第8話 午睡の煙
「……ん?」
ローラがよいしょ、と服のと服との間に挟まれた長髪を腕で引き上げて、そのまま棚から一つシュシュを手に取ると簡単に結わえていた時だった。
一足先に準備を整え、化粧台へと向かおうとしていたアリスが怪訝な声を上げる。
「なにか匂わない?」
「え、愛臭ですの? まったく……あれだけいつもクローゼットの中だけでは絶対にしないようにと言い聞かせていますのに」
これだけある服を丁寧に保管するのは容易いことではない。そんなデリケートな空間で1回でもいたせば、においや汚れが付いてしまうのは必至だ。
しかし悲しいかな、カップルなんかが、さあこれからするぞ、と意気込んでプレイ用の服を選ぶ時が一番楽しかったりするのだ。その時に気分が盛り上がって、結局その服を身につける間もなく交わる会員が後を絶たないのである。
しかし、アリスは首を横に振った。
「いや、そういうにおいじゃなく……もっとこう、敢えて表現すればくさい。厨房の近くでたまにかぐにおいね」
「……? 誰か3階のキッチンを使っておりますの?」
アリスの後を追って共に部屋に出れば、なるほど確かにくさい。
というより、焦げ臭い。
ローラは思わず顔を顰めた。隣でアリスが露骨に嫌そうな顔をして、両手でその小さくて可愛らしい鼻頭を包み込む。
「あの料理の苦手なエマでも、ここまで匂いが登ってくるなんてことはなかったのに」
「換気扇でも壊れましたの?」
「うわ、なにこれ! ちょっとローラきて!」
アリスがガラス越しに内部の吹き抜けを見やる。
後から覗き込むと、只事では無さそうな黒煙でけぶりはじめていた。
「……アリス様? ローラ様も、一体どうしたんですか?」
すると、近場のソファから少女が一人眠眼を擦りながら、胸元にシーツをかき寄せて体を起こす。
それに伴って、連鎖的に何人かが鼻がかった呻き声を上げて目を覚まし始めた。
「ローラ、ちょっとこの子達のこと任せていい? 私、少し下の様子見てくる」
「え、ええ、分かりましたわ」
そう言って、頷きあってそれぞれが動こうとした矢先だった。
バン、と学院でまず聞かないような荒々しい音とともに扉が開けられる。
そして何事かと構えるよりも前に、その飛び込んできた人影がほとんど悲鳴に近い声でローラに縋り付いた。
見れば、それはよく可愛がっていた後輩であり会員の一人のケイトだった。
「どうしましたのケイト、落ち着きなさいな」
「ろ、ろ、ローラ様! 大変です! 火事です!!」
まるで蛇に睨まれたかのようにローラとアリスはその場に凍りついた。
「一体どこからっ」
「一階の厨房です……! 校舎から戻ってきたら薔薇棟から煙が出ているのが見えて」
「ありがとうケイト。貴女は早く西の非常階段から逃げなさい」
「そ、そんな! 私もお手伝いさせていただきます!」
「……わかりましたわ。そしたらこの部屋にいる子達を起こしてくださる? そして起こした子達には他の子を起こすように言ってください」
「わ、わかりました!」
そっと後から肩に置かれる手があった。
アリスだ。
「私は厨房近くにいた子がいないか大急ぎで見てくる。そのまま一階全体を見回ってくるわ」
「私も行くに決まってるでしょう! 煙が回っているのに一人は危険ですわ!」
「バカ! この場で年長者のあなたがいなくてどうするのよ! ローラが今しなくちゃいけないことは、ここにいる全員を逃がすこと! いい!?」
まくし立てられ、ぐっとローラは息を呑む。
駄々をこねる時間はない。
苦渋の末、頷き返すと、せめて出来ることとして羽織っていたショールを氷が溶けて水が溜まっていたアイスペールに浸した。
そして、それをアリスに投げつける。
「つめた!」
「焼け石に水ですけれどないよりマシです。ケガしたら許しませんわよ!」
まるで泣き腫らした子どものように顔を赤くして言うローラに、アリスは一拍笑うと、さっと唇を重ねた。
「行ってくる」
片目をつぶって悪戯っぽく微笑むと、次の瞬間には踵を返しては手に濡れたショールを持ったまま走り去った。
口角が上がるのを抑えられないまま、場違いにも、そのアリスの走り慣れていない様子に転ばないか心配になる。
しかし想いを振り切って鉄面皮を被り、部屋へ向き直った。
見れば、ケイトが見事に仕事をしたようで、何十人もいる少女達のほとんどを既に二本の足で立たせていた。中には一糸まとわぬ少女も多く、意識が覚醒した者達が慌てて近場の服を着せている。
「みなさん、今すぐ西の非常階段を使って外に逃げなさい!! 手には何も持たないで、服の裾でも何でもよろしいので口と鼻にお当てなさい!」
すると、わらわらと意識がハッキリとしている者がそう出ないものを連れて部屋から避難し始めた。ローラはまだうまく状況が掴めてない少女一人一人に言い聞かせながら、近くの者達に任せていく。
途中で、比較的年長者の少女達を呼び寄せた。
「アルーア、アイシャ、ケイト、アズサ、レーン! あとシェーナ、リオ、ヘータも! ……お願いがあるのですけれど、貴女たちもこの階の他の部屋に残っている子達が居ないか見てきてくださる?」
「はい!」
「全員それぞれの持ち場を見たら、誰も待たずにすぐ外へ逃げなさい。わたくしは二階の非常階段で報告を待ちます」
言うと、ローラ含め八人は散開した。
元々今日は会員の殆どが寮か校舎にいた筈で、薔薇棟に残っているのは昨夜の夜会に参加した会員たちだけなのだ。それ程多い人数ではない。見落としがあるとすれば、日中に寮の自室から棟にやってきた会員がいた場合のみである。
ローラは非常階段に辿り着くと、会員が外に避難するのを助けた。中にはパニックに陥って足首を怪我していた娘もおり、彼女は数人に任せて担いでいってもらった。
そうしてようやく二階の見回りに行った一人目の年長者が来ると、続けて二人目三人目と姿を現す。最後の一人のアルーアが来た頃には、部屋にいた子達の避難は全て完了していた。
たった一人、アリスを除いて。
「アルーア、後のことは任せました」
「ろ、ローラ様! いったいどこに……っ!」
「アリスを探してきますわ」
ローラは踵を返すと吹き抜けの階段を駆け下りた。
爛れるような焦燥が胸の奥を支配する。
アリスが一階に降りてから長くはないが決して短くもない時間が既に過ぎていた。そろそろ戻ってきてもいい筈なのである。
「アリス! アリス、どこですの!?」
叫び、そこでようやく周囲に黒煙がもうもうと立ち込めていることに気が付いた。
ローラは慌てて周囲を見まわして適当なものを探す。丁度、ロビーに並ぶソファーに膝掛けを見つけた。それを取ると、頭からすっぽりと体に巻き付けて、口元に押さえつける。
「アリス! アリス!!」
厨房の方へ進めば進むほど煙が酷い。
そして最後の角を曲がると、のたうつオロチの様に火焔が廊下にまで暴れ出ているのが視界に入った。
「アリス……」
最悪な想像が脳裏を掠め、さっと青ざめる。
放射熱で膝掛け越しにも肌は焼けるように熱いのに、体の芯がひどく寒い。
ある筈がないと願いつつも、ローラは必死に厨房の床に人影が倒れていないかを探した。
ふらりふらりと、キッチンに近づく。
二度、見間違えた。
一度目は床に転がっていた幾つかの小麦袋の包で、二度目は真っ黒に焦げた何かだった。
必死に目を凝らすあまりか、不思議と体は熱さを忘れていた。
だからだろうか。気が付けば、火の海の厨房の入口にほとんど足を踏み入れかけていた。
そして無意識に立ち入ろうとし───
「馬鹿!」
ぐん、と腕を背後に引っ張られた。
体勢を崩し、反射的に後方へと何歩もたたらを踏む。
一体何が、と思って振り返った時、ローラは自分が我を忘れていたことを知った。
そこには顔を煤だらけにしたアリスが立っていた。
「ローラの馬鹿! 自殺する気?! 早く逃げるわよ!!」
無事でしたのね。
その一言を言おうとして、喉がまるで死人のそれになったように干からびて音を発さないことに驚愕する。
加えて、自分が酷い頭痛に襲われていることに気が付いた。
「いいから早くここから離れよう!」
有無を言わせずアリスにグイグイと腕を引っ張られる。
そこでようやく、思考に冷静さが戻ってきた。
「い、一階には誰も、居ませんでしたの……?」
喉に酷い痛みが走る。掠れてまともに声も出ず、アリスの耳元にまで口を持っていかなければ言葉もまともに届かない状態だった。
「居なかったわ!! ローラこそ、上の階の皆は!?」
「へ、部屋の会員は避難させましたわ。もう、わたしたち、だけですの」
足は驚くほど重い。
夢遊病患者のように炎の中を歩いていたことで、気付かないうちに、大量の煙を吸い込んでしまっていたようだ。
逆にアリスの肩を借りながら歩みを進める。
「たすけるつもりが、逆に、足でまといになってもうしわけありませんわ……」
「何言ってんのよ」
二人で二階に上がると、一階よりはマシにしろ煙はかなり登ってきている。
見慣れた、そして住み慣れた『巣』が、刻々と姿を崩す光景は、見るに耐えなかった。
「さっきまで私、炎の中で方向感覚が無くなっていたのよ。貴女があそこに居なかったら、どこが廊下かも分からずに逃げ遅れて焼け死んでいた所だったわ」
気休めの言葉でも、嬉しかった。
後にそれが本当のことだったと知って、ローラはアリスに泣きつくことになるのは余談。
「『生命倫理とファシズム』の教科書、買い忘れちゃったわね」
「……あしたは、火事を理由に、サボれますわ」
二人はくすりを笑い合うと、そのまま裏手から脱出したのだった。
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