さえない私とマスカラの滝

「ん……?」


 気がつくと見慣れた景色が広がっていた。何度も通いつめたぼろっちい控え室の天井という景色が。そこにある空気、音、そして匂いがここが現実であることを示していた。


「あ、音夢ちゃん起きた? 大丈夫? 具合悪くない?」


 未だに夢と現実の意間で微睡む私の耳に、現実側からくしゃくしゃの嗄れ声が確かに聞こえる。その声もまたこの天井と同じくらい聞き馴れた声だ。


「あれ……オーナー?」


 ぼやけた視界の真ん中に、自らが発する嗄れ声に負けないぐらいくしゃくしゃの女性が映った。彼女はここ、ライブハウス<アキバズドリーム>のオーナー。本名、大和田笑美。齢67になりながら自らステージの上に立ち、笑いを取り続けるスーパーお婆ちゃんだ。


「あんたもう心配したんだからぁ、歌い終わって帰ってきたとたんぶっ倒れちゃうんだもん。ほんと大丈夫? 病院行く?」


「あっ、えーっと……大丈夫です! なんせ音夢は――」


「あっそ、じゃあさっさと出ていく!」


 え? 先ほどの心配はどこへやら、オーナは私に被せられていたどぎついピンク色の毛布を手荒く取り上げた。ひどい! 音夢の体は豆腐並みの耐久力なのに!


「お、オーナー様!?」


「何がオーナー様だよ全く! あんた今何時だと思ってんだい!? 十一時! 十一時だよもう!」


 オーナーが自らの左腕につけている古い腕時計をぽんぽんと指で軽く叩いた。そしてその顔、一目でわかる剣幕だ。一言で言うとTHE不機嫌。この顔を見るのは去年のハロウィン仮装してビラ配りしたときに、私だけ予算けちって全身タイツのエイリアンになってビラ配りしたとき以来である。私の中のベルベル星電波受信機が最大レベルの警告信号を受信した。


「ご、ごめんオーナー様! すぐに出ていくからもうちょっと待ってて!」


「もうほんと頼むよー、最近早寝してるんだから。夜更かしするとシワ増えちゃうじゃない」


 寝ていたソファーから飛び起き大急ぎで着替える私を、オーナーの小言が追いたてる。もうしわくちゃのやまんばじゃねーか! と言いたいところだが、すべての非は私にあるので何も言わない言えるはずがない。着替えが終わり、化粧台の前に置いてある小物を片付けようとしたときに私の手が止まった。


「あっ、あんた出ていく前に化粧落としたほうがいいよ。いまのあんた、正直女の顔じゃないからね」


 鏡の奥で笑うオーナーを横目に私は未だ動けない。こんな姿、誰かに見られたら私は二度とステージに立つことはできない、ていうか立つぐらいだったら死んでやる!


「だ、誰かもうちょっとだけ開けといてくれないカナー?」


 チラッ、チラッ。届けこのアイコンタクト!


「はぁ……もうしょうがないねぇ」


 届いた! ため息をつきながら部屋から出ていくオーナーを尻目に、私は再び鏡の中の私のようなエイリアンに向き合う。


 問題の箇所は2つ。まず髪! 肩まで伸ばした桜色の髪の毛は寝てる間に重力に負け、切り揃えられていない枝垂れ桜みたいになっている。この寝癖は三分じゃ対処しようがない。だけどこんなこともあろうかと、私はニット帽を鞄に常備しているのだ! ざまあみろ寝癖! 


これで寝癖は討伐、ていうより隠すことができた。さあ、問題は目だ!


 もうひとつの問題、それはライブ前に塗ったマスカラがいつの間にか流れ出て、白い皮膚の耳の方に黒い滝を作っていたことだった。だがそれも恐れるに足りない、私はポーチからマスカラ落としを取りだし、指にたっぷりとつけ、黒い滝に擦り付けた。


 みるみる落ちるマスカラの滝を見ながら、私の頭にふと疑問が浮かんだ。


 私、なんで泣いてたんだろ?


 マスカラが落ちる原因は主に三つ、雨、汗、そして涙だ。今は春先、しかも室内なので雨も汗もない。じゃあ私は泣いていたのだろう。落ちていくマスカラとは裏腹に、その疑問はべっとりと心に貼り付いて離れない。思い当たる原因は一つしかなかった。


 夢。はっきりとその内容は覚えている。かつての私の笑顔、夢、そして誓い。ついでにどこからか聞こえた謎の声。多分私は、子供の頃の自分と今の私の落差に泣いたのだろう。だって何度も現実でも泣いていたからね! 


「……はぁぁ~~」


 マスカラを落とし終え、最後にハンカチで顔を拭った。きれいさっぱり生まれたままの顔に戻った私を見て、肺の奥から大量の二酸化炭素がため息となって口元からあふれでる。はたしてこのため息は安堵から来るものなのか、それとも落胆から来るものなのか、今の私にはどうでも良かった。


「はい、三分経ったよー」


 最後にリンゴを模した真っ赤なニット帽を鞄から取りだした時、オーナーが控え室の扉を開け入ってきた。オーナーの不機嫌顔は私の顔を見るや、くしゃりと笑顔に変わる。


「お、どうやら間に合ったみたいだね! よし、帰るか!」


 私はニット帽を被りながら応えた。


「あ、カラコン外すの忘れてた。オーナー様? もうちょっとだ――」


「帰れ!」

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