小糠草勉
「本日12時、岩手県
「犯人は50代男性。刃物を持ち凶行に及んだ模様」
「成人女性一名が児童を庇い負傷。ほか数名の被害報告あり」
「午後の礼拝を狙った犯行。現在岩手県警は教会を取り囲み――」
――頼む、頼む、無事でいてくれ。
そう急きながら故郷への道をひた走る。
2014年6月。昼過ぎに福島の相馬を発った小糠草は、脇目も振らず車を飛ばしていた。自身が牧師を務めるサンアレン教会が、何者かの襲撃を受けたとの一報を受けたからだ。
このとき小糠草は、教会の資金稼ぎの為に福島の復興作業に従事していた。サンアレン教会の歴史は百年余りだが、創始者が死去した今、資金繰りは順調とは言えない。岩手県でも際立って経済基盤の弱い久慈市は、東日本大震災の後さらに困窮。信者に支援を求められないとなると、牧師とて肉体労働に従事せぬ訳にはいかなかった。
「たった今、警官隊が突入しました!」
「犯人は自らの首を切り重症の模様」
「病院に搬送されたシスターの死亡が確認されました」
「これで死者数は十名に上り……岩手県史上類を見ない惨劇と……」
「被疑者の男性は震災後失職、アルコールと薬物の中毒に陥り……」
だが小糠草が教会に着いた時、全ては既に終わっていた。午後の礼拝に集まった児童十一人とシスターが一人、うち一人を除く全員が死亡。犯人もその場で自殺を図り、懸命の救助も虚しく命を落とした。
小糠草は、未だかつてこれほどまでに神に祈った事はなかった。祈り祈り祈り尽くして、凶相が滲む程に祈った結果がこのざまだった。失職や薄給、それに伴う精神病やアルコール中毒――、からの……自殺。岩手県でもワーストの自死率を誇る久慈市では、だから問題のある家庭に生まれる子供も少なくはなかった。
そんな子どもたちを集め、ようやっと笑顔が戻り始めた矢先の悲劇。あれほどまでに無垢に神に祈りを捧げた子供たちの、一体何が気に食わなくて神は命を奪ったのか。
小糠草に怒りはなかった。あるのはただただ、例えようもなく深い絶望だけだった。誰も彼も身寄りはなかった。だから葬儀は、小糠草一人で行った。――神は死んだ。いいや、小糠草の中の信仰が死に絶えた。
「白昼堂々の惨劇はなぜ起きたのか……専門家の◯◯氏にご意見を……」
「被疑者はここ最近奇行が目立っていたようです。誰かが手を差し伸べていれば……」
「東日本大震災以降の、政府の対応に問題があるのでは……」
「久慈市――、引いては岩手県全体の福祉ネットワークの充実が……」
小糠草は無表情に空を仰いだ。復興作業の休憩時間も悩める人々からの電話を受け続けた彼は、その結果もたらされたこの事実を受け入れる事はできなかった。宗派の垣根を払い、地域全体で取り組んだ自殺防止運動。棄てられた子供たちの保護、電話相談。自らの身を投げ売った果てがこの有様なら、世界はなんと残酷なことか。
久慈市と言えば、柔道の神と崇められる、故三船久蔵十段の故郷でもある。幼い頃から柔道に慣れ親しんだ小糠草は、学生時代に国体選手に選ばれる程度には、武術に精通していた。――もし自分が、福島に発たず教会に残っていたのなら、犯罪を未然に防げたのではないか。その悔恨は否が応でも滲み出てしまう。
小糠草は、気がつけば病院まで足を運んでいた。そこには子どもたちのうち、たった一人だけ生き残った少女が、病床に臥せっていたからだ。
「大丈夫ですか? 村瀬くん」
少女は応えなかった。正確には、事件のショックで昏睡状態に陥っていた。たった一人だけ生き延びてしまった自責の念から幼児退行を引き起こすのではと、医者からは言われていた。
「ゆっくりおやすみなさい。また明日も来ますよ。――どうか息災に」
いつもなら聖書を読み聞かせる所だった。無意識に胸元から取り出した擦り切れた聖書に気づいた小糠草は、悲壮な面持ちでそれをゴミ箱に放ると、俯いて病室を出た。それまで信じてきたもの全てが無力に感じた。生を讃える賛歌も、ハッピーエンドを謳う物語も、何もかもが嘘に思えた。帰る途中、道端で嘔吐した。電話が鳴った。電源を切った。いったい何が、いけなかったのか。分からないまま、家についた。
それから小糠草は、聖職を辞した。衆生の一切を救えぬのなら、たった一人の誰かだけでも守ろうと、退院した村瀬玲海を引き取って育てた。小糠草に妻はいなかった。――あの日刺されて死んだシスターが、彼の伴侶だった。
村瀬玲海が回復する頃、小糠草は県警の知古からMISCO創設の一報を伝え聞いた。天職、と理解した。前科もなく武道に通じた小糠草は、異例の抜擢で職員に採用された。
事件から6年が過ぎ、そうして小糠草はここにいた。かつて黒かった髪は半分以上が白髪に染まり、四十代であるにも関わらず、老人に見られる事も少なくはない昨今。鍛え上げられた肉体だけは壮健であった。シャワーを浴びた村瀬が下着姿で居眠りを始めた頃、その肢体を抱えあげると、小糠草は寝室まで彼女を運んだ。今年で二十三歳になる村瀬は、小糠草とは対照的に幼かった。精神年齢が退行したあの日の少女は、未だに少女のまま小糠草の背中をついてきていた。
小糠草は窓を開けて空を仰ぐ。いつもどおり、無表情に。――神は誰も救わなかった。私も誰も救えなかった。だが今日断った命で、未来の誰かが死なずに済んだろうか。そんな事を不意に思う。そうであったらいい、そうでなければならない。でなければ、今この景色を見ることのできない、6月の子どもたちに顔合わせができない……どうか、然るべき者たちに祝福が訪れますように。
祈り。最後にたどり着く不毛に自嘲気味に笑みを零したあと、小糠草は静かに立って寝室へ向かった。――
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