対立候補の場合(3)
それから三十分後、俺たちは午後の遊説に出かけていた。ウグイス嬢の提案ですっかり気分を害した俺は、笑顔を作ろうとしてもなんだか引き攣ったような笑顔になってしまっていた。
今までの選挙戦でこんなことは一度たりとも無かった。俺も歳なんだろうか。
それとも、あの丹下源太が気になるのか。
とっちゃん坊やめ、何かと癇に障る。バカ面晒しているくせに、やたらと有能な連中を抱え込んでいる。
事務所の小熊とか言うやつは、確かインフルで全滅した小波美奈子議員のところで選挙スタッフとして入ってたやつだ。
で、当選を呼び込む運転手、野瀬照三? そして全く知られていない隠し玉、謎の男性ウグイス。畜生、腹立たしい。
「田中さん、眉間に皺寄ってますよ。笑顔笑顔」
運転手が俺の顔を見て笑ってやがる。好きでこんな顔になったんじゃない。
「俺はこういう顔なんだよ」
「空豆谷入りますよ」
車は空豆谷へ向かって右折した。その時、正面から来る対立候補の遊説車が見えたのだ! 誰だ!
「丹下源太でございます。田中彼方候補のご健闘、お祈りいたします」
丹下源太! またしてもあのとっちゃん坊や!
「ありがとうございます。丹下源太候補のご健闘をお祈り申し上げます。お互いに最後まで頑張りましょう!」
丹下の健闘なんか祈らなくていい!
なのに、なんなんだ、ウグイス同士が笑顔で爽やかに挨拶し合うこの光景、なんでこんなに清々しいんだ?
「負けました。すみません」
ウグイス嬢がマイクオフでボソリと呟いた。しかし、すぐにオンにしてアナウンスを始めた。
「負けた? 何がだ?」
俺の問いには、運転手が答えてくれた。
「遊説車がかち合った時、ウグイスたちはどちらが先に挨拶するかを競うそうですよ。先に『健闘を祈る』と言った方が優位に立てますから。それに……」
「それに?」
「先に挨拶をするということは、誰よりも周りに気を配っているということなんですよ。どんな小さなことも見逃さない、そういう配慮がウグイスには求められる。『いかに早く反応するか』で彼らの優劣が決まるんです」
そんなに気を使うものなのか。
「田中彼方でございます。お店の中からお出ましのご声援、誠にありがとうございます」
あんなところの応援まで見ている。ただ名前とスローガンを連呼するだけじゃない。それがウグイスだというのか。
***
遊説が終わって、帰り支度を始めたウグイス嬢に、俺は声を掛けた。
「お疲れさん」
「お疲れ様でした。丹下事務所のウグイスさん、なかなかの強敵でした。明日は負けませんから」
疲れた笑顔の彼女に、俺はきまり悪くボソリと言った。
「あのさ……」
「はい? なんでしょう」
「あの……あれだ、明日は上から読んでもタナカカナタ、やってもいいよ」
彼女の顔がぱぁっと明るく輝いた。そんなに喜ぶほどのことでもないだろう?
「はい、ありがとうございます」
「それと、これ。一個しか残ってなくて悪いけど」
俺は申し訳程度に一粒だけ残った蜂蜜のど飴を彼女の手に握らせた。
「お疲れ」
「お疲れ様でした。明日も精一杯頑張ります。お先に失礼します」
――パパ、じむしょのおともだちにもアメわけてあげるんだよ――
俺は不思議な気分で彼女を見送った。肩の力が少しだけ抜けた気が、した。
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