おおぬきさんと私

陽澄すずめ

おおぬきさんと私

 ふと、コーヒーが飲みたいなと思った。


 駅に続く地下街は、午後七時ともなると家路を急ぐ人々でそれなりに賑わう。

 縦に長く、端から端まで見通すことができるこの通路を、私はとぼとぼ歩いていく。

 足が重い。胸の中のもやもやを溜め息と一緒に吐き出そうとしたけど、うまくいかなかった。


 華やかなワンピースを着たマネキンの立つウィンドウを横目に見れば、そこに自分の姿が映り込んでいる。どことなくしょげたような、顔色の悪い女と目が合う。


 そんな時だ。不意にコーヒーが飲みたくなったのは。


 私は時々、会社帰りにこの地下街にあるコーヒーショップかファストフード店に立ち寄ることがある。

 両方とも、街じゅうでよく見かけるチェーン店だ。特にどちらがお気に入りということもない。空いている方に入る。コーヒーが飲めるのなら、どこでも良かった。



 その日は金曜日だったせいなのか、コーヒーショップの方は妙にごった返していた。だから私はファストフード店のレジに並んだ。

 かと言って、こちらも特に空いている訳ではない。私の前には、三人ほどが順番待ちをしていた。


 そんな折だった。


「おい、ふざけんじゃねぇぞ!」


 一番前にいた男性が、突然大きな声を上げたのだ。

 何事かと思って見てみると、スーツを着たサラリーマンらしき男性が、レジ係の店員に食ってかかっていた。


「七時ってちゃんと伝えてただろうが! 出来てないじゃ、こっちは困るんだよ。この店はろくに注文も取れねぇのか!」


 事情はよく分からないけれど、注文していた品物の準備が時間通りにできていなかった、ということだろうか。

 私を含め、レジ待ちをしている数名や店内にいるお客が、さも「聞いてませんよ」という顔をしながら、耳をそばだてている。


「ご注文は、七時、といただいておりましたでしょうか」

「だからさっきからそう言ってるだろうが!」

「かしこまりました、確認して参りますので、少々お待ちいただけますでしょうか」


 対応していた店員は、二十歳くらいの若い女の子だった。苛立ち声を荒げる男性に対して、彼女は落ち着いたトーンでそう言って店の奥へと入っていった。

 程なくして、彼女は戻ってきた。そしておずおずと切り出す。


「お客さま、ご注文ですが、七時半、と伺っていたということなんですが……」


 すると男性がまた、声を張り上げる。


「はぁ? だから七時って言ったって、何べんも言ってるだろうが! 何寝ぼけたこと言ってやがるんだ。この店の責任者を出せ!」

「……かしこまりました、すぐに呼んで参りますので、少々お待ちください」


 彼女は再び奥に下がり、今度はなかなか表に出て来なかった。ようやく店長らしき人物を伴って戻ってきたのは、数分後のことだった。

 店長はいかにも面倒臭そうな顔で、はぁ、そうですか、などと気の抜けた相槌を打ちながら、その男性客の言い分を聞いていた。

 その間に、レジの彼女は通常業務を再開し、再び列が動き始めた。


 すごいな、と思った。

 気に入らない対応をされたとは言え、スーツ姿で周囲に構わず喚き散らす男性が、ではない。

 理不尽な罵声を浴びながらも、動じることなく冷静に対応したレジの彼女が、だ。

 しかも一連の様子から、彼女が受けた理不尽は、男性客のみならず、あの腰の重そうな店長からのものもあったのでは、と思った。普通ああいう客が来たら、店長が真っ先に飛び出してくるべきなのだ。


 怖かっただろう。

 自分の学生時代のバイトを思い出す。若い女の子が、あんなふうに大人の男性から怒鳴られることなど、そう滅多にあることではない。彼女の対応は、例えマニュアル通りだったとしても、なかなかできることではないだろう。


 そんなことを考えながら待っていると、やがて私の順番が回ってきた。


「いらっしゃいませ、ご注文をどうぞ」


 彼女は、何事もなかったかのように接客の定型句を言った。レジカウンターの横では、先ほどの男性客がまだ文句を言い続けている。


「ホットコーヒー。飲んでいきます」

「かしこまりました、ありがとうございます」


 怖かったでしょう、とか。

 あなた凄かったわね、とか。

 言おうかと思ったけれど、やっぱりやめた。

 なぜなら、彼女がすっかりいつも通りの『レジ係A』の顔に戻っていたからだ。今店に入ってきた客は、よもや彼女が怒鳴り散らす男性をさらりとかわしていたなどとは、到底思い付きもしないだろう。


 結局、私は先ほどの件について特に何もコメントせず、ただコーヒーの載ったトレイを受け取って、ガラス越しに通りに面したカウンター席に着いた。


 何度か見たことのある子だった。どちらかと言えば地味な印象の子だ。美人でも、不細工でもない。一度見たら忘れてしまいそうな顔立ちだ。

 接客態度だって、特に目立ったところもない。暗くはないが明るくもない声で、淡々と定型句を言う。口元を軽く笑みの形にしながらも、全体的な印象は無表情に近い。無駄話などは一切せず、てきぱきと客をさばく。百点満点で言ったら七十五点くらいだろう。

 でも、ああいうイレギュラーな客にも動じず、冷静に対処することができる。


 コーヒーを飲み終わって、トレイを『返却口』に戻す。いつの間にかあの客はいなくなっていた。

 私は店を出る前に、レジにいる彼女に向かって「ごちそうさま」と言った。


「ありがとうございました、またお越しくださいませ」


 いつもの、淡々とした言葉が返ってくる。

 彼女の胸元の名札には、『おおぬき』と書かれていた。

 それが、私とおおぬきさんとの出会いだった。



 出会いと言っても、何か特別な交流が始まった訳でもなければ、必要以上の言葉を交わした訳でもない。

 ただ、その店に『おおぬきさん』という店員がいるということを、私が一方的に認識しただけの話だ。

 それによって、コーヒーショップより彼女のいるファストフード店行く回数が増えたかというと、これがそうでもない。やはり私は、空いている方の店を選んで入った。


 だけど、コーヒーショップよりファストフード店の方が空いていた時は、ちょっぴり「今日はラッキーデーだ」という気持ちになった。

 そう思うくらいなら初めからおおぬきさんの方に行けばいいのにと言われそうだが、それは少し違う。

 寄り道をする店は、目的地では決してないのだ。


 おおぬきさんは、私が立ち寄る時間帯には大抵レジに立っていた。そして、いつもと変わりない『七十五点』の姿勢で接客していた。


 私たちはいつも通り、必要最低限の言葉を交わす。


「いらっしゃいませ、ご注文をどうぞ」

「ホットコーヒーを。飲んでいきます」

「かしこまりました、ありがとうございます」


「お会計、二百二十円です」と言う彼女に、私は五千円札を出す。

「お先に大きい方、四千円のお返しです」と彼女が言う。

 私が受け取ったお札を財布にしまう間に、彼女は「お後細かい方、七百八十円のお返しです」と言う。

 そうすると、彼女が小銭を差し出すのと、私がそれを受け取ろうと手のひらを出すのと、ちょうどいいタイミングになるのだ。


「レシートのお渡しです」

「ありがとう」

「ごゆっくりどうぞ」


 お札、小銭、レシート。

 決まりきった、だけど絶妙なテンポで、それらは私たちの間を行き来する。


 私のいつもの席は大抵、私を待っていたかのように空いている。

 コーヒーを飲む間じゅう、店の中には彼女の声が淡々と響く。

 私はそれを聞きながら、地下街を通る人々の足取りを眺める。

 サラリーマン、おばあさん、女子高生。カウンター席に面したガラス越しに、老若男女さまざまな人が、ひっきりなしに行ったり来たり。その中の何人かは、ふらりとこの店に立ち寄ったり。


 帰り際、私の「ごちそうさま」に対して、彼女は言う。


「ありがとうございました、またお越しくださいませ」


 私たちの関係には、それ以上のやりとりは存在しない。

 例えば何かのきっかけで彼女と個人的に親しくなってしまったら、私はこの店に来なくなるだろうと思った。



 どうして私は、帰り道にコーヒーが飲みたくなるのだろう。

 例えば、仕事でミスをした日。

 例えば、仕事で褒められた日。

 例えば、少し前に別れた相手からメールが来た日。

 私の感情は、ほんの些細なことでも揺れる。良い意味でも、悪い意味でも。

 言葉にして誰かに話してしまったら、きっとたちまち形を変えてしまう、ちょっとした心の機微。

 一人でいたくない。

 だけど、誰かと一緒にいたいわけでもない。

 だから私は、寄り道してコーヒーを飲むのだ。


 常に冷静な彼女にだって、実はいろいろあるのだろう。必修科目の単位を落としたかもしれないし、親が離婚協定中かもしれないし、気になる男の子から告白を受けたかもしれない。


 でも、私にはそれは分からない。

 彼女の方も、同じだろう。

 私にとって彼女は『たまに行く店の店員さん』でしかないし、彼女にとっても私は『たまに来るお客さん』でしかないからだ。


 それでいい。それがいい。


 些細な感情の邪魔をしない、カウンター越しの関係。

 誰の人生も、そこでは交わるべきではない。そんな気がする。



 おおぬきさんが店から姿を消したのは、私が彼女を認識してから一年ちょっと後のことだった。

 私は妙にそわそわして、レジにいたアルバイトらしき男の子に話しかけた。


「あの、この店にいた『おおぬきさん』って、辞められたんですか? 最近見ないけど」

「あ、はい、先月いっぱいで辞めました」


 彼は意外そうな顔をしながらも、実に簡潔な回答をくれた。

 彼女とは必要最低限の言葉しか交わさなかったのに、彼女のいないところで、彼女について必要以上の会話を別の誰かとするのは、なんだか不思議な感じがした。


 私はいつも通りホットコーヒーを注文して、いつものカウンター席に座った。

 大方、おおぬきさんは学校の卒業と併せてバイトも卒業したのだろう。そういうシーズンだ。仕方のないことだし、学生のアルバイトとはそういうものなのだ。


 コーヒーを飲み終わって、私はトレイを『返却口』に戻す。

 私は店を出る前に、先ほどおおぬきさんのことを教えてくれた彼に向かって「ごちそうさま」と言った。

「ありがとうございました!」と元気な声が返ってくる。

 彼の胸元の名札には、『すぎはら』と書かれていた。



 変わらないものは、それだけで心安い。

 なぜなら、世の中は移ろいやすいから。

 激流に飲まれないように、自分のテンポを刻むためのものとして、私は常に止まり木を探しているのかもしれない。


 私はコーヒーを飲むために、この店に立ち寄っている。それは前から変わらない。

『おおぬきさん』というとても冷静なバイトの女の子がいたけれど、いなくなった。

 心に小さな穴が空いたような感じはするものの、そのことが私の生活や人生に影響する訳でも何でもない。

『おおぬきさんがいなくなった店』に、私は今後も立ち寄り続ける。そしてまたそのうちに、彼女がいないことにも慣れてしまうのだろう。



 その後一度だけ、街でおおぬきさんを見かけた。

 どこかで見たことのある顔だなと、前方から歩いてくる女の子二人連れの片方の子に目を留めて、一瞬遅れておおぬきさんだと思い当たった。制服姿しか知らなかったので、すぐには分からなかったのだ。


 声をかけようかと思ったけれど、やっぱりやめた。

 彼女と私は、あくまで『店員』と『客』であるべきなのだ。

 あのファストフード店以外の場所でも、なお。

 例え彼女が既にあの店の店員でなかったとしても、それでも。


 何食わぬ顔をして、横目で彼女を見送った。

 それが、私が彼女を見た最後となった。



 いつか私も、あの地下街を通らなくなる日が来るだろう。

 何十年も経ってから、そういえばコーヒーを飲むのに寄り道していたなぁ、なんて思い出すのだ。

 でも、今抱えているようなちょっとした悩みや動揺、嬉しかったことや哀しかったこと、その具体的な一つひとつはきっと忘れてしまう。

 ひょっとしたら、ファストフード店に『おおぬきさん』という店員の女の子がいたことすら、記憶から消えてしまうかもしれない。


 それでもたぶん、私は懐かしく思い出すだろう。人生のさりげない一場面として、私があの店に立ち寄っていたことを。

 その時には、今この胸に空いている小さな穴が、自然にできた優しいえくぼのようになっていればいい。



―了―

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