スミス殺しにうってつけの日
陽澄すずめ
第1話 ノー・ネーム
ねぇあんた、生きてんの? 死んでんの?
洗面台の鏡に映る自分に、そう問いかける。
めちゃくちゃに抱かれた後の、毎度おなじみ定例の儀式。視線を合わせたあたしの顔は、公衆トイレの便器みたいに白い。
ユニットバスの空気は冷えきっていた。寒すぎてシャワーを浴びる気にもならない。
ぶるりと身震いして、居室へと戻る。まだまだ夜明けは遠いらしく、安っぽいカーテンが常夜灯の作り出す薄暗い闇に染まっている。この部屋の主は、窓際のパイプベッドで毛布に包まって寝息を立てていた。
脱ぎ散らかした服の中からカーディガンを探り当てる。それにさっと腕を通し、小さなこたつに潜り込む。
充電器に繋いだまま床に放っていたスマホで時刻を確認すると、まだ午前六時前だった。
こたつの上にあったセブンスターの箱から一本ちょろまかして、オイル切れ寸前の百円ライターで苦労して火を点ける。
最初の一口を肺の半分くらいまで用心深く吸い込んでから、細く長く煙を吐いた。ついでにくしゃみを一つ、溜め息一つ。
外は雨が降っているらしい。柔らかな雑音が耳たぶを伝って頭の中へと流れ込んでくる。
全身ひどく怠い。目を瞑れば、今にも思考がとろとろ溶け出しそうだ。
「こら、未成年」
突然かけられた声に、あたしはびくりとした。眠っていたはずのカイが、いつの間にか真横からあたしの顔を覗き込んでいる。
「起きてたの?」
「でっかいくしゃみが聞こえたからさ。どうでもいいけど寝ながら吸うなって。火事んなったらどうすんの」
あたしは改めて部屋の中をぐるりと眺め回した。お世辞にも広いとは言えないワンルーム。所狭しと詰め込まれた家具や家電の圧迫感がすごい。
「この感じだと、あっという間に燃え広がるんじゃない?」
「他人事かよ」
「もちろん」
「ひっでぇな。こんな部屋でも家賃そこそこ高いんだぜ」
カイはぶつくさ言いながらあたしの隣に腰を下ろし、慣れた手付きで煙草を咥えた。そしてついにオイルのなくなった百円ライターを何度か試して、小さく唸る。
「ミュー、火、ちょうだい」
「ん?」
「はい、ストップ」
不意の至近距離。気付いたら、あたしの唇に挟まった煙草の先端に、カイのそれが触れていた。
ジジ、と静かに燃える赤い火が、すっと通った鼻筋や骨ばった指の線を照らし出す。
あたしは少しも身動きできずに、ただじっと息を詰めていた。
二つの先端が音もなく離れていく。
カイは一口目の煙を勢いよく吐ききってから、独り言みたいに呟いた。
「なんか、目ぇ覚めちまったな」
そしてあたしの長い髪を軽率に指先で梳いてくる。
「ミュー、もっかいしようぜ」
「あたし眠いんだけど」
「俺、今日は休みだから」
「あたしバイトなんだけど」
「じゃあ、その煙草の分ってことで」
指をさされて、あたしは眉根を寄せた。どのみち、カイの誘いは断れない。なぜなら、そういう取り決めだから。
あたしは短くなった煙草を灰皿に押し付けて、口の端を歪めて笑った。
「仰せのままに、ご主人さま」
カイは、この街で七番目にあたしを買った男だ。
あたしが地元の中途半端な地方都市から大都会東京へやってきたのは、およそ半年前のこと。だけど住む場所どころか行く当てすらも特になく、あたしは即刻路頭に迷った。
最初のうちは、ネットカフェやカラオケで夜を明かしていた。当然、そんな生活ではあっという間に金が底をついた。
身一つで逃げるように上京してきたあたしにできたのは、自分自身を売ることぐらいだった。幸いなことに、あたしはそれに慣れていた。
専用のSNSに隠語でメッセージを書き込んで、あたしを買ってくれる相手を探す。この街にもJKとセックスしたい男はたくさんいた。とは言っても「元」JKだけど。
なんとなく、地元よりもノーマルな男が多かったように思う。おかしな要求をされることはほとんどなく、一晩ヤッて金をもらったら、もう何も後腐れなかった。
ちらりと見せた生徒手帳が都内のものじゃなくても、誰も気に留めやしない。表面上の女子高生。あたしが誰であろうとも、男どもにとってはきっと大した問題ではないのだ。
ただ一人を除いては。
――なんて呼んだらいい?
そういうことを訊いてきたのは、後にも先にもカイだけだった。
「俺、こういうの初めてなんだけどさ。キスとかってすべきなの?」
ホテルに入って開口一番そう言われたので、最初から少し変わった男だという印象だった。
「別にいいんじゃない? しなくっても」
そんな風に、適当に答えた記憶がある。使うところだけ使えばいいのだ。
取り立てて言うべきところもない行為の後、彼はゆったりした動作で煙草を吸った。それがあんまり旨そうなので、あたしはちょっと興味を持った。
「それ、一本ちょうだい」
「高校生なのに?」
「さぁ、どうだろ」
投げやりに返すと、彼は軽く肩をすくめて煙草の箱を差し向けてきた。あたしが本物の女子高生だと信じていなかったのかもしれない。
十四ミリのセブンスター。火を点けて一口吸い込んだ瞬間、あたしは盛大にむせ込んだ。
「初めてなんでしょ。無理は良くないよ」
彼は心底楽しそうに笑いながら、あたしの裸の背をさすってくれた。不思議に心地のいい指先だった。
「まぁ俺も、普段はそんなに吸わないようにしてんだけどね。客商売だからさ」
「客商売?」
頼んでもいない男の自分語りは、普段だったら適当に流していた。だけどこの時はなぜか反応してしまった。
「そう。美容師やってんの、俺。つってもまだアシスタントなんだけどね」
どことなく軽薄そうな雰囲気は、美容師と言われれば確かにそう見えなくもない。彼はさも当然のようにあたしの髪に触れた。
「髪、まっすぐで綺麗だけど、毛先はトリートメントした方がいいよ。俺、やったげようか?」
「……は?」
「これも何かの縁だしさ。ちょうど髪触らしてくれる相手を探してたとこだったんだ」
咄嗟に返事ができなかった。なんだかおかしなことになっている。
「なんて呼んだらいい?」
「え?」
「名前。教えてよ」
大雨の日だった。思考回路に覆いをかけるノイズのような雨音のせいで、判断力が麻痺していたのかもしれない。
ぼうっとしながら答えた声は、まるで自分のものじゃないみたいに聞こえた。
「……
明け方に一戦交えた後、さすがに二人とも疲れ果てて気絶同前に寝落ちした。
薄っぺらいカーテンから漏れてくる光が眩しくて、あたしは一足先に目を覚ました。
肌はまだ軽く汗ばんでいる。だけど頭の中はひどく冷え冷えとしていた。ご主人さまは、まだぐっすり夢の中だ。
カイに二万で買われた三ヶ月前のあの日、帰る家がないことを流れでさらりと口にしたら、「じゃあ、うちに来なよ」と自販機で百二十円の缶コーヒーを買うくらいの気軽さで誘われた。
あたしが露骨に
不覚にも、笑ってしまった。あまりにも最低すぎる。でも、調子のいいことばかりを並べ立てられるよりは、よほど信用できる言葉だと思った。
ちょうど、売りの相手を探すのも面倒になってきていた頃だった。だから、その提案はあたしにとって願ってもない助けに思えたのだ。
キスはしない。セックスだけをする。
身体を提供することで、この部屋に住まわせてもらっている。
なんだかんだ言っても、深い事情を訊いてこないことと、繊細な指先は悪くなかった。
独り、ベッドから這い出る。床に落ちていたコンドームの包みを拾ってゴミ箱に入れる。そしてまた、ユニットバスへと足を向ける。
洗面台のくぐもった鏡に白い顔を映して、いつものように問いかける。
ねぇあんた、生きてんの? 死んでんの?
答える声はない。
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