第7話 帰り道。
啓一朗は閉店時の片付けを最小限にしている。
蕎麦処
店の清掃は開店の時にやればいいし、補充作業なんて営業中で十分だ。
使った食器はそのたび洗えば、閉店時間には全部定位置に戻っている。
絶対にやらないといけないのは調理器具の洗浄ぐらいで、それも釜の湯を落とした後のぬめりさえちゃんと掃除して置けば後はそんなに困らない。揚げ物焼き物をやらない上に生麺さえも使わない結家の厨房は、油も粉も飛び散らない。簡単調理バンザイだ。
飲食店としてそれはそれでどうなのかと思わなくも無いけれど、余計に働きたくない啓一朗は客に褒められるよりもさっさと帰れる方が良い。
そんなわけで。
閉店して十五分後、啓一朗は店のシャッターを閉めていた。現在時刻は午前二時十五分。下宿は京都市街の反対側、金閣と北野天満宮の中間ぐらいにあるので、家までだいたい四十分ぐらいのツーリングになる。
自転車にまたがった啓一朗は夜空を見上げて呟いた。
「さて、どう帰ろうか」
東大路通は起伏があって道幅も狭いので、祇園辺りでは走りにくい。だから祇園からは四条通を西進して四条河原町まで出るのが啓一朗の定番で、ここまではいつでも一緒だ。そのまま四条通を直進して西大路通へ入るのが一番簡単だけど、これは自転車にとっては悪手と言える。
というのも、このルートだと西大路通の上り坂がキツイのだ。
「京都の町は碁盤の目」と言うのは誰でも知っているけれど、「町全体が坂になっている」というのは住んでいないと意外と知らない。北西の角にある鷹峯を頂点に、実は市街地のほとんどが南に向かって傾斜地になっている。北大路通の千本北大路から大徳寺にかけて、または西大路の金閣寺道から西院にかけてはもう見れば坂だとわかる。そして人間の目から見て坂になっているところは、自転車にとっては充分に厳しい。
「原付を買うのも手なんだけどな~」
この自転車は大学入学以来、もう十四年使っている。元は取ったから乗り換えてもいいけど、原付だと店の脇に押し込めない。長所短所を考えると堂々巡りになってしまうので、原付問題に決着がつくのはまだ先になりそうだ。
啓一朗がよく使う帰り道は、河原町通りを北上して一気に今出川通まで行ってしまう北ルート。途中から御池通に入るのも道が広いので気分がいい。烏丸通や堀川通を北上するのもいいけど、千本通まで行ってしまうとちょっと坂を感じるようになる。まあその縦四本に横の今出川、丸太町、御池通をその日の気分で組み合わせるのが啓一朗の通勤路だった。
「体力が落ちた気がしないのも、自転車通勤のおかげかなぁ」
バス通勤だと帰りの足に困るので始めた自転車での往復だけど、そういう利点もある。それにあの老人ではないが、啓一朗も実は夜の街をブラブラするのが好きだったりする。
その点で京都は魅力的な街だ。
近代的な大都市の中に寺社仏閣や風情のある街並みが点在していて、どちらかだけじゃないのが面白いと思うのだ。その景色を春夏秋冬朝昼晩、好きな時に好きなだけ楽しめるのが京都に住み続けたい一番の動機だと思う。
しばし考えた啓一朗は今日のルートを決めた。
「今日は丸太町まで上がって、御所の横を突っ切っていくかな」
京都御苑に入ってしまうと玉砂利に車輪を取られるから、丸太町通から烏丸通に入ってぐるっと御苑の周りを巡って行こうか。この時間、闇に沈む京都御苑を見ながら進むのもオツかもしれない。
そう思ってペダルを漕ぎだした啓一朗は、四条通に出てすぐに警察に捕まった。
旧所名跡もいいけれど、八坂神社門前の四条通もいい。いかにも観光地というアーケード街の雰囲気は、これはこれで絵になると思う。
立ち並ぶ店々は皆シャッターを下ろし、誰もいない街を眺めながら四条通をかっ飛ばす。楼門前から鴨川べりまでずっと下り坂。
「こういう時、京都に住んでてよかったなと思うんだよな」
夜中に自転車で名所巡りとか、時間やタイミングに制限のない住民でないと難しい贅沢だ。そんな事を考え夜風を楽しみながら啓一朗が愛車を走らせていると、前から来たパトカーにいきなりスピーカーで呼び止められた。
『そこの自転車、止まって下さい』
「なんだ!?」
啓一朗が止まると、道を塞ぐように来たパトカーから意外に素早い動作で警官が降りてくる。二人の警官はご丁寧に前後にまわり、さりげなくそれぞれ自転車の急所を押えてくる。
「なんですか!?」
軽くパニックの啓一朗に、中年の警官はごく当たり前のことを指摘した。
「お兄さん、自転車でも軽車両ですから。右側走行はダメですよ」
「あっ」
啓一朗はこの先どうせ右折、右折なのでついつい通りの右側を走ってしまっていた。
「すみません」
悪いと思って謝るけど、警官の本題はそこからだった。
「祇園の方から来たみたいやけど、飲んだ帰りじゃないよね?」
「はっ!? いやいや、仕事帰りですよ!」
「そうですか。ちょっとハーってしてもらえますか?」
「良いですけど、でも俺、どう見てもしらふでしょ!?」
「そうなんやけど、顔に出にくい人もいるんで念の為にね。お兄さん右側走ってはったし、結構スピード出してたし」
「うっ」
それを言われると何も言えない。
ついつい気持ちよく走ってしまい、それが飲酒運転に疑われるとは……。場所が祇園界隈と言うのも悪かった。歓楽街で疑われる行動をしていれば、警察もそれは目をつけるだろう。
返す言葉も無い啓一朗は素直に従った。当然検知もされなかったので、お小言だけで解放される。パトランプが祇園さんのT字路を曲がって行ったのを見送って、心の底からホッとした。
「マズったな。これからは気をつけよう」
仕事終わりの解放感もあって、ついついマナーの悪い乗り方をしてしまった。
「余計な時間を喰っちまったな……さて、行くか!」
気を取り直して自転車にまたがった啓一朗は、幾分安全運転でペダルを漕ぎだす。
そして二十分後、彼は御所の前で警察に捕まった。
ほとんど誰もいない河原町通を啓一朗はすいすい北上していった。昼間は観光客と買い物客で歩道は常に混雑、車道も慢性渋滞の河原町通も今は啓一朗だけのものだ。京都一の繁華街も、この時間は僅かに営業している飲食店とゴミの回収業者ぐらいしかいない。
「歩道に生ごみが積み上げてあるとか、まともな時間にしか来ない連中は知らないだろうな」
深夜に出歩く人間にしか知らない、そういうのが啓一朗には面白い。“京都通”の知識が観光ガイドより詳しくても、彼らのメモ帳にこんな景色は載っていないだろう。
御池通を越えるとだんだん風景が繁華街からおちついた商店街に移り変わり、やがて住宅街の幹線道路みたいになる。河原町丸太町で曲がるとすぐに京都御苑だ。
あちこち入口がある京都御苑だけど、御所からまっすぐ南に下った堺町御門がなんとなく正門っぽく見える。
門の前で一旦停まった啓一朗は、夜でも特に門が閉まらないのに今さらながら気がついた。街灯の数は少ないけど、御苑の中の道がなんとなく照らされている。
「そう言えば、御所の周りは一応公園だから二十四時間入れるんだな」
この時啓一朗は、うっかり「ちょっと中を抜けるのも面白いかも」と思ってしまった。闇に沈む京都御苑を通り抜けるというシチュエーションに、夜の散歩者の好奇心がそそられてしまった。こんな所に変質者も強盗も出ないだろう。何と言っても御所の周りで警備がいるはず。
「ちょっと入って、次の門から出ちゃえばいいか」
角をちょこっとショートカットするだけだ。走りにくければすぐに烏丸通に出られるし、特に問題は無いだろう。そう思って啓一朗は京都御苑に踏み込んだ。
めざす下立売御門まで半分ほど進み、烏丸通の灯りが見えてきた辺りで啓一朗は不意に声を掛けられた。
「そこの自転車の人! ちょっとええですか!」
「はいっ!?」
誰がこんな所に他の人がいると思うだろうか。
驚いて停まった啓一朗に、ザクザク砂利を踏みしめる音と共に懐中電灯の光が近寄ってくる。闇に溶け込んでわからなかったけど、警官が二人、緊張した雰囲気で立っていた。
「あんた、こんな時間にこんな所で何をしとるんですか?」
ちょっと角が立つ口調で啓一朗も少しカチンと来たけど、商売柄言い方のきつい客には慣れている。反発する気持ちを押さえ、努めて平静に仕事帰りだと説明した。
「仕事を終わって祇園から衣笠の自宅へ帰る途中です」
それだけ言えばわかるだろう、と思った彼の当ては外れた。
「衣笠? どこだ? 知ってるか?」
「わからん」
「はっ!?」
警官が二人とも地名を知らなかった。
(いやいやいや、そんなにマイナーか!? そりゃ親切な言い方じゃないけどさ!?)
衣笠と言った時の地域は広いのではっきり町内がわかる地名では無いけれど、少なくとも警察が場所の見当も付かないような所じゃないはずだ。
「何通りの辺りですか?」
「西大路の蘆山寺を上がった辺りです」
ここまで言えばもうわかっただろう、という予想はまたも外れた。
「蘆山寺を上がるって、蘆山寺はどこや?」
「わからん。西大路言うたら西の方なんは間違いないけど」
通りの名前なので西大路に蘆山寺はねえよ! と喉まで出かかった啓一朗だが……この連中、どうにもおかしい。警官のくせにさっきから土地勘が無さすぎる。
(……コイツら、本当に警官か?)
不信感を募らせた啓一朗がちょっと距離を置こうと思った時……派手に砂利を蹴散らす音が近づき、多数の光線が乱舞した。結構な人数が駆けつけてくるのが足音と光だけでもわかる。
「なんや! どうした!?」
「不審者か!?」
(うおっ、なんだ!?)
大人数にビビった啓一朗は、あっと言う間に囲まれた……機動隊に。
呆然とする啓一朗を取り囲んで、多数の警官が状況もわからずがやがやしている。先に来ていた一般の警官が機動隊の班長らしいのに説明をした。
「こっちの兄さんがこの時間に御所に入って来たんで職質かけたんですが、言うとる住所がわからへんのですわ」
「ああ、京都ん地名はわからんな。自分らわかるからって、あいつらは……」
他人事みたいな話し方と、防刃ベストの背中のロゴで啓一朗にも状況が飲み込めた。
(コイツら、大阪府警じゃねえか……!)
警備の応援で来た
最先任らしい機動隊の班長が啓一朗に向き直った。
「あー、お兄さん。申し訳ないんやけど、手荷物検査させてくれへんかな?」
「は、はあ……あの、なんでまた」
「今な、国際会議で海外のお偉いさんが京都に来とるのは知ってるやろ? それで過激派に狙われそうな施設の集中警備中でな?」
「あ! そ、そうでしたか」
ニュースでそんな事を言っていたような。仕事中のBGMで聞き流していたので、まさか自分に関係するとは思ってもいなかった。
「それで夜中に誰も来んようなこんな所に、あんた入ってきたやろ? 行動が不審やったので、声を掛けさせてもらった訳や。一応な?」
不審者は啓一朗の方だった。
一応とは言うけれど、デイパックの中身どころかボディチェックと免許証の照会まできっちりやられた。当然何も出ない。
「こういう時に、こんな時間フラフラ散歩するもんやないで? うん、気いつけて帰り」
警備を騒がせたので軽くお小言をもらい、文字通りフラフラの啓一朗は機動隊に見送られて明るい烏丸通へ転がり出た。
「はー、何事かと思った」
京都の旧跡には皇室関係も多いし、海外のVIPも来るし、国家行事でもあった日には厳戒態勢になる。住んでいるとこういう事に出くわすこともある。
「まあこれも京都にいる醍醐味……って言うのかなあ」
京都らしいけど、これはそんなにありがたくない。まさか一晩に二回も警察に職務質問されるとは。自転車通勤の疲れより、警官に色々聞かれる方がどっと疲れた。
「余計な夜間拝観なんかするもんじゃないな。早く帰って風呂入ろう……」
疑われるようなことはしない。反省した啓一朗は同志社大学の前で烏丸通から道をそれ、グッと生活感が増した今出川通に入る。そして五分後、千本今出川の手前で警察に捕まった。
西陣の辺りまで来ると、だいぶ
『そこの自転車……』
「またかよっ!?」
思わず悲鳴が出た。今晩、三回目。
(サイレンを鳴らさないだけ気遣いかなあ)
なんてどうでもいい事を考えながら、自転車を停めた啓一朗は警官に囲まれるのを待った。
「……なんすか!?」
一時間で三回目ともなれば、さすがの啓一朗もキレ気味での応対になった。
「こんな時間にどこかお出かけですか?」
警官の方もキレる相手に慣れているらしく、啓一朗が不機嫌なのをスルーして冷静に質問してくる。
「仕事の帰りで、祇園から、衣笠に帰るところです! 知ってますか、衣笠!?」
「ええ、わかります。何か身分証は……はい、免許証ありがとうございました」
今度は京都府警らしい。掌に叩きつけられた啓一朗の免許証をざっと確認して、無線で照会して丁寧に向きまで直して返して寄越した。車も原付も持っていないのに、今日は免許証が大活躍だ。
気がつけばもう一人が後ろにしゃがみ込んで、自転車の防犯登録を本部に照会している。
特に問題は発見されず。当たり前だ。ついでに言えば今度は啓一朗も警察に呼び止められるような心当たりはない。
「はい、ありがとうございました。お気をつけて」
職質が終わって何事も無いみたいに車に戻ろうとする警官に、今度は啓一朗が噛みついた。
「夜中にフラフラ外出してましたけどね、俺なんか怪しく見えましたかね」
振り返った警官は当然と言う顔でしれっと答える。
「この辺り、最近自転車盗難の被害が多くて特別警戒中です。なにしろ学生が多いですからね、自転車の台数も盗難件数も多いんですよ」
それを言われるとなにも言えない。それは啓一朗も良く知っている事だからだ。
この辺りは大学が幾つもあるし学生向けの下宿も多い。かくいう啓一朗も学生時代からのワンルームにそのまま住んでいる。
「夜間は特に盗難が多いんで、この時間に一人で走っている自転車には声掛けしています。ご協力よろしくお願いします」
よろしくと言われても。
一晩に三回も、全然違う理由で警察に呼び止められる街、京都。
千本今出川の交差点を南に曲がっていくパトカーのテールランプを見送りながら、啓一朗はグッタリと項垂れた。
「……これだから京都はイヤなんだ」
祇園のはずれの夜鳴き蕎麦 ~雇われ店長 営業日誌~ 山崎 響 @B-Univ95
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