第2話 乙女の花園



 一点の翳りの無い、どこまでも突き抜けるような深い色をした青天。

 その蒼を背景に、その場所は真っ白な陽光に鮮やかに照らされていました。


「わぁ……」


 来てしまいました、フォルトレイン学院。

 王国中の名声を欲しいままにしていた、貴族の間ではある種、神格化さえされていた雲上の領域。


 夏の終わりを告げる涼しげな風が、木々を揺らして私の元へと届くのも、ある特別な事象にすら感じてしまいます。

 頑強な門の向こうには、ひたすらに森が続いており、ようやく目を細めて見える位の距離に、校舎と思われる影が見えます。


 ガソリン車を降りると、扉を閉めることも忘れて眼前の光景に目を奪われていました。

 どうやら警備の関係上、付き人はここまでのようで、ここからは馬車に乗り換えるそうです。やはり馬車の方が格調が高いですし、ガソリン車は便利ですが音と匂いが独特なこともあって、この敷地には必要ないのでしょう。


「では、行ってきます」


 長く世話になった使用人に礼をすると、私は手荷物の入った鞄を転がしながら学院の者とその従者が並ぶ門へと入っていきました。


「お待ちしておりました、イリス・ルル・アステライト様」


 大丈夫だとわかっていても、それでも本物の女性の方と対面する時は緊張します。

 言葉と共に深く腰を折ったのは、ひとりの若い教員でした。勿論女性の方です。それも、まだ少女から女性と呼び名が変わったばかりのような若い人。

 ここにいるということは、きっと優秀な方に違いありません。見れば、お召し物の生地にとても上品なものが使われています。


「お初にお目にかかります。今日から私もフォルトレイン学院のいち生徒。アステライト家四女であることはお忘れください」


 学院の侍女かと思われる方々がその後ろに整列し目を伏せる前で挨拶を交わします。とは言え、流石にこちらが頭を下げるわけにもいかないので私は言葉のみでのものになってしまいます。


「それではまず宿舎の方にご案内させて頂きます」


 すぐ隣に停まっていた馬車に促され、教員の方が直々に貸してくださった手のひらを借りて乗り込みます。普段から気をつけていることではありますが、前の膨らみには要注意です。……下の。残念ながら上はありませんから。


 荷物は後ろの別の馬車に載せるようで、侍女の方々もそちらを利用する様子です。

 すると教員の方も乗り込み対面に座ると、御者に発車の合図を送りました。

 ゆっくりと景色が動き始めます。

 赤煉瓦で舗装された幅広い道と左右に生茂る緑との対照が色鮮やかに輝きます。堅牢な車輪の低い音を聞きながら、私は一心不乱に外の景色に夢中になっていました。


「なにかご興味を惹かれるものがおありですか?」


 尋ねられ、はっと我に返り思わず彼女の顔を見ると、安心させるようにとても柔らかな笑みを返されます。そこでようやく自分の頬に笑窪ができていることを悟り、私は思わず両手で顔を挟み込んでしまいました。


「お、幼子のような情けない姿を見せてしまい申し訳ありません……」

「いえいえ滅相もありません。我々の用意したこの場所を喜んでいただけている様子を見ることができて、私も嬉しかったのです。どのような所がお気に召しましたか?」

「いえ……」


 はた、とこれを言っていいものなのかと思い悩んで口を噤んでしまいます。

 しかし、大丈夫だろうと自分の内に頷きを作りました。


「私、幼少の頃よりあまり外に出たことがないのです」

「左様でしたか」

「まったく外出をしなかった訳ではないです。最低でも週に一度は必ず他家の夕食会に伺っておりましたし、寧ろ多いとさえ言えるでしょう。……ただ、私は四女と言えどアステライト家の血族。その安全の確保のため、と馬車にはいつも黒幕が掛けられ、あまり外の世界というものを見たことがないのです」

「それ程大切にされておられたのですね」


 言われ、ある意味では、と思います。

 あの家の主に限って言えば、私に対する愛情は大したものでは無いでしょう。しかし、家族という意味ではなくとも後継者という意味では大切にされていたのだと思います。

 感謝はするべきでしょう。


 しかし、だからこそ、複雑な場所に立っているこの私に良くしてくれたレイナのことを想わずにはいられません。常に隣にいた彼女との別れが思い出されて、途端に胸が苦しくなりました。

 そんな風に色々と思考を巡らせて幾許かの時が過ぎ、私の足にも疲労がやってきた頃、突然景色が開けました。


「わぁ……」


 馬車が止まり、先程とは逆の動作で降ります。

 しかし、今度は彼女の差し出した手を取ることも忘れてあろうことか地面に飛び降りてしまいました。


 視界一面。

 私の髪を一陣の風が薙いだ数拍後、一斉に色取り取りの花弁が青空に向かって舞い上がりました。


 ──百花繚乱。


 燦々と降り注ぐ陽光に照らされている花々が、幾重もの円を描いた花壇に咲き乱れていました。その中心に、宝石のような飛沫を散らす立派な石造りの噴水が鎮座しています。


 まるで夢のよう。

 そう云わずしてこれをなんと表現していいものか。

 糸に引かれる人形のように広場へと足を踏み入れると、甘い香りが全身を包みます。

 まさに楽園の呼び名が相応しい様相でした。


「素晴らしいでしょう?」

「は、はい! こんな素敵な場所が学び舎の中にあるなんて……」

「乙女の国に花園は欠かせないわ」


 振り返る先、同じく髪を抑える教員の方が悪戯っぽく笑いました。

 この美しく広大な広場は、セントラルガーデンと呼ばれるそうです。

 在籍するお嬢様方には人気の場所の一つで、お昼間は憩いの場を求める学生が、夜の帳の落ちる頃は湯上りやワインの熱に火照らせた学生がよくいらっしゃるとのことでした。


 そうこうして見事な庭園を眺めていると、さっきまで私達が乗っていた馬車の後ろにもう一台、荷馬車と呼ばれるものがやってきて停泊しました。そして、その横を歩いてきた侍女たちが歩み寄ると、一斉に積載されていた私の荷物を下ろします。


「ここからは学舎となりますので、馬車を使えるのはここまでです。申し訳ありませんが、あと僅かな距離を歩く必要があります」

「何を仰るのですか。先程も申し上げたとおり私はもう学院の生徒。郷に入れば郷に従えと言うではありませんか。それに私は散策が大好きなのでお気になさらないでください」


 私の言葉に教員の方は神妙な頷きを無言で作ると、先導するように歩き始めました。その後に続いて花の匂いをいっぱいに吸い込みながら花園を進むと、やがて王家の別荘と引けを取らない巨大な建造物が見えて参りました。

 それは、白亜の宮殿の一角を切り取ったかのような荘厳の顕現。


「ここが……?」

「はい。お嬢様方の住まう寮となります」


 どうぞこちらへ、という声と共にその城とも思える建物の中へと通されます。

 旧く重厚な木製扉が独特の声を上げて口を開きました。


「わ……」


 格者のみに赦される聖域。

 そこは、そんな表現がまったく似合う様な、芸術の核の集合によって造られた空間でした。

 外も然ることながら、内装もまた格別な品位を備えています。

 中央に弧を描いて昇る二つの階段。その左右対称の赤絨毯を中心に、贅を尽くしつつも上品な装飾が吹き抜けとなっているロビーに広がります。


「では私たちはここでお暇させてもらいます。──あと、先ほどお嬢様が如何なる身分だとしても今は学院の一生徒であるとおっしゃいましたね。そのお覚悟、我々は歓迎致します」


 すると教員の方は背筋を一度伸ばすと、掛けていた丸眼鏡を外し襟元に入れました。この時初めて私は彼女の顔を直視したと気が付かされました。


 そこに現れたのは、ゾッとする程の美貌でした。

 そして、細められた二重の瞼に、自覚のない畏怖による寒気が足首から首筋に至るまで一気に這い上がってきました。

 それは、恐らく笑み。


「学院の方針でね、ここに至るまでは入学したものとみなさないのよ。理由は分かる?」


 ふる、と首を振ります。

 唐突に変わった口調でしたが、その醸し出す圧倒的な存在感の前には違和感の一文字もありません。


「この学院をそこらの学校と間違える馬鹿が居るのよ。それも、大勢ね。ここが国定図書館よりも女王様レジーナから補助金を頂いていることも知らずに。まぁつまりは最後の入学試験は合格ということよ、アステライトのお嬢様。知っているとは思うけど、私達はあなた方の家の主からあなた達の教育・・を任されている。その意味は十分理解してね」


 その急変に、心臓がついて行きません。


「あとから上級生が中を案内してくれる手筈となっているわ。その間に貴女の荷物は侍女達に持ち込ませるから、まだ部屋は使えないかな。悪いけどそれまでそこら辺のソファとかはみんな自由に使っていいから適当に時間を潰して待ってて。そんなに時間はかからない筈だから」


 そう言って、教員の方はロビーに背を向けます。

 それを合図に荷物を手に取った侍女の方々は、すれ違いざまに黙礼しながら続々と階段を登っていきす。

 ギィ、と扉が開く音が再度響いて我に帰り、慌てて背筋を伸ばします。


「あ、ありがとうこざいました! これから何卒よろしくお願いします」

「えぇ、がんばってねイリスさん・・


 その言葉を最後に、彼女は楽園の奥へと姿を消しました。

 一人ぽつねんと残された私。

 純白が眩しい静謐なロビーに取り残されると、途端に浮遊感が全身を襲います。


「……頑張りましょう、私」


 ぎゅっと組んだ両手で胸元を握り締めると、そう呟きました。


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