洛陽アニメーション放火事件

 戌亥は気づかなかった。

 大枚をはたいて買ったBOSEのヘッドホンからは、絶え間なしに大音量のロックが響く。外界からの隔絶、深い深い自我への没入。その為に張られた幾重ものATフィールド……だから、気づけなかった。


 悲鳴は、聞こえなかった。爆音も、聞こえなかった。ただ最初に、黒煙がやってきた。煙が来る少し前に、戌亥は咳き込んだ。咳き込んで異常に気づき、辺りを見回した。――実際には見回す間もなかった。煙が視界を覆った。霞んでいく視界の中で、同僚たちが踊っていた。――正確には踊ってなどいなかった。慌てふためき、多分、逃げようとしていた。だけれど頭と身体が噛み合わなくて、滑稽に踊っているように見えた。


 戌亥は立ち上がった。PCに繋いでいたヘッドホンが落ちた。咳が酷い。呼吸ができない。空気が熱い。身体も熱い。見えない。世界が。


 反射的に、足が動く。付随して、胴体が、頭が動く。アクションシーンを描く為、格闘技を学んでいた戌亥は、他の同僚より身体能力に優れていた。


 悲鳴が聞こえる。ヘッドホンが取れて、地獄の釜が開いた。上へ、上へ、階段を駆け上る音。だけれど誰かが踏み外す音。ガラスを叩く音。ドアを叩く音。壁を叩く音。泣き声。叫び声。人を呼ぶ声。灼ける臭い。肉の、たぶん、人の――だから、同僚の。


 熱い、熱い。誰かを気遣う間もなく、戌亥は駆ける。死にたくないとか、怖いとか、そういう感情の断片を踏み潰すように、脳も身体も心臓も四肢も何もかもが、得体の知れない恐怖に突き動かされていた。


 見えない、見えない。駆けようと思った足は、視界のない中で、恐らくは椅子に当たり、机に当たり、やわらない何かを踏みつけて、行き止まりに突き当たる。


 叩く。硬い、コンクリート。ずれる、コンクリート。もう少し右へ。音がする。ガラス――窓。開かない。――鍵、見えない。――叩く、割れない。


 格闘技を嗜んでいた筈の戌亥。だが追い込まれた窮地で出たのは、ただただ壁を叩くだけ。押入れに閉じ込められた子供が、必死でそこから出して欲しいと懇願するように、ぐしゃぐしゃの表情で戌亥は、窓を叩き続ける。


 ――刹那、光。そして、空気。

 開け放たれた窓から黒煙が逃げ出し、やってきた酸素が肺に染みる。咳き込みながら掠める戌亥の手は、誰かに受け止められ、そのまま身体を引きずり出された。


 誰かの声がした。遠くに、遠くに。

 戌亥はそれを覚えていない。そのまま気を失って、次に目覚めた時は病院のベッドだった。




 ――洛陽アニメーション放火事件。

 巷にその事件は、そう呼ばれた。


 午前十時。放送局への取材対応の為、開け放たれていたエントランスから被疑者が侵入。怒鳴り散らしながらガソリンを撒き、ライターで着火。炎は数分で燃え広がり、スタジオは全焼。70人いたスタッフのうち、半数が死亡した。


 ――半数が死亡した。

 誰が? 誰が。俺以外の、誰かが。――師匠は、あいつは? あいつらは。俺は何をした。何か出来たのか。何もしなかった。逃げた。逃げて逃げて、自分だけ、助かった。


 戌亥は呆然とした。目を見開いて、正面を見据え、しばらくして顔を押さえ、突っ伏して、呻いた。上半身しか動かなかった。化繊のジャージが溶けて貼り付いた下半身は、包帯に巻かれたまま、ベッドの上から微動だにしなかった。


 


 ――数日後。

 戌亥は同僚の死を知った。大学からずっと一緒だった、腐れ縁だった。――伊佐美里奈。そいつは才能があった。戌亥より遥かにずっと。


 伊佐美は、呼吸するように絵を描いた。まるではじめから頭の中に、全ての映像が出来ているように。見たことがないものも、知らないものも「え、私、それずっと知ってますけど」といった風に、まるでそつなくこの世に生んだ。


 対する戌亥は、触れるまでは描けなかった。銃も、人も、実際に見て触れて、自分の中に落とし込んでからでなければ、紙の上に生めなかった。だから銃を撃つ為に海外にも行ったし、格闘シーンがあるとなれば、実際に自分で習いにいった。女の裸が描けないと零した戌亥の前で、仕方ないなあと笑いながら服を脱いだ伊佐美の姿が、鮮明に脳裏に過る。透き通った、雪のように白い肌だった……あいつは。


 そんな、あいつが。俺よりも遥かに才能のあるあいつが、なぜ、なぜ、死ななければならないのか。そして才能の劣る俺が、なぜ生き長らえているのか。あの時、俺は、もしかしたら、あいつを、助ける事ができたんじゃないのか。なのに俺の頭には、あいつの事なんかこれっぽっちも過ぎらなかった。自分の事しか考えず、逃げて逃げて、そして――。




 ――ユルセナイ。

 自分が、犯人が。


 犯人は無職。悪質な書き込みを繰り返し、周囲ともトラブルが絶えなかったという。ハハハ、そんな人間に、あいつが。師匠が、みんなが。――ああ、伊佐美。


 そんなものが、塵が、社会のウジ虫が。努力して、才能もあって、何かを生み出す誰かの命を、くだらない思想で、私怨で、逆恨みで、奪い去っていい訳がない。間違っている。過ちだ。それを社会が許すなら、この社会そのものが間違っている。


 


 ――半年後。

 戌亥は洛陽アニメーションを退職した。絵描きの腕は、数日描かなければ、勘を取り戻すのに一ヶ月かかる。元から火傷で爛れた手前、リハビリに時間を要するのは自明であったが、それ以前に、戌亥はもう描けなかった。

 

 爆破のシーンで吐き気を催し、人が死ぬ場面に嫌気が差した。何気ない日常の風景に伊佐美の姿を重ね、その度に戌亥の手は、なぜ今まで描けていたのだろうと戸惑うほどに、止まり、動かず、頬に一筋の涙が流れた。


 カウンセリングで、犯罪者を未然に隔離する為の組織ができたと聞いた。そこに行こうと戌亥は思った。面接を受けた。初老の老人が対応してくれた。元は牧師だったという。見た目よりも遥かに若かった。――事情を聞いて、納得した。そして戌亥は、会社を辞め、MISCOに移った。


 元から鍛えていた身体は、MISCOで勤め上げるに十分だった。殺し方を学び、実際にそれを行使しながら、戌亥は今日もディスプレイを見つめている。


「――ビンゴだ。大田慎吾。俺が狩ってやる。お前が齎す惨劇の全てを」


 戌亥龍一。かつてアニメーターとしてペンを握っていた彼は、今はネットを監視し、悪質な書き込みを為す誰かを追う、MISCO職員として剣を振るっていた。

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