熊谷英詞

 自分は犬では無いと、証したかった。


 父親に反旗を翻し、自分の意志で決別して生きようと、確かにかつてはそう誓っていたのだ。ディスプレイの中で動く自らのアバターを、光の無い瞳で見つめながら、熊谷英詞は思う。


 テレビを点ければ、親父がいる。記者に囲まれフラッシュを焚かれる父親の姿は、幼い英詞にとっては、雲の上の、どこか遠い存在のように思えた。激務からたまにしか家に帰れない父親ではあったが、それは英雄の凱旋のように、英詞には誇らしいものだった。


 自分はあの親父の息子なのだ。それに見合う、しっかりとした大人になるのだ。父親の背中に自らを投影し、追いかけた英詞ではあったが――、その試みは早々に頓挫する。


 小学校でいじめに遭い、引きこもりに。仕事に追われる父は、英詞の処遇を母親に任せると、すぐに家を空け永田町に消えた。順風満帆、努力すれば報われると信じ切っている両親には、英詞のドロップアウトを理解できないといった風にかぶりを振る。やがて自身が、家の中の腫れ物のように扱われる事に、英詞は気づいた。


 望む者になれない怒り。向けられる憐憫の目。自身が居る事で凍る空気。何もかもが英詞には不愉快で、それが暴力に変わるまでそう時間はかからなかった。


 父はますます仕事に逃げるようになった。母はますます笑顔を失った。こうして世間には規範そのものと思われる家庭に、自分という汚点だけが刻まれる事実は、英詞を一層に追い込んだ。


 専門学校に入る。駄目。中退する、駄目。親の金で家を借りる、駄目。仕事に就く、駄目。何もかもが駄目で、全ての現実に敗退を喫した頃、英詞はオンラインゲームという、今興じているそれに出会う。


 リアルを覆う、電子の海という仮面。親の金という潤沢な資産と、無職という十分な時間を有する英詞が、オンラインゲームの世界で頭角を現すのに、そう時間はかからなかった。


 月額数十万の課金と、寸暇を惜しむひたすらのプレイ。気がつけば英詞は、そのゲームの中で勇者と呼ばれる存在にまで、上り詰めていた。


 Twitterを始める。親という虎の威を借りる。増長する虚栄心はとどまる事を知らず、英詞の発言はどんどんと過激なものになっていった。


 俺の親父は凄いのだ。お前らなど一喝で消し飛ばせるのだ。俺は資産家で、お前らとは違うのだ。断じてニートではない。何もない人生ではない。間違っても、断じて、断じて。


 止まるのが怖かった。もしこの世界で止まってしまえば、無価値だった頃の自分に戻ってしまう。勇者でいたかった。物語の中心にいたかった。主人公になりたかった。父さんに褒められたかった。俺は、俺は。


 だけれどそんな時間は長くは続かない。最初は家賃が払えなくなり、実家に戻った。すっかり衰えた父親に一層の罪悪感を感じながらも、それを認める事も、自らの足で歩く事もできない英詞は、相変わらず横柄な態度を取り続ける。


 怒声、暴力、発露する幼稚な感情。老いた両親の怯える姿を目に焼き付けた孤独な王は、部屋に戻るとあまりの惨めさに崩れ落ちる。そしてそれを振り切るかのように、またPCの前に腰を据える。


 親がうるさい。

 ネットがうるさい。

 子どもたちがうるさい。

 いいや、生きとし生けるもの全てが鬱陶しい。

 

 つい最近、遠い田舎でニートによる殺傷事件が起きた。――無敵の人。世間はそう呼ぶ人生の落語者が、最後の最後に道連れを求めて犯す犯行だ。ああ、我が身の事かと顧みて、いや、そんな事はありえないと英詞は首を振る。


 親父の身にまとう空気が変わった。気のせいかも知れない。でも、自分はもう厄介ものなのだ。この世界にとっても、家にとっても、誰にとっても。そろそろ終わってしまうのかも知れない。でもそうであったとしても自分にはどうする事もできない。


 不安をかき消すようにゲームに興じる。弱い自分を偽るように、Twitterで虚勢を張る。俺の親父はすごいんだ。お前らとは違うんだ。だから、だから。


 ――だから何だっていうのか。凄いのはいつも親父で。俺ではない。俺なんかではなくて、親父がただ凄いだけなのだ。俺はそれを目指して、目指して、目指して――。


 ――何者にもなれなかった、ただの塵だ。


 英詞がそう思った時、不意に脇腹に熱を感じた。


 振り向いた。親父がいる。血走った眼の父が、熊谷英詞が、こちらをむき出しの殺意で睨んでいる。


 目を落とす。赤い染みが広がっている。血だ。その先に――、包丁だ。


「あ……あ……」


 かすれた声が漏れ出る。そうかついにこの時が来たのか。英詞には不思議と、恐れはなかった。


「すまなかったな、英詞」


 ぼそりと呟く実父が、グサリ、グサリと包丁を突き立てている。……遅いじゃないか親父。もっと早くそうしてくれていれば。俺も、あんたも、何も苦しむ事はなかったんだ。


 英詞は何も抵抗しなかった。それは多分、苛立ちながら待ちわびた、最後の願いの結実だったからだ。失敗作は処分されなければならない。失敗作を産んだからには、その責任は、産んだものが負わねばならない。


 いうなれば、死刑囚が死刑執行されないが為に抱いた怨嗟。自身という存在の、罪の肩代わり。英詞はそれを願っていた。願いが叶ったのだから、それを粛々と受けとめるのが、彼にできる最後の術だ。


 ――すまない、すまない。


 そう言いながら包丁を振り下ろす、もうくたびれてしまった父親の姿が、視界に次第に霞んできて、英詞は不意につらくなかった。


「……とう……さん……」


 本当は、あなたのようになりたかった。なれなくてごめんなさい。期待に応えられなくて、何者にもなれなくて。尊敬していたのに、誇らしかったのに、僕がたった一つ、あなたの経歴に汚点を作ってしまった。


 溢れ出る何かが、血なのか、涙なのか分からないまま、英詞は事切れる間際に、たった一つの事を思った。


 ――来世がもしあるのなら、次はどうか、祝福される命を産んでくれ。たとえばそう、このゲームの、勇者のように。誰からも求められ、物語の中心に立てる誰かを。


 ああ、きっとあんたならできるだろう。だってアンタは、あなたは、俺の。


「……だったんだから」


 熊谷英詞。実父、熊谷英雄に刺され死亡。享年四十四歳。

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