第3話 泥酔男。(上)

 瀬田啓一朗が店長を務める蕎麦処結家むすびや二号店は、同じ蕎麦屋と言っても客が並ぶような名店とはちょっと違う。何が違うって、店の肩書が“蕎麦処”であって“生蕎麦きそば処”とは書いてないのがちょっと違う。


 二十に満たない麺類メニューは蕎麦とうどんが選べるけれど、どっちにしても冷凍の麺玉に業務用の希釈出汁きしゃくだしをかけて作り置きの具材を載せるだけだ。具材はほぼ全部問屋から届いた調理済み製品の封を切るだけ。季節限定メニューなんて面倒な物は当然ない。

 飲み物はアルコールもジュースも、今時どこが作っているんだという王冠式のガラスびん。熱燗や生ビールのサーバーは手入れが面倒なので導入しいれてない。デザートなんて小洒落た物は置いてない。

 あらゆるメニューがインスタントな安っぽい店だけど、正直それも仕方ない。そもそも店長の啓一朗が、就職してから蕎麦の茹で方を習って食品衛生責任者の資格を取りに行ったインスタントだ。

 これで良い。

 これが良い。

 お客は飲んで帰る前の酔客か、仕事の合間に飛び込んでくる水商売の従業員がほとんど。真夜中に茹でたてが出てくればいいので、カップ麺より本格的なら文句は言われない。値段だって祇園で座ってかけそば一杯四百円。この街のどこの店のどの酒よりも安い自信がある。これに文句があるようなら明日の昼にでも、行列のできる蕎麦屋で一杯千四百円也の手打ち蕎麦を食べに行けばいい。

 ……しかし今日は、その簡単な道理を判らぬバカがいた。




「全然コシが無え! コシが無えんだよ、この蕎麦は!」

 ドンブリにダンダンと音が立つほど箸を突き立てながら、酔っ払いが唾を飛ばして喚きたてる。

「おい店主、聞いてるのか! テメエの作ったこれはなんだ! コシは蕎麦の命だぞ!? テメエのこれは全然ねえじゃねえか!」

「はあ……」

 偉そうに説教して来る酔客とカウンターを挟んで向かい合い、啓一朗は気のない返事を繰り返す。

「蕎麦屋の看板上げておいて、なんで恥ずかしくもなくこんなヒデエもんがだせるんだっての! それを聞いているんだよ! おい、返事は!?」」

 どこに炎上ポイントがあるのか、酔っ払いは自分の怒声にますますヒートアップしていく。迷惑極まりない。

「俺が何で怒っているかわかるか!? こんな出来になっちまって、〝蕎麦が泣いている”って代わりに言ってやってんだよ!」

「はあ……」

 コシが無いも何も、そんな物は初めから無い。冷凍物を軽く湯掻いて出しているんだから、コシなんて店に到着した段階で無くなっている。むしろメーカー推奨より早めに引き上げて、噛み応えのあるうちに出している。調理の腕なんて関係ないない。

「蕎麦汁も工夫がねえ! 似たような味がそこら中にあるぞ!? テメエは祇園に店を構えているくせに光る一工夫も出来ねえのか!」

 それはもう、業務用の既製品を丁寧に計量してきちんと浄水器の水で割っていますから。どこかで同じ味を食べたことがあるのは当たり前だろう。むしろ啓一朗としては客層に合わせて少し濃いめに希釈して、原価率大盤振る舞いなのを評価して欲しい。

「極めつけはこの天ぷらだ! こんな油が回った海老天様をよくも恥ずかしげもなく出せたもんだよ、ああ!? 作り置きの残り物を載っけたんじゃねえだろうな!? 客を舐めんな、ボケ!」

 作り置き? 冗談じゃない。目の前で冷凍庫・・・から出して、レンジ・・・で温めていたでしょうが。


(参ったな……客が多い時に粘着野郎が)

 啓一朗は無表情に受け答えしながら、内心苦り切ってため息をついていた。

 時々こういう客が来る。ただ酔っぱらって常識が無くなっているんだか、素面しらふでも常識が無いんだか、それは啓一朗にはわからない。ただ、コイツがどんな人間にしたって相手をしたくないのに変わりはない。

(店の雰囲気も悪くなるしなあ……立て込んでる時間帯は勘弁して欲しいぜ)

 クレームで騒がれちゃ、他の客だって心静かに蕎麦をすすれない。

 

 専業の蕎麦屋には、何種類かランクがあると啓一朗は思う。

 まず、プライドを持って気を張って作っている手打ちの蕎麦屋。どこそこの粉を使ってだの、店主はどこで何年修行してだの、具材も良い物を探して端々まで神経が行き届いている素敵なお店だ。

 次に、いわゆる町の蕎麦屋。仕入れた生麺を使っているけど、それなりにメニューも工夫してできることはやっているお店。

 それから、最近ではチェーンの蕎麦屋も増えてきた。自店で製麺していたり、新奇なメニューを開発したり、安いわりに全店で一定のレベルの物が食べられるから侮れない。

 そして最後に、味以外・・がウリの昔ながらの立ち食い系。利便性だけがウリの結家は当然、ココだ。

(この分類なんて、社会の常識だと思うけどなあ)

 底辺の夜鳴き蕎麦屋に、名店の出来栄えを要求されても。酒の勢いで喚くオヤジを前に、啓一朗は苦り切っていた。


   ◆


 結家に採用された時、啓一朗は一号店を見ている本店長の佐古さこにきつく言われたことがある。

「いいか、ボウズ。この商売で一番大事なのはな……ムカつく客をぶん殴らないことだ」

 まだ業界に馴染んでいない当時の啓一朗は、業務内容の説明オリエンテーションでいきなりその“一言”を言われて衝撃を受けた。とんでもない業界に来てしまったと思ったものだ。

 それを訓示してくれた佐古はがまた……。

 元から人相が悪い上に、かったるそうな態度。話す時も相手の目を見ず、ぶっきらぼうな口調。見た目が凶悪犯以外の何者でもない佐古にそう言われると、当たり前の常識なのに重要な禁忌タブーを話されている気になるから不思議だ。

「絶対とは言わねえが、祇園のお仲間・・・はまあ、問題ねえ」

 そこまで言った本店長は、喧嘩中にキレる寸前みたいにスッと声を低めた。

「問題は飲んだ勢いで興奮してる酔っ払いよ。頭ン中がアルコールでラリッてやがるから、常識も理屈も通用しねえ。つまり殴るしかねえバカがよくいるんだ」

 よほど殴りたい酷さなんだな、というのは未経験の啓一朗にも分かった。佐古の握りこぶしに血管が浮いているのが見えるから。

 佐古は懐を探ると両切りのバットを掴みだし、一本咥えて火をつけた。深々と吸って、話を続ける。

「だけどこっちは素面しらふで、金をもらう立場だ。いくら大トラよっぱらいが相手でも、金をもらうまでは『ごもっともで』と頭を下げ続けなくちゃならねえ」

 相当にはらわたが煮えくり返る思い出があったらしく、佐古の吊り上がった口の端が痙攣して凄い事になっている。それでも冷静に啓一朗に諭す姿には、「無法者でも、絶対に我慢する相手がいる」という感じで妙なリアリティがあった。

「どうしようもねえのが居座ったら、構うことはねえから警察を呼べ。そこまで行かねえレベルなら、俺を呼べばやさしく・・・・説得をしにすぐ駆けつけてやる」

 佐古のこの顔で猫撫で声を出されれば、それは確かに大抵の酔っ払いは出て行くだろう。佐古はあっと言う間に吸い終わった煙草を灰皿代わりの空き缶に放り込むと、少し頭の冷えた顔つきで二本目を引っ張り出した。

「いいか、こっちも手を出しちまうとな。サツにしょっ引かれた時に五分の喧嘩になっちまうんだ。客商売でそれはよろしくねえのはわかるな? だから何を言われようが、殴るのだけは我慢しろ」


   ◆


 本店長がイラついていたのも、仕事に慣れた今の啓一朗にはよくわかる。

 この手の客……言葉を飾らなければクレーマーは、本当に始末に困る。

 もちろん、もっともな苦情を言う客をクレーマーなんて言うつもりはない。

 だけどあからさまな無理筋、根本を履き違えている正論を言う馬鹿は必ずいる。いったい何を考えたら、そんな身勝手が言えるんだろう。

 このオヤジにしたってそうだ。泥酔している〝ハンディ”を差し引いても、あまりに自分が〝偉く”なっていないだろうか?


 結家の蕎麦のレベルが低いのは自分でわかっている。だけど、対価に見合った物は提供しているのは自信を持って言える。

 最下層の店に来た客に、最上級の店のレベルの物が出てこないと怒られる。〝お値段なりに、それなりに”というのは、そんなにいけない事なのか?

(あれだな。『お客様は神様です』ってのが悪いんだな)

 商売っ気抜きで、できる限りの歓待の気持ちを込める〝おもてなし”。その心意気は素晴らしい。だけどアレは出す側の〝サービス”だと、提供する側になった啓一朗は思う。

 サービスっていうのはつまり、料金外って事だ。

「前回来た時サービスでかけ蕎麦に海老天を載せてくれた。だからその待遇を毎回受けられて当たり前」なんて考えになってしまっては、もう〝おもてなし”は害悪にしかならない。お互いさまと言うか、謙譲しあう日本古来の美徳があって初めて成立するのでは無いだろうか。

(近頃じゃ、無料の物にまでクレームが来るらしいしなあ……)

 みんな、もっと謙虚になるべきだ。

 ……そういう事を取り留めも無く考えながら、蕎麦屋の〝粋”について語るやかましい濁声を受け流す。 

(それにしてもこのオッサン、いつ終わるんだろう)

 一対一なので、うっかりため息もつけない。マネキンのように無表情を保ち、それ以上怒らせないように時々相槌を打つ。この商売について五年。こんなスキルばっかり伸びている気がする。


 今日ほど時間が経つのを遅く感じる日はなかなか無い。

 啓一朗はウンザリと壁の時計に目をやった。

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