第9話 自室
行きは近いが帰りは遠い。
一体何を詠ったものかは忘れましたが、何となく今の気分を表現するならばこれが当てはまるように感じます。
校舎から、寮が、遠い!
道は綺麗に舗装されていて歩く分には何不自由しませんが、如何せん距離がありすぎます。
正直、実家に住んでいた頃に歩く一週間分の距離を既に今日一日で踏破している気がしました。表情には出しませんが、腰の付け根はギシギシ言い始め、足首に至っては痛過ぎて痛みを感じなくなってきたくらいです。
しかし、それでも何とか辿り着けたのは、道を案内して下さったミラージュ先輩のお陰でしょう。
あのあと正面階段で
社会学1の先生の話がブラックユーモアに溢れていて面白いだとか、旧校舎の地下にはその昔通っていた王族を逃がすための避難道が残されているとか。
そんな感じで、ミラージュ様の語られるものは今までの生活では決して触れられなかったような話ばかりでとても面白く、道のりはあまり苦ではありませんでした。
いえ、違うのかも知れません。
翻せば、それだけ楽しい時間を過ごせてもなお道のりは意識せざるを得ない長距離であるということ。
早速、登校が不安になってきました。
「はい、到着。今日はお疲れ様イリス」
「あ、ありがとうございましたミラージュ先輩」
辿り着くと、ミラージュ様は笑いながら寮の扉を開けてくださいます。
慌てて私は後からそれを支えて、先を譲りました。
中へ入ると、午前中とは打って変わってロビーは人で溢れています。
さっと視線が集まり、そして散りました。
その一瞬で背筋が冷えます。
ここに居るのは全員上級生の方々でしょうか。制服を着ている方は一人もいらっしゃらず、全員思い思いの過ごしやすい服装です。
彼女らは、ソファーに座りながら、棚に並ぶ雑誌を物色しながら、片手に煎れた紅茶を持ちながら、まず最初に隣のミラージュ先輩を見やり、次に私の全身を見ました。
値踏み。
その単語が脳裏に浮かびます。
「みなさん、貴女と白百合会の名前を出したら手のひらを返して頭を下げますね」
隣で小さく呟いたミラージュ先輩を見やると、邪悪な笑みを浮かべて私の頭を撫でてくださいました。
しかし気になっていたことがあります。
「……ミラージュ先輩。あの、白百合会というのは一体どういった組織なのでしょうか? それに、エルマーナというのは? 私、フローナ様に確かに会へ迎えられましたが、正直何が何だか分かっていなくて……」
「やっぱり、フローナ様は……。学院に見つかったら一大事なのに」
目を覆ったミラージュ先輩はがっしと私の手を掴むと、周囲の視線など意にも介さず階段を登っていきます。
「そろそろ私は部屋でやらなければならない事があるので詳しくは言えませんけど……貴女が迎えられた会は入りたくても入れない、一種の学院内での上流階級を示すステータスとなるものです」
「え……?」
「本当は強引な勧誘を防止するために、倶楽部への入会は本人の合意を示す契約書が必要なのですが、十中八九してませんよね?」
「は、はい」
「ただ、少し複雑なのは
「あ、あの、そのエルマーナというのは何でしょうか」
問うと、そうでしたね、と一息付いて続けてくださいます。
「花園の姉妹と呼ばれるもので、学院内で結ばれる義姉妹の関係です。三年生になると姉になる権利が学院から与えられ、姉は自由に妹を決めることができるのです。妹は姉に従順に使えなければならない代わりに、姉から知識や人脈など様々なものを与えられます」
「そして、私はフローナ様に妹に選ばれた……?」
「その通りです。重要なのは今年で四年生になるフローナ様は誰の妹になることもなく、そして誰も妹にすることがなかったことです。それが突然、貴女をエルマーナにした。──明日、学院は大騒ぎになるわ」
ぞっとします。
いつの間に、そんなことになっていたのか。
なぜ、フローナ様は私のことを選んだのでしょうか。加えて言うならば、何故私のことを知っていたのでしょうか。
私にはアステライト家の主から口には出来ない命を受けて、元々フローナ様に近付こうとしていました。
一体何をどこまでフローナ様は知っているのでしょうか。
「明日から始まるオリエンテーションが終わるまで正式な倶楽部への入会は禁止されているから、白百合会に来た話は伏せておくことをおすすめします」
「わ、わかりました」
「さて、私の案内はここまでですね」
すると、四階の一角でミラージュ先輩は立ち止まって言いました。
「ここが今日から使う貴女の部屋です」
「ここが……」
「申し訳ないけど、早々にお暇させてもらいますね。少し予定があって。聞きたいばかりだろうし、明日私を捕まえてくれれば幾らでも教えます」
「あ、ありがとうございます!」
視線を下げて礼をすると、じゃあ、と一言遺して颯爽と角の向こうへと消えて行かれました。
☆
部屋に入り最初に驚いたのは、その狭さでした。
「わ、わあ……」
部屋の形は長方形に近く、ざっと見た限り最低限の家具しか入っていないようです。二つの机に、二つの収納棚、そして二つのベッド。
汚した時に使う用でしょうか?
いや、まさかそんな莫迦な。よもや王家の膝元にフォルトレインありと呼ばれる学院の寮が、プレイ用に設計されている筈がありません。
「──もしかして」
慌てて廊下に出ると、ネームプレートを探しました。すぐ近くで廊下を歩いていた方が──廊下の幅は私が横に五人並んでも悠々と歩ける位広いですが──驚いて飛び退いてしまわれます。
しかし、あまりの混乱に口早に謝るだけで、ぞんざいにしてしまいました。
扉のすぐ横の壁に視線を走らます。部屋の号室、402……その下に目をやります。
そして、そこに私は見つけてしまいました。
さあっ、と血の気が引いていきます。
「あい、べや……」
嵌め込まれていたのは新しく作られた二つのプレート。
一つはイリス・ルル・アステライト──私の名前があります。
そしてその上には、当然見たことのない女性の名前が刻まれていました。
くらりと視界が回った気がします。
「……これはもしかして、とてもとても緊急事態なのではないでしょうか。変えてもらえないのでしょうか」
百歩譲ってこの狭い部屋には何も言及しないでおきましょう。
しかし、相部屋というのはとても大変です。
……ちょっとした失敗で、私が男性であることがバレてしまうでしょう。
もう一度部屋に入るとへなへなと脱力してしまいます。
「寮長様に言えばまだ間に合うでしょうか……? いえ、しかしどのような理由で一人を所望します? 絶対にただの我儘娘だと思われて終わりに決まってます」
思えば、部屋に運び込まれていた荷物が、私の持ってきたものに比べて少し多いと思ったのです。
部屋の隅に──向かって左側がどうやら私の領域で、右側が相部屋の方の領域なのでしょう。部屋の中心には小ぶりなソファーが一組とテーブルがあります。
ベッドからベッドまではおよそ歩いて十歩程度しかありません。何というプライベートの無さでしょう。
その他共用だと思われるのは入口に入ってすぐ右手側の脱衣場とお手洗、そしてシャワールームです。湯船が見たことのない形で、明らかに背が低い上にきっちり直方体をしているのはどういうことでしょうか。
一通り軽く探検しながら思考を巡らせても、中々良い案が思い浮かびません。
アステライトの主はこのことを知っていたのでしょうか。
……そう自問すると、あの方に限って把握していないわけが無い、ともう一人の自分が呆れ顔でため息を付きながら返事をしてきます。
ええ、そうでしょう。あの変態絶倫貴族がこんな程度のことを把握していないわけがありません。そもそも私をここへ入学させられたのだって、役員の教員の方が主の昔の女だとかそういう話でしょう。もっと言えばそれは一人や二人で収まることでは無いかもしれません。
情報は筒抜けの筈です。
「……ここで、暮らしていけるのでしょうか」
そもそもフローナ様を孕ませたら即解放、と約束された訳でもありません。
本来ここから学院で過ごすとしたら、高等教育を三年間、そして高等研究をもう三年間の計六年かかります。フローナ様でさえまだ四年生だというのに。
いままで十余年の自分の成長ぶりを見て、これからも本来の性別ではなく、逆にますます女性らしい体付きになっていくことは分かっているのですが、それでも来たる六年後の未来は不安に思います。
そうして部屋の中心で立ち竦んでいた時でした。
扉が突然ノックされたのは。
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