第4話 フローナ
高らかに響き始めたその靴音に、はっと身を縮めました。
先程と同じ、寮のロビー。
そこに並ぶ柔らかなソファーの一つに身を沈めていた私は、体を固くして音を立てないようにゆっくりと体を起こして姿勢を伸ばします。
すると、すぐ後ろでカッ、と踵が鳴りました。
「ご機嫌よう。貴女がイリス?」
頭上から降ってきた言葉。
それは、想像していたよりもずっと冷たく、鋭いものでした。
「は、はい! 私がイリス・ルル・アステライトです」
固まりながら咄嗟に喉を出た言葉でしたが、しかし、よくありません。
まだ、お相手の顔すら見ていないのです。
緊張に脚が凍りついたように固まってしまい動かないのです。深く腰がソファに沈んでいたのも良くなかったかも知れません。
「立ちなさい、イリス」
表情が見えないという恐怖に震えながら、私は早くなる鼓動に頭の中を真っ白にしながら立ち上がります。
人影が、足音を連れて私の横まで来ました。
そして右を向き、視線を上げようとし──
「───っ」
いつの間にか私はその場に片手を地面に付いて、膝を折っていました。
頬に走った痛みを今更に感じて、平手を打たれたのだと知覚します。
広いホールに、肉の弾けた音が残響していました。
まさか、身体的には男性であることが知られてしまった──
「先輩を前にしてその態度。いいご身分なこと。貴女の
「……申し訳、ありませんでした」
内心、最大の恐怖を乗り越えたことで肩を大きく下ろしていました。
すると、無言で足音は距離を詰め、漆黒のタイツに包まれたほっそりと長いお脚が視界に入りました。そのまま先輩の方の膝もまたぴったりと閉じたまま折られます。
「顔を上げなさいイリス」
その鋭い響きを耳にして、一瞬でも安堵を得た自分の愚かさを呪いました。
言葉に誘われるように、私は無意識に顎を上げます。
「───」
そして、初めて、心臓が高鳴るという言葉の意味を理解しました。
レイナに対してでさえ、ある種の家族に向ける感情も混ざっていたためこんな想いをしたことはありません。
その方は、あまりにも出来すぎた目鼻立ちと端正な頬のラインを持っており、透き通るようなプラチナブロンドの滑らかな長髪をゆったりと流した、お伽噺のお姫様のような人でした。
瞳は、どこまでも深い蒼空の色。
その長い睫毛に、ふっくらと桜色をした唇に、その全てに釘付けになってしまいます。
すると、先輩の右手が持ち上がったかと想うと、そっと手の平で左の頬を包まれます。
胸が苦しくて苦しくて、ぎゅっと制服の胸元を握りしめてしまいました。
「貴女、ちゃんと謝ることはできるのね。次はないから覚悟なさい」
「肝に、命じます」
先輩の絹よりも柔らかな、ほっそりとした指先が私の頬の感触を確かめるようにゆっくりと撫でました。
「痛む?」
「い、いえ……」
「最初に教えてあげるわ。この学院では正直で在ることが評価されるの。
もう一度問うわ、と先輩は言葉を挟み、
「痛む?」
「はい……。でも本当にあまり痛みは大きくありません」
「そう。ならよかった」
それだけ言葉を零すと、先輩は滑らかな動作で立ち上がりました。釣られてその動きを目で追っていると、制服越しでも分かる先輩のその豊かすぎる胸部の向こうに、蒼の視線を見ます。
「───」
それは、寒気。
絶対なる者に対する──そう、喩えるならばアステライトの主と相対した時のような、途方もない格の違いを思い知る他ない時に得るもの。
人を人として見ていないような、雲上人のそれと同質である平等で冷酷な視線なのです。
無感情なのではありません。ただ、違う位相にいらっしゃるだけなのでしょう。
すると、今度は先輩は手のひらを上に向けてこちらに伸ばしました。
「手を取りなさいイリス」
誘われるまま、私はその芸術品に触れる時にも似た面持ちで先輩の手を取ります。
そして引かれるまま、ゆっくりと立ち上がりました。
交錯する視線。
先輩は凄惨に笑いました。
「学院を案内して欲しいかしら」
「は、はいっ。このような非礼をした私ですが、それでも赦されるのでしたら是非ともお願いしたいです……!」
「いいわ。その謙虚さと傲慢さが入り混じった所が気に入った」
思わず素直に、この方の言葉一つに対して驚きと喜びの感情を抱いた自分に二度驚愕します。アステライトの人間たる者が、よもや従者の如き扱い一つで悦びを得てしまうなど、あってはならないことです。
しかし、格の違いは確かなのです。
あの見透かしたような、何もかも知った上で愉悦を舌の上で転がすような微笑が底知れなく、恐怖を覚えるのです。
一体、何者なのでしょうか。
そう思って改めてその方の横顔を見つめ──その刹那。
雷電の様な衝撃が脳から背筋を走りました。
──私は、この人を知っている。
会ったことは無い……しかし、見たことはある。そんな漠然とした感覚が脳を占めました。
そして少しして、はっと気が付きます。
それは、アステライト本邸の主の部屋で見た一枚の写真。
「あの、先輩……」
「なあに、イリス」
「一つお聞きし忘れたことがあったので」
「言ってみなさい」
ふわりと広がったスカートの裾と、跡を追った白金の長髪。
僅かに開いた扉の隙間から差し込む昼下がりの陽光が、まるで金色のカーテンが先輩の身を包むように見えます。
「あの……先輩のお名前をお尋ねしてもよろしいでしょうか」
「あぁ、そういえばまだ名乗っていなかったわね」
その微笑を、きっと私は一生忘れないことでしょう。
凛と響いたその声。
それはまるで、陽光に芽吹いた花のように自分の在処を世へ誇るようでした。
「私の名は、フローナ・アース・マクロード。フローナお姉様とお呼びなさい」
☆
見つけてしまいました。
早速──そう、本当に早速、最初の大きな関門をいとも簡単に達成してしまいました。
大勢いる学生の中からどのように探そうかと、父上から入学を命じられた日から夜な夜な次女の姉の腕の中で悶々と悩み続けた日々が嘘のようです。
フローナ・アース・マクロード。
目の前にした望みの君の姿は、当然のことですが写真の中の彼女とだいぶ違いとても驚きました。あの人形めいた美しい幼い少女から、凛とした大人の上品さと華やかさの象徴であるかのような女性になっていらっしゃるとは。
そして何より、その身に纏う王者の風格。
眼前の者達の心に畏敬と賛美の念を刻み込む出で立ちは、悪魔的で、神秘的な魅惑に包まれていました。
「ここが中央棟よ。学院の中で最も大きい校舎で、機能のほとんどがここに集中しているわ」
立ち止まるフローナ様。
物思いの海から引き上げられ、同時に視線を上げると、私は呼吸を忘れました。
それは、宮殿そのものと呼んでも差し支えない代物。
およそいち教育機関が保持する資産としてはあまりに格が違いすぎるその威容に、ただただ圧倒されます。
「付いてきなさい。教えてあげる」
「は、はい!」
横に長大な正面階段と呼べる場所を進んでいきます。脇の足元には美麗な水路があり、爽やかな水音とともに太陽の光を乱反射されていました。
周囲には他の生徒もまばらながら歩いており、その大体がフローナ様と私のように新入生と上級生という二人の組み合わせです。どちらか一方は私と同じように制服を着慣れておらず、誰もが高貴なお嬢様といえど辺りへの興味は尽きないようで見回していました。
そんな生徒達が道行く正面階段を一歩進むごとに明らかになっていく校舎の風格。
しかし、先程から私はまったく別のことに気を取られていました。
「見ての通り、寮から教室まではかなり距離があるわ。分かっているとは思うけれど、間違っても始業間際に部屋を出るなんて情けないことはことをしないように注意なさい」
「わかりました」
「まずは教務課と学生課に案内するわ。どちらも何かあった時に尋ねる一番重要な場所よ」
はらりと揺れるスカートの裾。
この学院のスカートが少々ラインの出やすいデザインであることを差し引いても、その主張の激しい柔らかな輪郭に、私は釘付けになってしまっていました。
それは、フローナ様の
後ろを行く私からは、フローナ様が一段階段を登るごとに揺れては弛む蠱惑的な光景が眼前に迫っている状況でした。
この薄布を超えた先に、この方の一番大切な入口があるのかと考えると今でも熱が集中してしまいます。
しかし周りの目があると思い、顔を伏せつつも揺れる前髪の隙間からのぞき見てしまいまっていました。
結局最後に私がフローナ様のお身体から視線を剥がしたのは、階段を登りきったところにあった巨大な噴水広場に辿り着いた時でした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます