一人

 車内アナウンスが、降車駅への接近を告げた。

 イヤホンから流れている『Seven Seas of Rhye』を止め、音楽プレイヤーをボディバッグにしまって隣の明良を見やる。見事に爆睡。同じ時間だけ寝た僕は全く眠くないのに、いったいどうなっているのだろう。身体の仕組みが違うとしか思えない。

「明良、起きて」

「……んー」

 明良が目をこすり、ふわあと大きく欠伸をした。間もなく電車が駅に着き、二人でホームに下りる。階段を上って改札を出ると、海を望むガラス張りの展望スペースが視界に入り、僕は懐かしさに思わず目を細めた。

「おー、ええ景色やなあ」

 明良が展望スペースの方に歩いて行った。ガラス越しに景色を眺める明良の隣に立ち、さらりと尋ねる。

「どういう感じ?」

「ん?」

「景色の感想」

「んなこと聞かれても困るわ。綺麗やなあ、ぐらいや」

「『うみー』って感じはしない?」

「は?」

 明良が眉をひそめた。僕は「何でもない」と海を見やる。水面はあの頃と同じようにキラキラと煌めいていて、だけど真夏だったあの頃と比べて、空の青が少し薄い気がした。そんなにはっきりと覚えているわけではないけれど。

「行こうか」

「そやな」

 展望台を離れ、駅舎を出る。バスが来るまでだいぶ時間があり、母さんが渡してくれた交通費にも余裕があったので、タクシーを使うことにした。停まっていたタクシーの後部座席に乗り込み、行き先の墓地を告げて出発する。

 タクシーが海沿いの道に出た。明良が窓から海を眺めて「天気ええなあ」と呟きをこぼす。その呟きを、運転手の中年男性が拾った。

「お客さん、関西の方ですか?」

「そうっす」

「へえ。関西からこんなところまで、友達と一緒にいらしたんですか」

「友達っちゅうか、恋人っすね」

 会話が止まった。

 バックミラーを通して、運転手さんがちらちらと後部座席を見やる。本気で言っているかどうか、僕たちの表情から確かめようとしているのだろう。やがて視線をフロントガラスに戻し、しどろもどろに答える。

「まあ、最近はそういうのも増えてますからね」

 ふらふらした返事だ。仕方ない。このそういう世相に疎そうなおじさんから、綺麗な答えが返ってくるわけがない。そんなことを期待する方が間違っている。

 だから――教えなくてはならない。

「増えてません」

 力強く言い切る。バックミラー越しに、運転手さんと僕の視線がぶつかった。

「増えてません。言えなかったものが言えるようになってきた。ただそれだけのことです。運転手さんが気づいていなかっただけで、運転手さんの近くにもきっといたし、もしかしたら、今もいます。だから――別の世界のことだと、思わないでくれると嬉しいです」

 膝の上に乗せた手を握りしめる。バックミラーに映っている運転手さんの顔がほんの少し、申し訳なさそうに下がった。

「……すいませんでした」

 いいですよ。その言葉を口にできず、僕は窓に視線を逃がした。車の進行に合わせて動く寂れた街並みを眺め、もしかしたらの住んでいた家もこの中にあるのだろうかと考えて、意味もなく感傷に浸る。

 右耳に、あっけらかんとした声が届いた。

「いいっすよ」

 感傷が一気に吹き飛んだ。僕は振り返り、きょとんとする明良に尋ねる。

「なんで勝手に答えるの?」

「あかんかったか?」

「いや、いいけどさあ……」

 ぷっ。

 前の座席から、小さく息を吐く音が聞こえた。バックミラーの運転手さんが、愉快そうに口元を歪ませて語りかけてくる。

「仲いいですね」

 明良が「恋人っすから」と満足げに頷いた。僕はやれやれとシートに深く身を沈め、また外の景色を見やる。窓ガラスに映る自分の顔は、さっきの運転手さんと同じように小さく笑っていて、少なくとも悪い気分ではなかった。


     ◆


 墓地に着いた。

 タクシーを下りてすぐ、熱気を帯びた風に身体を撫でられた。海が近いのに風がカラッと爽やかなのはなぜだろう。田舎の空気はおいしいとよく言うけれど、風も空気の流れだから、やはり素材の違いが大きいのかもしれない。

 休日にも関わらず、墓地にはほとんど人がいなかった。線香を買って墓に向かい、途中の水場で木桶に水を汲む。明良が木桶を覗き込み、声をかけてきた。

「掃除いるか?」

「いるよ。たぶん汚いし」

「命日近いんやろ。誰か先に掃除しとるんちゃう?」

「してないと思う。そもそも亡くなった人のお墓に行くわけじゃないから」

 明良が目を丸くした。僕は水が溜まり切ったので、蛇口をひねって水流を止める。そして水場に用意された雑巾を二枚、桶の縁にかぶせた。

「どういうこっちゃ」

「これから行くのは、亡くなった人の恋人のお墓。その人の命日も近いんだけど、なんていうか……あまりお墓参りに来る人がいる感じじゃなくてさ。だからたぶん、お墓は汚れてると思う」

「なんで本人の墓に行かんねん」

「そこにはいないと思うから」

「いない?」

「僕が会いたい相手は、そこにはいない。きっと恋人のお墓の方にいる」

 桶を持ち上げる。水面がちゃぷちゃぷと揺れ、縁から水が少しこぼれた。水の染み込んだ色の濃い土を眺めながら、自分に言い聞かせるように告げる。

「行くよ」

 宣言と同時に歩き出すと、歩調がいつもより早まった。我ながら思い込みが強くて自己暗示にかかりやすい体質だ。まあ、いい。それで失敗したこともあるけれど、今はやりやすくて助かる。

 記憶をたどり、墓と墓の間の道を歩く。去年供えた『QueenⅡ』はさすがにもう置いていないだろう。見つけられるかどうか不安になりながら、きょろきょろと周囲を見渡す。

 思わず、声が漏れた。

「あった」

 足を止め、墓石を見つめる。間違いない。去年も見た名前だ。だけど――

「ふつーに綺麗やん」

 明良が素直な感想を呟いた。確かに周りの雑草はちゃんと抜かれているし、枯れた花や線香の燃えカスが残っていたりすることもない。ちゃんと手入れがされている。だけど墓地の管理人が掃除したわけではないだろう。もしそうだとしたら、あんなものは置いていない。

「なんやこれ。飴か?」

 供物台に並んでいる飴の小袋を見て、明良が首をひねった。僕は飴を一つ持ち上げ、パッケージをまじまじと眺める。何の変哲もない市販のハッカ飴だ。この墓の下に眠る人間に供えられたにしては、随分と幼い印象を受ける。

 ――そうか。

 僕以外にもいるんだ。

「まあ、ええわ。墓拭いて、線香供えようや」

 明良が雑巾を桶の水で濡らして絞り、墓石を拭き出した。僕も同じように濡れた雑巾で墓石を撫でる。拭き掃除はすぐに終わり、続けて買ったばかりの線香の束を僕と明良で二つに分け、持ってきたライターで火をつけた。

 線香を香炉の上に乗せる。両手を合わせ、目をつむる。まぶたで視覚を断ち、漂う香りで嗅覚を麻痺させ、暗闇の中で思考を巡らせる。

 ファーレンハイト。

 君から別れの言葉を受け取って、もう一年が経つ。あれから色々なことがあった。君と同じ道を歩もうとして、しくじって、君とは違う道を歩むことにした。そして今、やっぱり君の選択は、間違っていたと思う。

 この気持ちがいつまで続くかは分からない。もしかしたらいつかまた、やっぱり君は正しかったと思い知る日が来るのかもしれない。僕もあれこれ考えてしまう性格だから、そんな日は絶対に来ないと言い切れるほど、能天気にはなれないみたいだ。

 だけど――来て欲しくないと心から思えるぐらいにはなっている。

 だから、僕は幸せだよ。

 大丈夫。

 ゆっくりとまぶたを上げる。急に明るくなった視界に軽いめまいを覚え、僕は足元をふらつかせた。先に焼香を終えた明良が、心配そうに声をかけてくる。

「どした?」

「なんでもない。急に明るくなったから、びっくりしただけ」

「そっか。まあ、ずいぶん長いこと目ぇつむっとったからな」

 明良がデニムのポケットに手を突っ込み、墓石を見上げた。濡れた灰色の石が陽光を反射して横顔を照らす。明良らしくない、物悲しい雰囲気。

「明良も焼香はしたんだよね?」

「せやな」

「心の中で、何か声かけた?」

「礼言っといた」

「礼?」

「こいつがおらんかったら、おれは純と出会えんかったんやろ。せやから、その礼」

 明良が首の後ろに手をやった。どこかバツが悪そうに、ゆっくりと語り始める。

「お前が死んでくれたおかげでおれは幸せっちゅうのも、嫌味な感じやけどな。でも純に話聞いて、墓参りに誘われた時、まずは『ありがとう』やなって思ったんや。だから、それ言った」

 明良がちらりと横目で僕を見やった。真面目に喋りすぎたとでも思っているのか、どこか恥ずかしげな様子。僕は含み笑いを浮かべ、口を開いた。

「初めて明良と付き合って良かったって思ったかも」

「……初めて?」

「気にしないで。それよりやることやったけど、このまま帰る?」

「他に選択肢あるんか?」

「ちょっと海とか行ってみてもいいかなと思って」

「お、ええな。んじゃ、行こうや」

 明良が来た道を戻り出す。僕はその後を追いかけ、数歩進んで足を止めた。振り返り、墓石を見つめて目を細め、静かに囁く。

「またね」

 風が吹いた。僕は小さく頷き、再び前を向く。だいぶ先を行っていた明良がこちらを向き、小走りに寄ってくる僕を見て嬉しそうに笑った。


(了)

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続・彼女が好きなものはホモであって僕ではない 浅原ナオト @Mark_UN

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