第4話 泥酔男。(下)

 蕎麦屋の心得をぐちぐち言い続ける酔客に啓一朗はほとほと困っていた。放っておくとこのオヤジ、閉店時間まで終わらなさそうだ。何が困るって、他の仕事ができないのか一番困る。営業中で他に客がいるのに。

(あの時、本店長はどんな対策ことを言ってたっけかな)

 延々怒鳴り続ける客から現実逃避しながら、啓一朗はぼんやりと記憶を探った。なにか、この状況を切り抜ける知恵があった気がする。


 記憶の中の本店長が言う。

『いいか、面倒なのにからまれたらな。〝俺の手元には包丁がある”と思ってろ。喧嘩になったら刃物ヤッパ持ってる方が絶対に有利だからな。〝コイツがいくらイキったって、俺には絶対敵わねえ”って頭ン中で見下して笑ってろ!』

(ダメだ。これはダメなヤツだ)

 他にもなにか、言っていた事があった筈。啓一朗はさらに記憶の奥を探る。

 本店長はこうも言っていた。

『どうにも我慢し切れなくてもな、とにかく店の中では手を出すな。我慢して頭を下げ続けて、やっこさんが店を出ちまえばこっちのモンだ。トイレに行く振りをして裏口から出て、油断しているヤツを路地に引き込んで後ろからビール瓶で一発。そこまでで我慢してやれ……おい、冗談だよ。笑うところだろ』

(アレ、絶対途中まで冗談じゃなかったよな……)

 もう少し役に立つ話があった気がするんだけど、思い出せない。

 あの時はあっけに取られてまともに話が頭に残らなかったけど、もう少しちゃんと話を聞いておけばよかった。


   ◆ 


 ふと正気に戻った啓一朗が店内の様子を見ると、雰囲気は最悪レベルにまで落ち込んでいた。他の客も忍耐の限界のようだ。

 今日は常連客ばかりで、今までアホくさい罵声を黙殺していてくれたけど……慣れている彼らにしても限度がある。みんな眉間に皺が寄っていた。

 誰と誰が喧嘩していても口を出さないのが結家ここでは暗黙の了解だけど、店の雰囲気が悪くてストレスが溜まるのには変わりがない。おまけに片方が啓一朗てんちょうとなると、帰りたくても会計もできない。無理に割り込めばこの酔っ払いの矛先が向くし、誰もが相当にイライラしているだろう。

(まずいな……傷害事件が起こりかねない)

 喧嘩で第三者が冷静とは限らない。むしろ何も言えずに溜め込んでいる分、我慢し切れなくなった時は危険だ。手が出るほど熱くなっている可能性も十分ある。

 自分が手を出すのもダメだけど、代理人に手を出させるのはもっとダメだ。

(なんとか、なんとかしないとかなりヤバ……アッ!?)

 佐古に言われたことを、啓一朗はやっと思い出した。


   ◆


 まだまだ言い足りない酔っ払いが一旦口を閉じたタイミングを見計らって、啓一朗は毅然とした口調で社会の道理をわきまえないバカに申し渡した。

「お客さん、おっしゃる事はごもっともですが……この店は気合いを入れて食いに来るようなそば屋じゃないのは、当然御承知で入ったんでしょう?」

「あ? なんだと!?」

 すごんで来るけど、そんなのは無視。

「繁華街で一杯五、六百円のそばにどこまで出来を要求できるもんなのか、そば喰い・・・・が判らない筈は無いですよね? 持論を長々演説なさるのは結構ですが、そういうのが通用・・するお店で御開陳されたらいかがでしょう」

 そこまでぴしりと言い、啓一朗は見下した態度で入口をさりげなく指し示した。

「こっちも営業中ですんで、いつまでも手を塞がれちゃ困るんですよ。お食事終わりましたら、そろそろお帰りいただけませんかね」

「……んだと、テメエッ!?」 

 豹変した啓一朗の態度に唖然とした酔っ払いは、思った通り簡単に逆上した。

「ひとが親切にご指導してやってんのに、なんだぁその態度はっ!?」

 椅子を蹴立てて立ち上がり、男は啓一朗に食って掛かろうとする。啓一朗も胸を張り、受けて立つ気概を見せた。


 ……が、その直後。

 立った酔っ払いの後ろから、ボソッと声が聞こえた。

「難癖つけてただけじゃねえかよ」

 その言葉は呟いただけなのに、不思議と廻りに響いた。

 啓一朗も予想もしていなかった援護射撃に、彼の胸倉を掴もうとしたオヤジが思わず動きを停める。

「……今言ったのはどいつだっ!?」

 酔っ払いが目を血走らせて振り返るけど、常連たちは全員何食わぬ顔で黙っている。発言者に視線も向けない。

 今いる客たちは、誰もが理不尽な酔客に泣かされている商売ばかりだ。酔っ払いへの反感が、不思議な連帯感と阿吽の呼吸を生み出していた。

「……テメエらもテメエらだ!? こんなブタの餌を喰わされてよく黙ってられんな、ああ!?」

 そば通オヤジは他の客を煽り立てるけど……のる人間は誰もいない。だって皆が侮蔑しているのはオヤジの方。隙を突き、ちょこちょこ聞こえよがしな陰口が飛ぶ。

「御大層な事が言いたきゃ、お高いトコに行けよ」

「お値段見てからお店に入りまちょうね~」

「えっらそうに、何様のつもりなんだか」

 酔っ払いが見てない位置の客が次々一言物申す。振り返った時には誰もが知らんぷりで、そこには何もない。ただ何度か繰り返されれば、さすがの酔っ払いも自分が総スカンを喰っているのは理解したようだ。

 オヤジは血管が切れそうな顔で歯ぎしりをしていたが、どう見ても味方はいない。

「……ケッ、店のレベルが低いと客もクズが集まんのな!」

 誰も自分に賛同しないのに業を煮やした酔っ払いはそう吐き捨てると、虚勢を張って肩をそびやかし出て行こうとした。


 そのまま。


(しめた!)

 思った通りの行動だ。啓一朗はそっと後を追う。

 そして暖簾をくぐろうとしたオヤジの肩を掴んで、厭味ったらしく背中に声をかけた。

「お客さーん……お代をいただいてないんですがねぇ? 天ぷらそばで六百八十円、お支払いをお忘れですよぉ?」

「テンメェ……!?」

 振り返ったオヤジは今にも殴らんばかりの御面相だ。

「あんなヒデェそばを喰わせておいて金を払えだと!? バカ言ってんじゃねえぞクズ!」

 何を言われても啓一朗は余裕だ。ここまで啓一朗の目論見通りに進んでいるのだから。

「そのそばをきちんと食べ終わってますよね? 代金も払えないほど酷いのなら、なんで一口で席を立たなかったんですかねぇ?」

「こんのやろう……ああそうかい! だったら今すぐ返して・・・やらぁ!」

 この後の行動が読めたので、啓一朗はオッサンの肩を掴んだ指先に思いっきり力を込めてやった。

「痛ぇ!?」

 不意の痛みに、泥酔オヤジは簡単に気が逸れる。

「先に言っておきますけどねぇ……吐き戻したって返した事にはなりませんからね? むしろ入口にぶちまけられたんじゃ、〝食い逃げ”に〝営業妨害”が追加されますね。ああ、あと店にいらっしゃる他のお客さんへの嫌がらせにもなりますから、そちらにも謝罪と慰謝料が必要になるんじゃないですかね」

 やろうとしたことを先んじて封じられて、何度も口をパクパクさせた酔っ払いは……バカにしていた相手にバカにされて、血が上った頭で何も考えつかなくなったらしい。

「テメエッ、ふざけんなよ!?」

 とうとう殴りかかってきた。


 啓一朗は避けない。

 意外に速い拳が近づいたかと思うと頬に衝撃が加わり、カッと殴られたところが熱くなる。先に歯を食いしばっていたので口内を切ることはなかった。そして内心であざ笑う。

(既成事実ゲットォ!)

 予定通り・・・・殴られた。後は捕まえて警察に電話するだけだ。

 次の一撃の前に取り押さえようと思ったけど……それはすでに、居合わせた常連客が動いてくれていた。

 ホストとボーイが暴れるオヤジを取り押さえてのしかかる。ホストの兄さんなんか、わざわざ痛くするように関節技をかけている。その横ではキャバ嬢が警察に通報をしてくれていた。せっぱ詰まった声で「酔っ払いが結家で暴れている・・」と見事な演技力で冷静に事情を伝えている。

 ざっと見たところ、もう啓一朗がやる事はなさそうだ。 

「はぁ……」

 啓一朗は長々と吐息をついた。

 やっと酔っ払いを駆除・・できた。そう思うと、どっと脱力するのを覚えた。

 


   ◆



「というわけで、オッサンは警察相手にも暴れて公務執行妨害も付きました」

 翌日、啓一朗は営業開始前に一号店を訪れて本店長に報告をしていた。あらましは先にメールしてあるけど、詳しい話は会って話そうと直接店へ来た。

 本店長はいつも通り、バックヤードの一斗缶に座って聞いている。

「食い逃げは立証できたんか?」

「ういっす。お客さんに勘のいい人がいまして。ヤツが敷居を越えるまで待ったのを理解してたらしくて、警察に『外まで出た』と証言してくれました」

 本店長は眠そうな藪睨やぶにらみの目を細めた。五年も付き合ってやっとわかったけど、これは何かいいことがあって機嫌がいい時の顔だ。限度を超えた酔っ払いが地獄行きなのが嬉しくて仕方ないらしい。やっぱり昔、何かあったのだろう。

「迷惑がかかった常連には悪かったな」

「それなんですがね……自分の店に関係ないところで酔っ払いの脚を引っかけた・・・・・・・のが楽しかったらしくて、皆さん俺を労ってくれてご機嫌で帰られました」

「そうか……そうだろうな」

 結家でこれほど人間関係が濃密になったのは、多分開店以来初めてだろう。啓一朗に同情したというより、みんな相当に溜まっているんだろうと思う。

 本店長は処置が良かったと珍しく褒めてくれた。特に警察沙汰にしたのが良かったらしいけど、そこは聞かないことにした。


 本店長は報告を聞き終え、斜に構えて煙草を抜き出し火をつけた。ちょっと遠い目をしながら、わずかに顔をほころばせる。

「んだけど、俺も昔そんな事を言ったんか……」

「ええ、おかげで対処できました。『食い逃げを未然に防がないで警察沙汰にさせる』テクニックなんて、俺聞いてなければ考え付かなかったです」

「おう、そういう手もあるってこった」

 本店長は満足そうに紫煙を吹くと、周りをちょっと見回して声を潜めた。

「ただ、アレだな。まだおまえが入ったばかりで、俺も当たり障りのない事しか教えていなかったみたいだな」

「当たり障りのない……?」

 包丁握って笑ってろとか、店を出たら闇討ちとか、アレを通り一遍で済ますのはどうだろう?

 首を捻る啓一朗に、本店長は腰の高さに構えた拳を見せた。

「一発殴られてから取り押さえる時にな」

「はあ」

「クソ野郎を押し倒した時によ。他の奴には見えないように身体で隠しながら、野郎の腹に二、三発抉るように食らわせてやるんだ。捻っている腕の関節にも響くから、野郎のダメージも倍増だぜ」

 空打ちで実演しながら、いつもふて腐れたような顔の本店長が珍しく喉の奥を鳴らして笑う。かなり怖い。活き活きしながらコツを伝授してくれる。

「場が混乱している時にやるのがミソだな。周りもパニクって覚えちゃいねえし、野郎も酔っているから他人の証言が無ければバレやしねえ。それぐらいやっとかねえと、こっちの腹が収まらねえからな。覚えとけ」

「はっ……」

 なんとコメントしていいか困るノウハウを教えられても、啓一朗も返事に困る。


 言葉に詰まった啓一朗と本店長はしばし黙って向かい合い……。

「ばぁか、冗談だよ。笑えよ」

「……うっす」

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