練馬区実子殺害事件
熊谷英雄
その日、二人は練馬区に向かっていた。政府筋関係者からの直接の依頼とあって、行動は迅速に、何よりも優先的に執り行われた。
「息子を処分しようと思う」
元防衛省事務次官、
「つい最近、息子が『運動会の音がうるさい』と漏らしましてね」
二人が家に赴いた時、疲れ切った表情で熊谷は呟いた。齢の八十に迫ろうかという老翁の姿からは、在りし日の事務方トップの威容を思い出すのは難しい。
「嫌な事件が……頭をよぎりましてね。はは……私もいつまで生きていられるか分からない身だ。もし、愚息が、ああいう形で社会に刃を向けたらと思うとね」
熊谷の自宅は、練馬区と板橋区の境目に位置する、緑豊かなエリアの一角にあった。二世帯は余裕で入るであろう広い邸宅は、一般人が住まうには些かに豪華で、されど政治の頂点に上り詰めた人物が住まうには、慎ましやかで質素と言えた。
「状況については調べさせて頂きました。本来であれば調査を重ねる所ではありますが、事態が事態という事で、特別に」
その邸宅のリビングに、小糠草は招かれていた。話の内容が複雑である為、村瀬は車で待機。熊谷の妻は外出中で、いまこの家には、熊谷英雄と小糠草、それから二階でオンラインゲームに興じる、氏の息子の三人以外にいない。
「そう仰って頂けると助かります。はは……かつての知古が、こういう形で益するとは。まあそれ以外に残せるものもない人生でしたから、何も胸は張れませんが」
自嘲気味に笑う熊谷のリビングには、多くの賞状、謝辞、勲章が飾られている。これほどまでに社会で功績を残した人物ですら、たった一つの家族に頭を悩ませるとは、人生はなんと難しいものであるか。
「処分は今夜という事でよろしいでしょうか? であれば早速準備にかかりますが」
「いや……君たちの手は煩わせない。君たちはただ、アレが逃げ出さぬよう見張っていてくれればいい。家の不始末は、家長たる私の命で以て、片を付ける」
刹那、熊谷は悲痛な面持ちで答える。小糠草は応じる。――それも規約違反にはなりますが、と。
「なら逮捕でもなんでも、してくれればいい。あんなものでも私の子だ。私は私の、罪までも誰かに託すつもりはない。命を取るからには、責任も取る」
「わかりました。そこまでのご覚悟がおありなのでしたら、私に止める手立てはありません。駆けつけた時点で、既に全ては終わっていたと……そういう筋書きで処理しましょう」
「ご配慮、痛み入ります。ではそのように。アレは今頃、PCゲームに気を取られている筈です。私は一切の躊躇なく刃を振り下ろします。これでも剣道の有段者ですが……万が一の事があれば、介錯を。そして妻には、すまなかったと」
淋しげに笑う熊谷は席を立つ。選んだ武器は包丁。日本刀もあるにはあったが、室内では取り回しが難しい点と、刀剣そのものへの不評が及ぶことを恐れての判断だった。
「ご武運を」
「これが最後の汚れ仕事です。では」
一礼し、リビングを出る熊谷。後にはドアが閉まる音と、それから階段の軋む音が僅かに響いた。
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