第2話 デイ・ドリーム

 本物の女子高生だった頃、誰ともつるまず独りでいるということは、周囲から異物と見なされることと同じだった。

 教室はもちろん、電車に乗っても、ファストフード店に立ち寄っても。独りのあたしは、いつも変に浮いていた。

 時には、自分の家すらもあたしの居場所ではなくなった。母親が男を連れ込んだら、容赦なく締め出されたからだ。


 半年前、物心ついた時から暮らしてきたボロアパートの一室で、母親の交際相手に犯されそうになった。

 そして娘の言い分よりも彼氏オトコの嘘を信じたあの女によって、あたしは親子の縁を切られた。


 普通に呼吸をしたいだけなのに、あたしの周りにはろくに空気がなかった。

 何人もの知らない男たちと寝て金を稼ぎ、すっかり大人になったつもりでいたけど、帰るところを失くしたあたしはただの放り出された子供だった。

 もういよいよ死んだ方がマシだと、あたしは自ら命を絶つ決意をした。


 そうしてたどり着いた学校の屋上には、がいた。

 あたしの登場により飛び降り自殺を思い留まった、いじめられっ子のクラスメイト。

 彼女がその時あたしに放った言葉が、未だに忘れられない。


 ――私なんかより桜井さんの方が、もっとずっと辛くて可哀そうなのにね。


 音もなく流された綺麗な涙。

 自分よりも下層にいる存在に対して向けられた憐れみと、その後ろに透けて見える無意識の優越感。

 わざとらしいぐらいに晴れ渡った空が、遥か上からあたしのことを見下ろしていた。


 途端に、何もかもが馬鹿らしくなった。この場所で生きることも、わざわざ死を選ぶことも。滲んだ涙もすっかり乾いた。


 あたしは可哀そうなんかじゃない。

 疎まれるのは仕方ない。でも、同情されたら堪らない。


 どうあっても独りなら、せめてつまらないしがらみから解放されて自由になりたかった。

 だからあの日を境に、あたしはあたしにまつわる全てを捨てたのだ。



 カイの家に居着いてから、あたしはバイトを始めた。シフトは多めに入れているけど、それでも時間を持て余してしまうことがある。そんな時は目的もなく街をぶらついて、適当に暇を潰していた。


 カイの家の最寄りである十条駅から、埼京線一本で来られる渋谷駅。ハチ公出口付近はいつも人でごった返している。スクランブル交差点の向かいに四面並んだ巨大なビジョンは、今日も今日とてなんだかよく分からないコマーシャルを流していた。


 十二月の街並みはやたらと浮ついている。どこもかしこもクリスマスの装飾だらけだ。

 これまでそんなイベントとは無関係の人生を送ってきたあたしは、この街に相応しくない人間なのかもしれない。


 あの部屋に籠ってカイとまぐわっていた明け方頃までは、確かに雨が降っていたはずだった。

 だけど、狭い空は今や一点の曇りもなく澄みきっている。それがまるであの日の空のようで、嫌に鼻につく。

 クソッタレ。

 誰にともなくそう毒づいた声は、他人事みたいな喧騒に紛れて消えた。


 歩行者用信号が青に変わる。数え切れない人々の群れが、それぞれの方向へと一斉に動き始める。

 これだけ人波のさなかにいても、すり抜ける風は身を切るように冷たい。今のあたしには、それがとても心地よかった。


 大丈夫、誰もあたしを見ていない。


 気を取り直して、何食わぬ顔で一歩を踏み出す。交差点を渡ってセンター街へと抜ける流れに乗り、あたしは無事にただの通行人Aとなった。

 大勢の人がいるこの街で、あたしはきっと誰よりも匿名希望だった。


 バイト先は、渋谷駅西口近くにあるコンビニだ。客層は不特定多数。わざわざそういう立地の店を選んだ。

 名前も知らない、顔のない人々がひっきりなしにやってくる。お客から見たらあたしだってそうだろう。名前も知らない、顔のないコンビニ店員。商品と代金だけを機械的にやりとりする、その場限りの間柄。

 ただ一人を除いて誰とも人生を交わらせない日々は、信じられないくらいに平穏そのものだ。


 そうして稼いだお金の中から、そのただ一人であるカイに少しばかりの家賃と光熱費を払っている。カイには断られたけど、あたしは無理やり押し付けていた。

 それもこれも、いずれ後腐れなく出て行くためだ。

 いつか、真っさらな状態からやり直す。自立して、誰にも迷惑をかけずに生きる。

 ちゃんとした大人になる。

 今のこの生活は、そのための足掛かりなのだ。



「ミューってさ、なんか猫っぽいよね」


 いつだったか、カイにそんなことを言われた。


「どこが?」

「人には全然懐かないけど、家には寄り付いてる感じ」


 当たらずとも遠からず。あたしはそれに対してコメントせず、微妙に話を逸らした。


「カイこそ、よくもこんな素性の怪しい女を家に住まわせてるよね」

「だって、他に行くとこないんでしょ。別に盗られて困るようなもんもねぇしさ。あ、商売道具に手出しされるのはさすがに困るけどな」


 カイはどうやら本物の美容師のようで、時々カットモデルと称してあたしの髪を弄った。ていのいい実験台だ。

 ある時など、「もう少し短い方がきっと似合う」と勝手に前髪を眉の上で切り落とされてしまった。

 あたしは当然怒ったけど、「可愛い可愛い」と頭を撫でられ、口を閉ざす他なくなった。


 鋏を手にしている時のカイは、いつも真剣な表情だった。

 前髪が短くなって開けた視界に、その眼差しは強すぎる。

 きっと彼も、外ではちゃんとした大人なのだろう。例え家では得体の知れない元女子高生を飼っているのだとしても。


 前戯の時、カイはあたしの髪を何度も丁寧に指で梳く。そのくせ絶頂が近づくと、同じ手で同じ髪をこれ以上ないほどめちゃくちゃに掻き乱すのだ。そうすることで興奮を煽っているのか、それとも興奮ゆえの行為なのか。

 卵が先か、鶏が先か。激しく揺さぶられながら、あたしはいつもひたすらにそんなことを考えていた。


 一度だけカイは、達する瞬間に知らない女の名前を呼んだ。その後ひどく申し訳なさそうにしていたけど、別にどうでもよかった。

 大方、彼女に振られたヤケクソであたしを買ったのだろう。この部屋には、二種類ある歯磨き粉やらカールドライヤーやら、女の住んでいた形跡がいくつかあったのだ。

 出会った日、カイは「髪触らしてくれる相手を探してたとこ」だと言っていた。

 あたしみたいに髪の長い人だったのだろうか。

 ちらりとそんなことを考えて、すぐに頭から追い払った。それも、どうだっていいことだ。


 何にせよ好都合には違いない。

 カイは出ていった恋人の代わりにあたしを抱き、あたしはそれを利用する形でこの部屋に居座っている。

 あたしたちはウィン・アンド・ウィンの関係で、なおかつ互いに最低だった。


 カイは朝七時前に仕事へ出かけ、夜九時頃に帰ってくる。まだ十八歳になっていないあたしは昼間のシフトが多いから、その時間にはだいたい家にいた。

 あたしはよくバイト先で廃棄になる弁当類を持ち帰った。それを、二人揃って夕飯として食べたりした。母親は夜の仕事だったから、誰かと一緒の食事は不思議な気分だった。


 「行ってらっしゃい」と「おかえり」を、誰かに向かって投げかける日々。

 「いただきます」と「ごちそうさま」を、誰かと声を合わせて唱える日々。

 誰かの手で愛撫され、掻き乱された後、「おやすみ」と言い合い眠る日々。


 ずっと頭の中で警鐘が鳴っていた。

 こんなはずはない、と。あたしは独りで生きるはずだ、と。

 だからいつも洗面台の前に立ち、鏡の中で確かめるのだ。

 今は半死半生であるべき自分の顔を。

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