第5話 徘徊老人。

 蕎麦処 結家むすびやでは基本、愛想のある接客をしていない。

 接客業とはなんぞや? という根本からの問題になってしまうのだけど、何故かと聞かれれば〝客がそれを望むから”としか言いようがない。

 来店する常連客はほとんどが祇園のクラブやスナック、その他夜間営業の接客業の皆さん。しかも言われる前に動く気遣いが求められる職種の人たちだ。結家そとに食べに出る時まで、人付き合いに気を張っていられない。だから淡白な客あしらいの方が良い。そういうことだ。

 薄汚れた店内に黙ってバラバラに客が座り、時々店主がぶっきらぼうに注文を取る声以外は身内でしゃべる声しかしない。そんな様子を思い浮かべてもらえば、結家の雰囲気を説明するのに間違いはない。


 そういう店だけど……ごくたまに例外がいないわけでは無かった。どういう訳か、こんな店でも時々店員と話したがる客がいる。

 なにもこんな店でと啓一朗なんかは思うけど、他の客の迷惑にならない限りは最低限の応対はしている。それもまた接客だ。

 当然だけど、求めるお客にどうしてと直接訊くことはしていない。それもまた客の事情に立ち入ってしまう事なので……ただ、頭の中だけで〝不思議な事だな”と思うだけだ。


 今日も一人、そんな客がやってきた。


   ◆


「はい、こんばんは」

 ガラリと戸が開き、小柄な老人が顔を出した。

「いらっしゃい」

(来たな、ぬらりひょん)

 啓一朗は暇つぶしに読んでいた二日前の朝刊を畳みながら、常連客に挨拶を返した。


 この老人は、わりと暇な時にやってくることが多い。

 年は七十か八十か……とにかくかなりの歳の筈だが、背筋はピンと伸びてかくしゃくとしている。いつも愛想よく入って来ると店を縦断し、一番奥のカウンター席に座るのが常だった。これという好みも無く、頼むメニューはいつもバラバラ。数少ないお品書きなんか暗記してそうなのに、毎回楽しそうにじっくり隅から隅まで眺めてから今日の気分で注文を出してくる。


 啓一朗が視界の端で追っていると、老人はスタスタ奥まで歩いていってカウンターの足が長い椅子によじ登った。いつも通りだ。

 腰を落ち着けると、ニコニコ笑いながらまず毎度の注文・・を出してくる。

「店長。とりあえずお茶をな、一つな」

「はい」

 何を言われるか判っていた啓一朗は、言われる前に既に急須の準備を始めている。相手は常連客の中でも来店頻度は高い方だ。だてに長年相手にしていない。


 お茶。これは結家ではちょっと不思議なメニューだ。

 結家では客が来たら、普通は水だけを出す。お茶もオシボリも出さない。ただ緑茶は用意だけはあるので、客に頼まれたら初めて提供する。

 ドリンクメニューと違って無料なので、お品書きには載っていない。知っている人だけ知っている、結家唯一の裏メニューと言える。と言っても常連客でも知らない人は多いので、来るなり「いつもの」のノリで注文する客は目の前の老人ただ一人だ。


(それにしても……)

 給湯器から直で急須に熱湯を入れながら、啓一朗はいつもの疑問をまた頭に浮かべた。

(この爺さん、何者なんだろう)

 結家に来る客は、着ているものや態度からだいたいの素性が判る。制服なら祇園の街のどこかで見ているし、少なくとも業種ぐらいは判別がつく。バラバラの服でも呑みに来た客や観光客は、話している内容や待っている間の様子でどんな背景があるのか簡単にわかる。仕事上がりの連中は私服でも雰囲気が違う。明らかに見分けがついた。

 しかし、この老人だけは勤めて五年の啓一朗でも読めない。

 夜の仕事に就いていないのは確かだろう。

 毎週のように顔を出すし、ふらふら手ぶらで来るから観光客ではない。

 酔って来たことは一度もない。

 何の目的でここにいるのか判らない老人が、昼間の公園で猫にエサをやっているような、そんな雰囲気で夜の祇園に紛れ込んでいる。

 何者か不明、いる筈のない場所をいつもふらふら彷徨っている。だから啓一朗は心の中で、そんな老人を行動が似ている妖怪になぞらえて「ぬらりひょん」と呼んでいた。

 客の素性は詮索しない。それは結家の原則だけど、この老人はあまりに場違いなので啓一朗はいつも気になって仕方がなかった。


   ◆


 お茶を出しても老人はまだお品書きを眺めている。その間にホステスが二人とボーイが一人来て、それぞれの注文を取った頃に老人はやっと顔を上げた。

「わし、今日は衣笠うどんにしようかな」

「衣笠うどん一つね」

 舌打ちしたい気持ちを押さえて、啓一朗は特に感情を込めずに注文を繰り返した。

(めんどくさいな……)

 正直な話をすれば、内心はカケか月見にでもしろよと思っている。結家のメニューの中でも衣笠うどんは手順がめんどくさい。


 カケのうどんか蕎麦なら、冷凍の麺玉を釜で茹で、保温されている出汁をかけ、カマボコと湯掻いたほうれん草を彩りで載せる。

 月見ならそれに生卵を割ってトッピング。

 天ぷらなら冷凍海老天をレンジでチンしてトッピング。

 ニシンなら湯煎しっ放しのニシンの甘露煮を袋を開けてトッピング。

 どれもカケにひと手間で作業は終わる。


 一方で衣笠はやることが多い。

 全国的にはきつねうどん、京都式では甘きつねうどん用に用意してある油揚げの甘辛く煮たやつを短冊に切り、ネギと一緒に餡かけの汁で煮てうどんにかける。

 ほぼ一緒の作り方をするたぬきうどん(京都式)なら短冊に切った油揚げは用意してある。でもたぬきの餡かけバージョンな衣笠は甘辛く煮た油揚げを使うので、甘きつね用の一枚のまま煮てある油揚げを切らなくちゃならない。油揚げとネギを煮込む時間もかかる。

 つまり衣笠はトッピング部分に作り置きが使えない。けいらんもそうだけど、客が立て込んでいる時に煮込み調理が必要な餡かけ系はありがたくない注文だった。


 啓一朗はとっさに頭の中で今四つ入っている注文を並べ、自分の手際を考えて作業の手順を考える。

 麺玉はまず三つ釜に投入。ジジイの衣笠だけ麺の出番が遅れるのでまだ入れない。衣笠の材料を急いで用意して行平鍋を火にかけ、煮ている間に先に来ていた注文の玉を引き上げ、盛りつける。出来たのを客に出す前に衣笠分のうどん玉を釜に投入。客に丼を配り終えてから急いでうどんを引き上げ、盛りつけて老人に出した。

「うむ、なかなか良かったよ」

 老人は手際を誉めてくれたけど、思った通り視線は啓一朗を向いていた。

 彼は届いたうどんを見ていない。調理だけを見ていたのだろう。何が楽しいのか大喜びの老人は、手まで叩いてはしゃいでいる。

「注文が立て込んだ時に衣笠は時間がかかるかな~、それとも伸びたのが出てくるかな~と楽しみにしとったんじゃが、巧い事仕事を並べて良い時間で出してきたの。うん、店長なかなかグッジョブじゃ」

「……やっぱり、わざとでしたか」

 そんな気がしていた。今思い返せば、過去の注文もわざわざ手が塞がっている時に面倒な注文をされた気がする。

 老人は恨みがましい啓一朗を無視して、うどんをすすり始めた。

「店長もだいぶ手際が良くなってきたのう。昔は何を作るにもモッタモッタしていて、平気で伸びた蕎麦を出してきたものじゃが」

「そこまで酷かったですかね」

(モタモタじゃなくて、モッタモッタかい)

 大分馬鹿にされた言い方だけど、店を任されたばかりの頃は確かに手際が悪かった自覚はある。向こうっ気の強い本店長だと今の言葉に腹を立てて、この老人を放り出したかもしれないけど……啓一朗は不思議と腹が立たなかった。

 言われてみれば、この老人との付き合いも就職以来五年に渡る。深夜仕事でカタギ・・・の友人もいなくなった今では、同僚以外じゃ一番顔を合わせているかもしれない。

 



 そんな雰囲気になったので、物のついでで啓一朗は老人に尋ねてみた。

「いつも来るのは、うどんの出来を見に来てるんですか」

「うどんだけじゃなくて蕎麦も食うぞ」

 一つまぜっかえした老人は箸を休めてお茶を一口飲んだ。湯呑を置いた老人はちょっと真面目な声音になる。

「わし、若いのが育つのを見ているのが趣味なんじゃ。じゃからうどんの出来じゃなくて、店長の出来を見に来ておるんじゃな」

「そうですか」

 本当にそう思っているのか人を喰っているのか判らないけれど、なかなか趣味のイイ・・爺さんだ。

「どうです、俺はメキメキ成長していますかね」

「成長はしておるけど、延々低空飛行じゃのう」

 今褒めたばかりにしては、なかなか辛辣な低評価。憮然として啓一朗は思わず老人を見つめるけど、向こうはまるで気にしていない。本当にイイ性格の爺さんだ。


 うどんが終わったらしく、老人はレンゲで丁寧にあんかけをすくって飲み始めた。一瞬手元を止めて、ポロッと独り言のように呟いた。

「何十年通っても、祇園は見ていて楽しいのう」

「楽しい……ですかね?」

 疑問形で啓一朗が問い直したのは、老人はどうも祇園で「遊んで」はいなさそうだからだ。呑みもしないでただ歓楽街をうろつき、蕎麦屋を冷やかして「楽しい」とは?

 若者を見るのが楽しいと言われても、啓一朗は(呑んでこその祇園ではないか?)と思ってしまう。ステレオタイプだろうか。

「楽しいな。酒を飲むより、人を見ている方がよほど楽しい。先が読めないんじゃ」 

 汁も飲み終わり、老人はハンカチで口を拭って湯呑に手を伸ばした。

「やる気のあった若者があっと言う間に心が折れてしまって去って行ったり、これはもたないじゃろと思った若人が何年も下積みに耐えて耐えてとうとう店を持ったり……わしの予想もせんことがよく起こる。だから見て回っていると楽しいんじゃ」

 老爺の思いがけずシリアスな語り口に、啓一朗は喉まで出かかった軽口を黙ってそっと飲み込んだ。

 ちょっと茶化す雰囲気じゃない。

 語りながら茶を飲む老人の瞳は目の前を見ているようでいて、見えない遠くを見ているようでもある。

 余計な事を言わないように、啓一朗は老人をそのままに黙って皿洗いをすることにした。


   ◆


 他の客が立て続けに帰って行った。

 店内にまた二人になって、啓一朗は一つ老人に言っておきたいことを思い出した。

「趣味で祇園をふらつくのは結構ですがね。いくら慣れていると言っても盛り場ですよ? このあいだも傷害事件がありましたし、むやみに夜中に散歩するのは良くないですよ。もっと早い時間にしたらどうです」

 啓一朗に言われ、二杯目の茶を飲んでいた老人の肩が……どことなく小さくなった気がした。

「……だって、家におってもやる事が無いんじゃもの」

 妖怪のような正体不明の老人が、なんとなくただの徘徊老人に思えてきた。

(このジジイは他人の人生を気にする前に、他に趣味を見つけた方がいいんじゃないだろうか)

 老人の告白を聞いて、啓一朗はそう思ったのだった。

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