きみに会うための440円
野森ちえこ
あの子が気づくまえに
彼の家は喫茶店だ。
マスターは彼のお父さん。そして、お母さんの焼いた素朴でやさしい味のクッキーやケーキは、香り高いコーヒーとあわせてちょっとした名物になっている――のだけど、コーヒー1杯440円。高校生にはなかなか痛い価格設定である。チェーン店なら半分の値段で飲めるのに。1杯440円。おしゃれだってしたいし、遊びにだって行きたい。いくらお金があったって足りないくらいなのに。いちばん安いコーヒーでも1杯440円。高い。高いよ……!
コーヒーの味とか正直よくわかんないし、こだわりなんてまったくないんだけど。それでも放課後、お店を手伝う彼に会うために、あたしは『コーヒー好き』をよそおってお店に通うのである。せいぜい月に一、二回しか行けないけれど。クラスにいるときよりほんの少し近くで会える。それだけのために。
Tシャツとジーンズというそっけない普段着に黒いエプロンをつけただけなのに、なんでこうもかっこよく見えるんだろう。これが、惚れた欲目――というやつなのかな?
奥二重の涼しげな目もととか、すっきり通った鼻筋とか、コーヒーを淹れるときの繊細な手つきとか、その手がほっそり見えて意外とおおきいとか。なにもかもがかっこいい。
ちなみに、彼、彼といっているけど、彼氏の彼ではない。いつかそう呼べる日がきたらいいな……と夢想することはあるけれど、残念ながら現在の『彼』は彼氏ではなく、代名詞としての『彼』でしかない。
その『彼』
見守くんにとてもなついていて、見守くんもとてもかわいがっている。
「お姉さん、ノブちゃんの彼女?」
ある日、道端でばったり出会ったそのちっちゃな少女、
「ち、ちちちがうよ! た、た、ただのクラスメイト!」
あわてすぎだし、どもりすぎだ。しょうがないじゃない。いきなりすぎて心の準備もなにもなかったんだから。
「ふーん。でも好きなんだよね?」
「えっ、あっ、コーヒー」
「じゃないよ。ノブちゃんのこと」
いらだったようにあたしの言葉をさえぎった紗菜子ちゃんは、顎下で切りそろえられたつやつやの髪をかきあげた。……女の子は、生まれながらに『女』である。こんなにちっちゃくても。やっぱり『女』なのがすごい。
「……えーっとぉ」
おおきな目にじーっとみつめられて、なんだかドギマギしてしまう。目力すごいな、この子。
「ノブちゃん、そういうことにはニブチンだから。好きならストレートにいったほうがいいよ」
「えっ……」
「中学生のときもノブちゃん目当てでお店に通いつめてくる女の子がいたけど、ぜんぜん気づいてくれないって泣いてたもの」
「ええっ……」
……って、あれ?
「紗菜子ちゃんは、見守くんに恋人ができてもいいの?」
てっきり牽制されるものだと思っていたのに。まさか告白をすすめられるとは。
「うん。どうして?」
「いや、だって、紗菜子ちゃんだって好きなんでしょ? 見守くんのこと」
「ノブちゃんは『お兄ちゃん』だもん。よっぽど変な女じゃないかぎり邪魔なんかしないよ」
「そ、そうなんだ……」
そのわりには、にらまれているような気がするんだけども。気のせいかな。やっぱり目力すごいなこの子。
「じゃあね。がんばって」
最後にニコっと笑顔を見せて、紗菜子ちゃんはたったと走り去った。
うーん。なんだろう。紗菜子ちゃんは『女の子』として見守くんを好きなんだと思っていたし、今もそう思うのだけど。どうやら、紗菜子ちゃん自身はそのことに気づいていないっぽい。
……いつか紗菜子ちゃんが自覚したら、勝ち目ないよね、きっと。
今はまだ小学生で、見守くんだってかわいい妹程度にしか思っていないかもしれないけど、あと数年もたてば、女の子は化ける。『女の子』の顔から『女性』の顔になる。そうなったら、勝てる気がしない。
見守くんは紗菜子ちゃんをとても大切にしているし、紗菜子ちゃんは見守くん大好きだし。今だってあんなにかわいい。
……ごめんとはいうまい。あの子はまだ気づいてなくて。あたしは見守くんのことが好きで。そして、あたしにチャンスがあるとすれば、それはたぶん『今』だけだから。
お財布のなかを確認する。今月自由につかえるお金はあとワンコイン。いちばん安いコーヒーでも1杯440円。
来月になるまで数日苦しいけど。でも。行かないと、伝えないと、きっと後悔する。
待ってろ見守。
やたら勇ましく心で思い、あたしはなけなしの500円玉をギュッとにぎりしめて、彼のいる喫茶店を目ざして駆けだした。
(おわり)
きみに会うための440円 野森ちえこ @nono_chie
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