対立候補の場合(2)
一旦事務所に戻って仕切り直そうとは思ってみたものの、あの丹下事務所のウグイスが気になって仕方ない。あの男性ウグイスを誰も知らないというのだ。
あれだけ目立つんだ、誰も知らないという事はないだろうとも思うが、うちのウグイス嬢(と言ってもおばさんだが)すら知らないと言っている。
――遊説活動は前方車優先ですので、お先に始めさせていただきます――
あの声がまだ頭の中に残っている。本当に腹立たしい。ケツの青いガキが。先輩を立てるということを知らんのか。
俺はカバンをガサゴソと掻きまわしてタバコを探した。電子タバコというやつだ。イライラする時はこいつを吸うと少し気分が落ち着く。
だが、それが見当たらない。もしかしてあの時か?
朝、出かけるときに俺が電子タバコをカバンに入れているのを見たうちの娘が言った。「パパ、タバコはびょうきになるよ、アメにしたほうがいいよ。みぃちゃんのアメあげるからね。タバコはがまんだよ」――あの時、娘がカバンから抜き取ったのかもしれない。小袋に飴玉が三個、クレヨンで『おしごとがんばてね』という手紙も入っている。小さい『っ』が抜けている。
上の娘は中学生で、もう俺とは口もきかない。声を掛けても無視だ。たまに口を開くと「ウザい」。年頃の女の子は難しい。下の子とは八つ離れている。
下はまだ幼稚園児で、パパ、パパと絡んで来るから可愛いが、嫁から何か仕込まれているのか、やたらと健康志向だ。人に指図されるのは腹立たしいが、この子だけは何を言われても許してしまう。所謂親バカというやつだろう。
――パパ、じむしょのおともだちにもアメわけてあげるんだよ――残念だが、事務所にいるのはお友達じゃない。仕事の仲間だ。遊びに来ているんじゃないんだ。
俺はタバコが無いことに苛立ちながらも、下の娘がくれた蜂蜜のど飴を一つ口に放り込んだ。甘い。こんな甘いものを食べていて虫歯にならないのか。
俺がイライラしていることに気づいたのか、運転手が「お疲れ様です」と軽い調子で声を掛けてくる。
「お疲れさん」
「午後も回るんですから、そんな顔してちゃダメですよ。候補者は笑顔が命ですから」
「あのウグイス、知ってるか?」
俺は彼に蜂蜜のど飴を一つ手渡しながら聞いた。
「あの?」
「丹下事務所の」
「あぁ、丹下さん。ウグイスは知りませんけど、運転手なら知ってますよ」
「運転手なんかどうでもいい」
「そうですかね?」
ん? なんだ、この意味深な言い方は。
「
「ふん、あのとっちゃん坊やが当選するとは思えんが」
「彼一人なら当選しないでしょうね」
ん? どういう意味だ?
「あのウグイスに、あの運転手ですよ。候補者は一人で選挙をやっているわけではないんですから」
一瞬、彼が俺に刺すような視線を送ってきた……ように見えた。気のせいだろうとは思うが。
「さっきの丹下事務所のウグイスの対応は完璧だったって、うちのウグイスさんが言ってましたよ。あんなふうに煽られたら、自分もああやって返していただろうって。優等生対応だったそうです」
俺はウグイスじゃないからな。そんなもん知るか。
「それに……あの後、丹下事務所の方が道を譲って行きましたよね。本来ならこちらが順路を変えるべきなんですよ。それを向こうが変更した。負けたんですよ、こっちが」
「なんでこっちが負けたことになるんだ? 向こうが折れたんだろう」
「前方車が『譲ってくれた』んですよ? 余裕ブッチギリで。私は運転手として恥ずかしかった。もう野瀬さんに会いたくないですよ」
ふん、気に入らん。そもそも――
その時、選挙カーのマイク音声が近付いて来た。俺の事務所の前を通る気か! どこのどいつだ!
「田中彼方候補の事務所前を失礼いたします。市議会議員候補、無所属、新人の丹下源太でございます」
丹下源太!
俺は思わず事務所を飛び出した。左手からやって来る車の助手席では、ポスターでさんざん見た、あのとっちゃん坊やが手を振っている。そして運転席には六十代半ばのオッサンが……こいつが候補者を当選に導く運転手、野瀬照三!
その後ろには。あのウグイスが。
車が通過する瞬間、ウグイスと目が合った。ヤツは笑っていた。余裕の笑顔で俺に会釈をした。なんだあのウグイス、まだ子供じゃないか!
「新人ならではのフレッシュな感覚で、市政に切り込んでまいります」
しかも現職十二年目の俺の事務所前で、新人であることを売り文句として対抗して来るとは!
「上から読んでもタンゲゲンタ、下から読んでもタンゲゲンタ、あなたの街の丹下源太を、よろしくお願いいたします」
くそっ……。
「田中さん」
背後からウグイス嬢の声がした。
「うちもやりましょうよ。上から読んでもタナカカナタ、下から読んでもタナカカナタ。有権者に覚えてもらうにはいい方法ですよ」
「俺に丹下の二番煎じをしろと言うのか」
「二番煎じと言うと聞こえは良くないですけど、見習うべきところはいくら後輩であっても見習えばいいと思うんですよ。回文になる名前を最大限利用しないと勿体無いですよ」
彼女の穏やかな笑顔がますます腹立たしい。どいつもこいつも俺をバカにしやがって。なんで俺が、この俺が、新人を見習わなくちゃならないんだ。
俺は、田中彼方だ! 市議会に居座って十二年なんだ!
「丹下なんかと同じ土俵に立てるか。上から読んでもタナカカナタだけはやるな。俺をそんな安っぽい宣伝で貶めることは許さん。わかったな」
ウグイス嬢はなんとも言えない目をして俺をじっと見た後、「わかりました」と言って席を外した。
その目が訴えかけていたものが『憐憫』であったことに、その時の俺が気付くわけが無かった。
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