+3kg ふわっふわ焼きたて食パン
「あと10分後で、焼き上がりでーす♪」
自分でも驚くような黄色い声を出して、俺は看板商品「生食パン」の焼き上がり時間を告げた。
ここはバイト先。駅前のパン屋だ。
そこの焼き場で俺はワーキングナウである。
就活で忙しいが、食費はかかる。食費がかかる理由はあえて言及しないが、そのため、そこそこシフトに入って、熱心に働いているのだ。
ウチのパン屋は食パンがウリで、わざわざ焼き上がりまでお客さんが待ってくれたりする。
事実、ウチの食パンは、めちゃめちゃうまい。
もちもちでいて、かつふわっふわ。噛むたび小麦の香りが鼻から抜け、舌に残るのは小麦本来の甘さとミルクと卵とバターのコク。あの味を知ってしまったら買わずにいられないだろう。
オーブンの前で食パンの焼き上がりを待っていた。小麦の香りが立ち込めて、腹が鳴る。ふっくらと焼けた食パンの頭が見える。
はぁわわ〜。
いい匂い〜♡
まじでうまそう。
腹へったぁぁぁぁぁ。
「水上くん? 食べちゃだめだよ」
俺の肩をポンと叩いて、ふふふ、と笑ったのは店長の
はっきりと歳を聞いたことはないけど、たぶん20代後半。すらっとしたオトナ女性って感じ。仕事中だから長い髪をまとめているが、髪をおろすとこれまたエロい。
優しくていい人なんだけど、名字で呼ばれるのが好きじゃないらしく、名前呼びを強要してくるところはちょっと厄介だったりする。
「食べませんよ〜」
「ホントかな〜。よだれ出てたけど」
「え、よだ……」
口元を拭うと、今度は「あっはは」としのぶさんは声を出して笑う。
やめてくださいよ、と苦笑いすると、そういえば、としのぶさんは俺の体をまじまじと見た。
そして、こんなことをおっしゃった。
「水上くん、最近、太ったよね?」
……うそん。
「まさか〜。全人類が痩せて、俺が相対的に太って見えるってだけですよ」
「なにそれ、あはは、そんなの聞いたことない」
「聞いたことないです? 相対性デブ理論」
"俺が太ったんじゃねえ、みなが痩せたんだ"
キメ台詞風に言うと、爆笑してバシバシ叩いてくるしのぶさん。いちいちボディタッチがエロく感じるのは俺が煩悩まみれってことだろうか。
「ほらほら、叩いたらお肉が跳ね返してくるじゃない。肉付きよくなったねえ!」
「ちょっと摘まないでくださいよ! 背中の肉掴むの禁止!」
しのぶさんは俺をペシペシ叩いた挙げ句、肉を掴んでぎゅっと握ってくる。なぜか肉を掴んで恍惚な表情をされていらっしゃるのだが、もしかすると俺の願望がそう見させているだけかもしれない。つまり俺は常日頃から年上女性からつねられたいと思っていることになる。否定はしない。
「え、え? なんすかなんすか。なんでうれしそうなんすか」
「い、いや、なんかね///」
ねっとりと見上げてくるしのぶさんはエロス満載で、ぶっちゃけ目つきがエロくて、毎日パン生地を捏ねる手つきがなんかエロいなーなんて考えていた俺からすると、精神が
え。え。俺、もてあそばれてる?
お肉掴まれて、遊ばれちゃってる?
けどなんだろう。少しうれしい……。
年上女性にお肉掴まれてアヘアヘしていると、オーブンのタイマーからピピピと音がした。
その瞬間、しのぶさんはにやけてた唇をきつく結び、「じゃあ、店頭に並べて」と颯爽と指示して焼き場に背を向けた。
……かっけえ。
◆◆◆
今日分ラストの食パンのタネをオーブンに入れ、オーブンを点火した。中の火をボーと見つめ、就活のことを考えていた。
やっぱり痩せないとだめだろうか。
そんなに太っていると、だらしなく見えるだろうか。
しのぶさんにも太ったって言われたし、この前の面接でも、面接官半笑いだったし。
本格的に痩せてみようかな。
だけど。
なんだろう。
もっと、根本的に、何か足りないんじゃないかって思っていたりもする。
「……くん!」
「水上くん!」
しのぶさんの声がして、ハッと我に返った。
焼き上がりを示すアラームが、けたたましく鳴っていた。
「早くオーブンから取り出して!」
「すみません!」
気がつけば、かなりアラームを無視していたようで、オーブンに入れていたパンも焦げかけている。
急いで取り出すと、鉄板のふちに腕が当たって、盛大にやけどを負った。
「あっつ!」
「大丈夫!? 急いで冷やして!」
「すみません!」
そんなこんなで焼き場は大混乱。
やけどの処置を終え、焼きあがったパンに対峙した。
目の前には頭の焦げた食パンが並んでいる。
当然、売り物にならない。
「すみません。このパン全部、俺が買い取ります」
そう言うと、しのぶさんは快活に笑って、焦げた部分をパン切り包丁でカットし始めた。
「ほら、もう廃棄にするから、焦げた部分取っちゃって、食べちゃってよ」
「けど……自分のミスで……申し訳ないです」
「外も雨だし、もうお客さん来ないって。好きなだけ食べちゃって」
けど、次から気をつけてよね。
やけどとかやっぱり危ないし。
そんな優しい言葉をかけてくれた。
「しのぶさん……」
うつむくと、しのぶさんは食パンをふたつに割って、もはぁぁ〜と湯気が立ち上る食パンを「ほら」と渡してきた。
なんだろう。このごろ面接とかで気を張っていたからだろうか。やばい……泣きそうだ。
「いただきます」
しめった声が出た。しのぶさんはなにも言わないでいてくれた。微笑むだけ。そういうところが大人だなと思わせられる。
食パンを受け取って、はむっとそのままかぶりついた。
もちもち食パンの小麦の香りが……と気づいた瞬間、驚くべきことが起きた。
……食パンが、消えていたのだ。
え。え。俺氏、軽く混乱。
俺が混乱していると、「……しゅごい」としのぶさんはぼそりと言った。
よくわからない反応に、「どうしたんですか?」と聞くと、「いやいや。なんでもないよ。それよりいい食べっぷりだね〜。もうひとついかが?」としのぶさんは誤魔化すように、もう半分の食パンを渡してきた。
「ありがとうございます」
そして、また、食パンに、はむっとかぶりつく。
はむっと噛んで、もちもち食感に「ん~!」と舌鼓を打っていると……またもや驚くべきことが起きた。
……食パンが、消えていたのだ。
もうなにがなにやらわからない。
なにが……起きたんだ。
自分の手のひらには、パンくずが残っているだけで、いくら目を見張っても、さっきまであった塊のような食パンがない。恐る恐るしのぶさんに目を向けると、しのぶさんは、スマホ片手に「ハァハァ」と息を荒くしていらっしゃった。
「しのぶさん……食べました?」
俺氏、パンの
しのぶさんは自分のスマホを手渡してくれて、一部始終を収めたムービーを見せてくれた。
そこには、食パンをひとくち頬張る俺氏。
俺がもぐもぐと咀嚼して、次のひとくちにいくときだった。
まるで綿菓子でも口に収めるかのごとく、食パンが口の中に吸い込まれていった。
ごきゅごきゅ、ごくん、と俺は食パンを平らげ、からになった手のひらを見て呆然としていた。
「まさか……俺が食ったんすか?」
しのぶさんを見ると、しのぶさんはコクンコクンと頷いた。
……まじかよ。
事実が受け入れられないでいる。
とりあえず、ありがとうございました、としのぶさんにスマホを返そうとして、返す前に勝手に撮ったムービーは消去しようとした。すると、
「ちょっと待ったぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
と、しのぶさんはまるで万力で締め上げるような握力で俺の親指を握った。
「消さなくていい。消さなくていいからね?」
目が血走っていらっしゃるしのぶさん。こんなしのぶさんを見るのは初めてだ。
「あとで使うから、あとで使うから」
「なにに使うんですか!」
「いろいろ使うんだよ! そう、いろいろ使うから!」
「俺がむさぼり食う映像をですか!」
俺からスマホを取り戻したしのぶさんは、スマホを抱え、「ガルルガルル」と母ライオンがわが子を守るような声を出す。そして、
……まじかよ。本気すぎるだろ。
そしてニコッと笑ったしのぶさんは、まるで「これ以上ムービーの件は触れてくんな」って感じの"圧"を出してきて、
「それにしても、いい食べっぷりだったよぉ。一斤まるごとっておなかいっぱいでしょ」
「ま、まあ、けど、食パンって食った気がしないっすよね。ほぼ空気なんですかね。まだ全然食えます」
そう言うと、
「うぅっしゃぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」
と、しのぶさんはまるで世界大会で勝利したかのごとくガッツポーズを天高く掲げた。
そしてカバンからなにやら小瓶を取り出して、テーブルに並べる。
「これね……ハァハァ……私がね……ハァ……手作りしてきた、ジャムなんだけど」
なぜか息の荒いしのぶさんは、血走った目をして、俺に「食べて食べて、さあ食べて」と瓶の中のジャムを人差し指で掬って、迫ってくる。
想像できるだろうか。いつもクールな大人女性が、粘度の高い液体を指につけて息を荒くする姿を。エロさ通り越して変態だぞ。
で、では、と、食パンを半分に割り、ふわっふわの白いパンに濃い藍色ジャムを塗って、はむっと頬張った。
ひとくち頬張った瞬間、パン本来の小麦の香りに合わさってベリーのいい香りがぶわっと鼻から抜けた。ベリーの酸味と絶妙な甘みが口いっぱいに広がって、「うめえ……」ってつぶやいていた。絶品のブルーベリージャムだ。嫌な甘ったるさはなく、いくら塗りたくってもすっきりとおいしく食べられる。
しのぶさんがハァハァしている横で、もう半分のパンを手に取って、別のジャムも試してみる。
「いちごもうまいっすね!」
「これ、梅ジャムですか!」
「マーマレードうまぁ」
しのぶさんが作ったというジャムはどれも絶品で、市販品よりもめちゃくちゃ美味しい。甘くなく、素材の香りが強い。
もともとパン自体も絶品で、さっき一斤食べたはずなのに、余裕でもう一斤完食した。
すると、しのぶさんがアヘアヘした顔で小刻みに震えて、
「ねえねえ、水上くんはもっと食べれるよね? ね?」
「いや、さすがにおなかいっぱいですよ。今日どんだけ食ったと思っているんですか」
そう言うと、しのぶさんは目を見開いて、俺に迫ってきた!
「おまえは今まで食ったパンの枚数をおぼえているのかぁああああ!」
「えええええええええええええええ!」
「だめだよ水上くんはもっと太った方がいいっていうかこれまでが痩せすぎだったんだよ! いーじゃん食べちゃおうよお姉さんがたくさん食べさせてあげるっていうか、そうだ今日うちにおいでよ、たくさん食べさせてあげるからね? ね? ね! お姉さんといいことしよう」
瞳が完全に
「ま、まさかと思いますがしのぶさん。あなたも!」
貴 様 も
「でぶせんとかじゃなくって、男の子がたくさん食べるのが好きって言うか
「
「ほ、ほらッ! もっと食べれるでしょ食べて食べて!」
「ちょ、そんなに興奮しないでくださいよ! あ、お客さん来ましたよ! レジ! レジに行ってください!」
「すみませーん! 本日もう終わってしまいましたー!」
「帰した!? 帰しちゃまずいでしょ!」
「ほ、ほら、ハァハァ、これを挟んだらたまごサンドになってね」
しのぶさんは店の冷蔵庫から、たまごサンド用のマッシュエッグを取り出して、分厚く切ったパンに挟んでたまごサンドを作っていく。
「ほら、ハァハァ、食べて食べて!」
どーん! と目の前に鎮座するは、辞書みたいに分厚いサンドイッチがふた切れ。マッシュされたたまごがあふれんばかりに詰め込まれている。
あれ。おかしいな。
あれれ。おかしいぞ。
なんか既視感あるこれは、
しかし、恐れるなかれ、俺は常日頃から美帆から
「ふはは! しのぶさん無駄ですよ! 俺がどれだけメシに抗っているか知らないでしょう! すでに腹八分まで食ってしまった俺にとって、そのサンドイッチは蛇足! 耐え忍ぶことは容易なんです!」
「甘いカフェオーレもあるんだお♡」
「それ絶対うまい組み合わせぇえええええええええええええええええええええええ!!」
サンドイッチにはミルクとコーヒー半分半分のあっま〜いカフェオーレは必須! 口の中をしょっぱくしたら、カフェオーレの甘さを堪能。口の中をあっま〜くしたら、次はサンドイッチでしょっぱくって、しょっぱい→甘い→しょっぱい→甘い→しょっぱい→甘い→しょっぱい→甘い→の永久機関!
世界に永久機関が存在するとすれば、それはサンドイッチとカフェオーレの組み合わせ!
くっ……思った以上だ。
しのぶさん……あなたはこれで何人の男を毒牙にかけてきたんだ。
耐えろ……耐えろ……俺。
「だがまだぬるいッ! サンドイッチにはあま〜いカフェオーレかもしれないが、すでに俺は食パンを2斤も食ってるんだ! 人間には必ず"飽き"がくる! 現に俺はもう1週間分の食パンを食べた気分だ!」
「そう思ってね♡ 表面を軽く焼いてみたお♡」
「表面カリッと中もちもちぃいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!!」
表面がサクッと小気味よい音を奏で、それでいて中はもちっもち。これはこれでサクッ→もち→サクッ→もち→の永久機関なのだが、表面を焼くことでもうひとつ重大な効果を発揮する。
パンの香りは白くてもちもちした中身からではなく、あのブラウンに焼けた部分から
……焼きたて食パンをオーブンで表面を加熱……だとッ!
それは鼻の奥からエクスタシーを感じるレベルでいい匂いがするにきまってるじゃないか!
いい匂いがする。いい匂いがする。いい匂いがする。いい匂いがする。いい匂いがする。いい匂いがする。しのぶさんいい匂い。いい匂いがする。いい匂いがする。いい匂いがする。いい匂いがする。いい匂いがする。いい匂いがする。
俺が座禅を組んでたまごサンドの暴力に、精神の解脱をもって抗おうとしていたときだった。
「ほら、中から湯気がでてくるよ♡」
パンのいい匂いがして。
カフェオーレがおいしそうで。
……まあ、いいか。
明日から痩せれば。
「うまぁ――――(*⁰▿⁰*)――――い!」
がぶっと、サンドイッチにかぶりついたときだった。
一瞬でサンドイッチが消えていたのだ。
ハァハァ、と目が
「しのぶさん……食べました?」
=本日の摂取カロリー=
食パン2斤
1,972kcal
しのぶさんの手作りジャム
568kcal
たまごサンドイッチ(食パン1斤分)
1,501kcal
合計 4,041kcal(≒ラーメン二郎 小豚ダブル 2杯分のカロリー)
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