村瀬玲海
「◯◯ちゃーん! シスター!」
その日、
遠くからサイレンが聞こえる。拡声器で誰かが叫んでいる。何かあったのかと不安になり知古の名を呼ぶも、答える者は一人としていない。渡り廊下に赤い染みが付いている。――それが血だと気づくには、村瀬が屈んで、実際に手で触れるまで数秒の時間を要した。
何があったのか? 正確には、静まり返っていたのではない。……たぶん大きな音が聞こえる。ただ心臓がバクバクと、何よりも強く響いているせいで、全てがどこか他人事の、別世界の出来事のように感じられただけだ。だが当時の村瀬は、そんな委細など知る由もない。ふらふらと廊下を渡り、半分開いたドアを開けて、皆がいる筈の礼拝堂に足を踏み入れる。
「シス……ター?」
最初に倒れていたのはシスターだった。首元から血を流し、何かを守るように突っ伏している。赤い服だと思ったのは、血だった。べっとりとした血糊だった。村瀬は歩くのをやめた。いや、足がすくんで、動きようがなかった。
異臭がする。鉄棒を握った後の手のような――、にも関わらず体中にまとわりつくような、熱を伴った嫌な臭い。それは礼拝堂全体に充満していて……赤。色で言えば赤そのものだった。村瀬は自らを包む赤い空間を、行き先も分からずにうろついた。それは歩くという行為ではなかった。糸によって操られる、出来損ないの
幾つもの塊が転がっていた。それらは友人の顔と、形をしていた。だけれど皆が皆、目を見開いたまま微動だにしない。よくできた人形のようだった。赤い水たまりがあちこちにあって、村瀬はついに足を取られて、その場に転んだ。
知らない男がいた。それもまた、動かなかった。無精髭、痩せこけた頬。白髪交じりの頭。村瀬は目を閉じた。夢ならば醒めると思った。いいや醒めて欲しい。こんな夢はもう沢山だ。先生、パパ。ママ、どうか、ボクを、この悪夢から。――村瀬の意識はそこで途絶えた。
小鳥の囀りが聞こえる。村瀬は汗ばんだ身体を起こすと、辺りを見回す。そこは病室のベッドでもなければ、あの夏の日の礼拝堂でもない。小糠草と一緒に暮らす、いつも通りアパートだった。
村瀬はかぶりを振る。嫌な夢を見た後は、その事を忘れるように努力しなければならない。窓際に行って窓を開け、早朝の空気を思い切り吸う。小糠草が村瀬の為にと選んでくれた川沿いの住居は緑に包まれていて、この環境を村瀬はそれなりに気に入っていた。
小糠草の側に行く。随分と老けてしまった小糠草の頬には、塩の乾いた跡があった。泣いていたのだと村瀬は思った。小糠草が、自分の敬愛する相手が、弱音を吐いてくれないのは辛かった。だけれどそんな強さが自分にない事も、村瀬は理解していた。
朝食を作ろうとキッチンへ行く。――カナへ。と書かれた手紙がある。村瀬玲海は、日常を「カナ」として過ごしていた。村瀬玲海は、村瀬玲海という名前が嫌いだった。なぜならそれは、あの日を思い出してしまう単語だからだ。友人を棄てて生き延びた、忌まわしい少女の名だからだ。
村瀬玲海は、級友から蝉と呼ばれていた。よく泣いていたから。すぐに小糠草にしがみつく様が、蝉のようだったから。村瀬の「瀬」と玲海の「海」をくっつけて蝉と呼ばれた。玲海は嫌だ、だったら蝉のほうがいい。昔は蝉と呼ばれるのが嫌だったけど、人ですらない自分なら、蝉のほうがまだマシだ。一夏で泣きつかれて、そのまま土に還りたかった。――するとカナという名が与えられた。小糠草が、そう名付けた。ひぐらしならいいかと、村瀬はそれを、受け入れた。
小糠草が用意していた食材を、村瀬が調理する。サラダ菜を洗う。納豆を出す、卵を添える。インスタントの味噌汁を入れる。包丁は怖くて使えなかった。赤いトマトも、苦手だった。やがて小糠草が起きてきて、おはようと言いながら席につく。おはようと返して、村瀬も席につく。テレビもつけない。ラジオもつけない。静かな時間が、そこに流れる。
小糠草はしゃべらない。村瀬もまた、しゃべらない。黙々と食事を放る。おいしかったですよ、ごちそうさま、と小糠草が席を立って、ありがとう、先生。と答えながら、村瀬も席を立つ。
そうして村瀬がキッチンで洗い物をしていると、小糠草が暖簾を分けて顔を出し、告げるのだった。
「カナ、仕事ですよ」
「はい、先生」
機関の青い制服に袖を通し、化粧はしないが寝癖だけは整えて、鏡の前で敬礼し家を出る。小糠草と村瀬の一日は、こうして始まる。
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