなった。カイが一瞬ちらりとあたしを見る。そして、何の躊躇ためらいもなく答えた。


「彼氏です」


 カイはあたしとの関係について、「友人の紹介で知り合った」「彼女の母親に同棲の許可をもらった」などと実にすらすら嘘を言った。

 あたしもそれに合わせてもっともらしく相槌を打った。

 死人に口なし。真実はグレーゾーン。少なくとも話に矛盾がないことから、あたしがここにいる経緯についてそれ以上追及されることはなかった。


「理華さんは未成年なので後見人が必要なんですが、直美さん自身も幼少期に両親と死別して施設で育ったような状況なので……理華さんのことは地元の市役所の担当部署に連絡しておきます。今後のことなど相談してください。何か受けられる支援があるかもしれません。もちろん、結婚すれば成人と見なされますが」


 捜査員たちはそんな話をして、このワンルームから引き上げていった。

 開け閉めされた玄関扉の隙間から冬の夜の冷たい空気が流れ込んできて、濃密な雨の音が戻ってくる。


 あたしはひどく動揺していた。

 母親が死んだことや過去のあれこれが危うくバレそうだったこと、そしてカイがあたしの「彼氏」だと名乗ったことに。

 後見人のこと、ましてや結婚のことなんて、降って湧いたような話だった。

 とうに捨て去ったはずのものが、あたしの足元に絡み付いている。

 とてもじゃないけど、この先うまく歩いていける気がしなかった。


 そのままになっていた弁当の殻を、あたしは必要以上の時間をかけて片付けた。それが終わった頃、カイから声がかかった。


「なんつうか、大変だったな、お母さんのこと」

「あ……うん」

「あれで良かった? 勝手に話作っちゃったけど」

「うん……ありがと」


 思いがけず共犯者となったカイと、目を合わせることができなかった。流しの前から動けずに、視線だけを下へと落とす。


「まぁ、座ったら?」


 とんとん、とすぐ隣の床が示される。助け船を出してもらったこともあって、あたしは素直にそこへ腰を下ろした。


「ミューはさ、リカちゃんだったんだね」

「ごめん」

「なんで『美雨』なの?」

「……本名、捨てたかったから」

「いや、そうじゃなくてさ、なんでその名前にしたのかってこと」


 一瞬の間を、ノイズのような雨音が埋める。


「晴れた空が、嫌いだから」


 そう答えると、はは、と軽い笑いが返ってくる。肯定でも否定でもない、ただの相槌みたいな笑い方だ。

 カイはこたつの上から煙草の箱を取って一本咥え、百円ライターで火を点けた。

 ゆっくりと吐き出された煙が天井に届く前に、あたしは沈黙に耐えきれなくなる。


「訊かないの?」

「何を?」

「だから……何があったのか、とか……」

「話したいんなら聞くけど」


 あたしは正面を向いたまま首を横に振った。

 さっき警察に細かい事情を話さなかったのは、カイに聞かれたくなかったからだ。

 カイに同情されるのが、怖かったからだ。


「しっかしさぁ、警察だって言われた時は割と本気で焦ったわー。いやぁ、俺たち二人の名演技が光ったね」


 カイはやけに明るくそう言った。いっそ場違いなくらいに。


「……ごめん」

「別に謝んなくていいよ。なんもおとがめなしでお帰りになったわけだしさ」


 一口、二口と、カイが煙草を吸っては吐いた。そのたびに少しずつ、酸素が薄くなっていく。


「実を言うと、ちょっと後悔してたんだ。ミューを買ったこと」


 あくまでも軽い口調。だけど、あたしはそれでようやく思い当たった。

 カイのしたことは、紛れもなく児童買春だ。売ったのはあたしだけど、こういうのは買った方が罪になる。それからたぶん、家出少女を自宅に連れ込んでいることも。

 ずきり、と胸が鈍く痛んだ。


 ――こいつがさ、小遣いくれとか言ってきやがってさ。こんな制服姿ですり寄ってくるから……参ったぜ。


 耳の奥にこびり付いて離れない、あの男の言葉。

 共犯なんかになり得ない。カイのことを誘ったのは、きっとあたしの方なのに。


「ごめん、それ、なかったことにしよう。あたし、お金は受け取ってない。家賃や光熱費として払ってたやつ……あれで返したってことにしといてよ、悪いけど」

「いや、それはさ――」

「あたし、出てくね。ここにいるとカイに迷惑かかるし。あたしが黙っとけば大丈夫でしょ。警察には絶対言わないから」

「……そういうことを言ってるわけじゃねぇよ」


 今まで聞いたことのないような低い声だった。

 あたしを疑っているのだろう。誰彼構わず身体を売っていた女の言うことなんて、信じてもらえなくて当然だ。

 なんだか無性に哀しかった。どうしてこんなに哀しいのか、自分でもよく分からなかった。


 カイが、肺の奥深くまで吸い込んだ煙を一気に吐ききる。それに煽られて、ひどく心が波立った。

 気持ちを落ち着かせようと、あたしも煙草に手を伸ばす。フィルター部分を唇に挟んだところで、ライターが未だカイの手の中にあることを知った。


「……火、貸して」


 おずおずと、そう頼んだ。

 だけどカイはライターを握り込んだまま、動こうともしない。

 胸のざわめきの奥で、小さな苛立ちが湧き上がってくる。


「ねぇ……」


 カイは何も答えず、すっかり短くなった煙草を灰皿に押し付けた。そして、あたしが咥えた新品の一本に手を伸ばしてくる。

 それが、あっさり抜き取られる。

 気付いた時には、カイの顔が至近距離にあった。


 ふわりと香る、セブンスターの匂い。

 身じろぎ一つできなかった。

 触れ合った唇の温かさと、その意外なほどの柔らかさに、あたしの心臓は動きを止めた。


 時間にして、三秒程度だったはずだ。だけどそれを、まるで永遠の時のように感じた。

 唇が解放されて、あたしはやっと呼吸の仕方を思い出した。

 そこをすかさず、熱を帯びた眼差しに捉えられてしまう。


「出てくなんて言うなよ」


 骨ばった大きな手が、あたしの頭にそっと置かれた。壊れやすいガラス細工にでも触るみたいに。


「寂しいでしょ、俺が」


 心臓が、どくんと大きく鼓動する。

 どこか甘えた響きの囁きだった。かすかに揺らいだ瞳の中に、虚ろなあたしが映っている。


「なんて呼んだらいい?」

「……え?」


 雨の音が、不意に溢れ出す。

 そうだ。出会った日も、大雨が降っていた。


「なんて呼ばれたい?」


 すぅっと脳が冷えていく。どこまでも急降下するように醒めていく。


「ミューのままでいいのか、それとも――」

「やめて……」


 搾り出した声は震えていた。

 身体をカイから遠ざけると、頭の上から温もりが離れた。尻をついたままで後じさる。


 嫌だ、違う、こんなのは。

 こんなのは、あたしの望んだものじゃない。


「……こないで」


 入ってこないで。

 あたしの中に、入ってこないで。


 カイが何かを言いかけた。だけどそれを待つことなく立ち上がる。


「ちょっ……どこ行く……」


 伸ばされた手をすり抜けて、あたしは外へと飛び出した。

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