第10話 フランケンシュタインの乙女(完結篇 魔術師アグリッパの予言)

●瞬間移動能力の秘密


 蒼い月光が、怪物フランケンの巨大な影を照らし出した。

 下弦の月が、コンシェルジュ牢獄の塔と塔のあいだから昇ったのだった。

 フランケンの巨体が、抱え込むように両腕を曲げたまま、凍りついて静止していた。

 恐ろしい傷跡になかば埋もれた両眼を、驚愕で一杯に見ひらいたまま。

 「ミニヨン、どうしたことだ‥‥」

 銅鑼(どら)のような声が、腹から絞り出された。


 驚きは、わたしも同じだった。

 たった今、わたしは、フランケンの万力のような両腕に抱きしめられ、身動きできないまま口づけされようとしていた。

 夢なら醒めて‥‥とわたしは念じたのだった。

 次の瞬間に、夢から覚めたような記憶がある。

 気がつくと、怪物から10メートルばかり離れて、セーヌ河岸に立っているのだった。

 「ミニヨン、お前、魔法を使うのか!」

 「魔法じゃなくって、瞬間移動能力というのです」

 自分でも知らなかった言葉が、口を突いて出た。

 脳内搭載百科事典、エンセファロペディアが立ち上がっていた。

 --あなたは世界時間の流れをいったん断ち切って、少し違った世界をくっつけた。この惑星の人間はそれを、夢から覚めてまた続きを見る、と説明していますーー

 「これって、夢なの?」と脳内に問いかけて、フランケンの巨体の背後に起き上がる人影を視野の隅に認め、われに返る。

 フェルゼン伯だった。

 恐るべき鉄拳から庇うと同時に、ひざ蹴りを見舞って気絶させておいたのだったが、気がついてふたたび怪物に挑みかかろうとしているのだった。

 いけない、来てはだめ!

 私は怪物を誘うように後ずさりした。

 「待て、ミニヨン、おれの話を聞いてくれ!」

 フランケンがもの凄いスピードで突進してくる。

 わたしは身をひるがえすと、月明りのセーヌ河岸を全力で走り出す。

 けれども、差がひろがらない。

 この巨体は、わたしと同等の運動能力の持ち主なのだ。


●フランケンの世にも奇妙な陰謀


 月が陰った。

 ノートルダム大聖堂の影に入ったのだ。

 大聖堂のファサードの奥に、巨大な洞窟のように黒々と内陣が口をあけているのが、視野の隅に飛び込んできた。

 わたしはためらうことなく、ファサードから聖堂内部へ飛び込んだ。

 暴徒に荒らされ、略奪を受けて、広大で荘厳な内部の空間には、荒廃の気が立ち込めている。

 「ミニヨン、待て、おれの話を聞け!」

 フランケンの声が追いかけて来る。わたしは、側廊から上に伸びた長い螺旋階段を駆け上がった。

 一気にドームの屋根の上に出る。

 蒼い月光に、奇怪な形のガーゴイル(水吐竜)の彫像がいたる処に浮かび上がる。

 ガタゴトという音に振り向くと、フランケンの巨影が、ガーゴイルの群像のあいだに浮かび上がっている。狭い螺旋階段をものともせずに、ドームの上に登って来たのだった。

 わたしは大きめのガーゴイルの陰に身を隠す。

 「ミニヨン、そこにいるのは分かってるぞ。手荒なことはもうしないから、俺の話を聞いてくれ」

 フランケンの顔の向きから見て、まだわたしを見つけてはいないようだった。そのまま気配を絶つ。


 「ミニヨン、お前がいかに俺を恐れ、忌み嫌っているかはよ~く分かった。俺は醜いからな。お前の好きなのはヴィクト-ル・フランケンシュタインであり、さっきのフェルゼンだ。そういうのを面食いというのだ。おかしなことではないか。醜い人造人間の俺の伴侶たるべく作られたもう一人の人造人間のお前が、こんな面食いだったなんて。いったいだれのしわざだ。ヴィクトールか、それともアグリッパ先生かーー

 「分かって来たことは、誰のせいでもないってことだ。俺だって醜いものより美しいものが好きだ。お前がこれほど愛らしい容姿をしていなかったら、こんなにもお前に執着していなかったかも知れないのだ。それが、人間というものなのだーー

 「ミニヨン、分かるか、俺がいま、とても重要なことを言ったということが。そう。たとえ人造人間であろうとも、俺たちは人間だということに、俺は気づいたのだーー

 「俺はお前が来るずっと前に、このパリに来ていた。お前が身を潜めるとしたら、この世界一華やかで、世界一乱れに乱れた大都会しかないと、目星を付けていたからだーー

 「この町に来て俺は、たくさんのことを見聞きし、そして書物からも学んだ。もとより俺の最初に覚えた言葉はフランス語だったからな。道端に落ちているジャコバン派やジロンド党のパンフレットを拾って読むことから始まって、セーヌ河岸に屋台を並べて売っている本から、夜影に乗じてルソーやモンテスキューやヴォルテールを万引きしてはむさぼり読んだ。俺が特に気に入ったのが、国民議会から発布された『人権宣言』だーー

 「ミニヨン、俺は確信するにいたったのだ。すべての人間は平等で、俺もお前も人間なら、だから俺たちは、この冬にギロチンにかけられたルイ十六世とも、まもなくギロチンにかけられるマリーアントワネットとも平等のはずだ、ということをーー

 「それなのになぜ俺は、人目を避け、夜闇にまぎれて生きなければならないのだ。パリに来る途中でも、俺は何度か、村で子どもたちに贈り物をしたりして、仲良しになろうと努めた。その結果はいつでも同じだ。村中の人間が鋤やクワや果ては猟銃まで持ち出して、追い立てるのだ。人間平等の精神にめざめたパリの民衆ならばあるいは、外見の違いを超えて人間性を認めてくれるかと期待したが、結果はまったく同じだった。民衆というものは永遠に愚劣なのだーー

 「そこで俺は考えた。愚劣な民衆に、真の人間平等を分からせるには、強力無比な指導者が必要だと言うことに。一時、俺は、ジャコバン派のロベスピエールに望みをかけた。けれど、間もなく悟ったのだった。ヤツでは力不足だ。強力無比な指導者としては、このフランケンこそふさわしいのだ。そう、体力は元より、知力でも俺以上の器は、革命派の中にはいないのだからーー

 「といっても、俺自身が、国民議会の代議士に立候補するわけにはいかない。だから裏からヤツを操る。それにはミニヨン、お前がぜひ必要なのだ。もちろん、ロベスピエールのことは調べあげている。女っ気がまったくないということもな。それでも弱点はある。ヤツの片腕といわれる、二十四歳の代議士、サン・ジェストを見たことがあるか。妖しいまでの美貌の持ち主で、明らかにロベスピエールのお気に入りだ。それなのに、男だから、欲情をそそられなくとも済むーー

 「つまり、ロベスピエールが弱いのは、男女を問わず、知性と美貌を兼ね備えていて、しかも身近にいて欲情をそそられなくとも済む人間だ。ミニヨン、お前の凍りついた人形のような美貌は、まさにロベスピエールの好みにピッタリなのだ。ミニヨン、ヤツに近付け。お前ならきっとお気に入りになれる。サン・ジェストの方は、頃合いを見計らって始末しておいてやる。そうだ、ロベスピエールを通して、俺とお前で、革命政府を蔭で操るのだ。大国フランスを意のままに動かし、真の人間平等の理想社会を、このフランケン様の恐怖の権力によって実現するのだーー」


●深夜の銃撃


 「フランケン、あなたは狂ってる!」

 ここまで聞いて、わたしは我慢できず、思わずガーゴイルの陰から立ち上がって叫んでいた。「恐怖の権力で平等社会を実現するだなんて」

 「ミニヨン、やはりそこにいたか。待て、こわがらなくていい。手荒なことはもう誓ってしない。だから俺の言うことを聞いてくれーー」

 フランケンが一歩一歩近づく。わたしも一歩一歩後ずさりする。

 「お前の知力も身体能力も、俺と対等。俺と同じく指導者たるべく生まれ合わせたのだ。それなになぜ、サーカスの芸人なんかをいつまでもやっているのだ。あげくの果てに、王党派に組してマリーアントワネット救出作戦に加勢すると来た。なぜお前が、人間平等の敵に加担する必要がある」

 ドームにそびえる尖塔の下に出た。後ずさりのまま、尖塔に絡み付いている螺旋階段を登っててっぺんに出る。

 フランケンが執念深く、螺旋階段に足をかける。けれど、古びた階段は巨体の重みに耐えられないと判断したものか、それ以上昇ってこない。

 月光に照らされて、セーヌ川の流れが、その向こうのパリの街並みが、静まり返って足下に展開する。

 地上まで百メートルの垂直距離。わたしにも、ひとっ跳びで無事降りられるか分からない。

 フランケンが用心深く尖塔の半ばほどまで登ってくる。

 「ミニヨン、飛び降りたりするな。いくらお前でもこの高さじゃただじゃすまないぞ。大事なからだだ。俺がこの世の闇の王になるときには、お前は傀儡王ロベスピエールのそばにあって、光の女王になるのだからな」

 「フランケン、やめて下さい。人間平等といっておきながら、王だの女王だのとーー」

 と、わたしが言いかけたときのこと。

 ガーンと銃撃の音が下からした。フランケンの巨体がピクッと痙攣して傾いた。

 「ミニヨン、逃げろ!」

 懐かしいヴィクトールの叫び声が、はるか下から届く。けれど、次に風に乗って届いたのは、血も凍る恐ろしい事実を告げる言葉だった。

 「フランケン、とうとう見つけたぞ。殺人鬼め。よくも私の許嫁、エリザベスを、彼女が目をかけていた小間使いのジョアンナを、さらにその幼い弟まで、惨たらしくも殺害してくれたな。私はお前を決して許さない。この場で息の根を止める」

 ガーンと二度目の銃撃音。傾きかけていたフランケンの体が虚空に投げ出された。

 けれど、何という運動能力だろう。落下しながら体を一回転させ、大聖堂の壁を蹴ると、セーヌ川の水面に水しぶきを上げて頭から飛び込んたのだった。

 「うぬ、逃がすか!世界の果てまででも追いかけて、お前の息の根を止める!」

 ヴィクトールが叫んで、河岸を下流に向かって走り去る。

 残された人影に、わたしはもう一人、懐かしい面影を見て、叫んでいた。

 「アグリッパ先生!」


●老魔術師の秘密


 一分も経たないうちに、わたしは地上でアグリッパ先生と向かい合っていた。

 尖塔の頂から地上を見下ろして逡巡するわたしに、老魔術師はこうアドヴァイスをくれたのだった。

 「ミニヨン、大丈夫だ。フランケンがやったように、落ちる途中で体を回転させて、足に壁が触れたら軽く蹴るのだ。それを繰り返せば、百メートルの高みからでも、怪我一つせずに飛び降りられるーー」


 「ヴィクトールは?」

 地上に降り立って発したわたしの第一声が、これだった。

 「フランケンを追って行った。どこまででも、たとえ北極まででも、追い詰めて息の根を止めるつもりだ」

 「エリザベスさんが殺されたのですか?」

 「それも、この上ないほど残酷な殺されようだ。なにしろ、ヴィクトールとの結婚式の前夜に、自室で、生きたまま首と手足を引きちぎられて。駆けつけた小間使いとその弟も、同じようにして殺された。」

 「ああ、どうしてそんな惨たらしいことが‥‥」

 「言いたくはないが、そなたに逃げられたのが引き金になったのだよ。自分の伴侶たるべく造られたのにこんなことになったのは、ヴィクトールのせいだとな。ワシとて同罪のはずだが、ヴィクトールが結婚を控えていたせいで、矛先がそっちに向かったのだ」

 「わたしのせいで、わたしのせいで‥‥」

 わたしは硬直したまま、つぶやいた。

 次にわたしの取った行動は、自分でも思いがけないものだった。

 年老いた魔術師の前に跪いて、こう訴えていたのだった。


 「アグリッパ先生、お願いです。教えて下さい。わたしはなぜ生まれたのでしょうか。世界最初の人造人間の伴侶たるべく造られたはずなのに、嫌悪と恐怖しか覚えず、逃げ回る日々。わたしは生まれない方がよかったのではないでしょうかーー

 「それなのにわたしは、こうして生きている。おまけに、脳内搭載百科事典エンセファロペディアなとという、知恵のかたまりを脳内に宿らせて。わたしはいったい、誰なのですかーー

 「この数カ月、わたしは、エンセファロペディアを相手に、自分は何者かを探究してきました。その結果、すべての謎を解く鍵は、アグリッパ先生にあることが分かったのです。今こそわたしは知りたい。三百年も生きているあなたが、普通の人間とも思われません。あなたはいったい、誰なのでしょうか。そして、このわたしが造られた本当の理由は何なのでしょうか‥‥」

 魔術師が、黒衣をひるがえして歩み寄る。やさしい手つきで、けれど老齢とは思えぬ力強さで、わたしを起こす。

 「かわいそうな乙女よ、立ちなさい。どうやらそなたに、我が存在の謎、そしてそなたの出生の秘密を明らかにする時がきたようだ。」

 そして、不思議な話を語り始めたーー    


●魔女ユッキー


 「わしはおよそ三百年前に、ライン川のほとり、ケルンの零落した小貴族の家に生まれた。幼少より神童の誉れ高く、一族の期待を一身に集めてひたすら勉学に励んだーー

 「わしが特に興味を持ったのが、古代エジプトから連綿と伝わる異端の教えであり錬金術や占星術、カバラの秘法だった。それらの異教的な書物には、教会公認の神学では得られぬ、この宇宙の秘密を解き明かす鍵が秘められていると思えたからだったーー

 「研鑽の甲斐あってわしは、二十四歳にして大著『隠秘哲学』を世に出し、当代きっての学者として認められた。その後はパリ大学教授にもなった。医学をも修め、魔術と錬金術の修練も重ね、大魔術師として畏怖とともに語られるようになったーー

 「けれども、修練の厳しさと、漂泊の生活での無理がたたってか、五十を前にしてすっかり老け込み、背後に死神の足音を聞くようになった。いまやわしの関心は、不死の妙薬に向けられた。が、どんなに広く異教の書をあさっても、医術と薬師の術を極めても、無益だったーー

 「そんなある日、イタリアのとある古い町で、正真正銘の魔女に出会ったのだ。黒いフードの蔭からそっと乙女の顔を覗かせながら、ギリシャの寒村に生まれて以来、二千年の歳月を、齢を取らぬまま生きてきたと言った。魔女は、ユッキーと名乗った。」

 「ユッキー」わたしは思わず口を挟んだ。

 「わたしが最近使っている、ユッキーナという名に似てるのですね」

 「顔もそなたに似ていた。人形のような顔立ち。黒い瞳、青みがかった銀色の短い髪。当然のことじゃ。ミニヨン、そなたの顔はこの魔女ユッキーの面影を元にわしがデザインしたものだからのう」

 「エエッー」と驚きの声を上げるわたし。


 「その魔女ユッキーが言うにはーー」アグリッパ先生が話を続ける。

 「自分は二千年以上も、人類を観測する役目を続けてきて、すっかり倦み疲れてしまった。そろそろ砂に還りたい。そのためには、若き導師アグリッパよ、あなたに贈り物をしなければならないーー」

 「そういうと魔女は、わしの額に白い手を当てた。そして、『コルネリウス・アグリッパ。あなたに賭ける』と意味不明なことを言ったかと思うと、体が見る見る崩壊し、たちまちひと山の砂になってしまったのだーー

 「何か疑問が起こると頭の中に立ち上がって囁き声で答えてくれる、脳内百科事典の存在に気づいたのは、その後のことだった。この脳内搭載型百科事典、エンセファロペディアこそが、魔女からの贈り物だったのだ。」

 「するとアグリッパ先生、わたしの頭の中にあるエンセファロペディアは、元々、ユッキーのものだったのですね」

 「その通りじゃ。だが、そなたも分かったと思うが、エンセファロペディアは甚だ扱いがやっかいだ。ようやく使いこなせて、宇宙の驚くべき秘密をかいま見るに至るまで、何十年とかかった。」

 「宇宙の驚くべき秘密とは?」

 「いまここで話しても、そなたの理解力を超えていよう。だが、最小限のことだけは教えておこう。まず、魔女ユッキーは人間ではなかった。銀河の彼方の神のごとき究極知性によって作られた、アンドロイドだったのだ」

 「アンドロイドって?」

 「人間そっくりに動き、考えさえする、精巧な自動人形のことじゃ」

 「そのアンドロイドは、神さまによって作られたのですか?」

 「神ではない。神は宇宙を作ったが、銀河の彼方の究極知性は宇宙の内部に自然発生したのだから。その形無き究極知性にとって、地球上の生命は、なかでも人類は、はなはだ謎めいた存在だったようだ。ユッキーのような観測と監視のための装置を送り込んだのだから。そして、ユッキーが砂に還ったあとは、このわしが、コルネリウス・アグリッパが、観測と監視の装置の役目をすることになった。不老の命とひきかえにーー

 「最初のうち、わしは、しだいに解き明かされる宇宙の秘密に夢中になった。だが、三百年もたって、そろそろわしも生に倦み疲れてきた。なにしろ不老といってもわしの場合は、五十を控えて老いさらばえたままの肉体で生きて来たのだからーー

 「そうして、生を辞したい願いが萌すとともに、俄然、ユッキーが、あなたに賭けるといった言葉が気になり始めた。いったい、わしは、本当には何をするために、不老不死の生を与えられたのか?

 「三百年目に、医学生だったヴィクトール・フランケンシュタインと巡り合い、人造人間を作り出したいという熱意に打たれ、これだ、と思った。ただのアンドロイドではない、血と肉を備えた不老不死の超人を作り出すことーー

 「人造人間第一号のフランケンは、けれど、失敗作だった。ヴィクトールに外見のデザインを任せたのが間違っていた。第二号のミニヨン、そなたでは、わしは全面的にデザインに介入した。そして、脳内搭載型百科事典もそなたに移植して完璧を期したーー

 「エンセファロペディアを失ったからには、わしはこれ以上は生きてはいられない。もうじき、ひからびてミイラになって、塵(ちり)に還る」


 「そんな、アグリッパ先生、わたしを置いて行かないで!それに、まだ教えてもらってないわ。わたしはこれから何をしたらいいのですか。どう生きて行ったらいいのですか!」

 わたしは叫んだ。アグリッパ先生の顔は、本当に、ミイラみたいに干からびて来ていた。

 「自分で考えるのだよ、ミニヨン。エンセファロペディアを使いこなせるようになって。‥‥そう、ひとつだけ教えてあげよう」

 すっかりミイラ化した口から、次のような言葉が切れ切れに洩れるーー

 「今から二世紀と十年の後、極東の島国、ジパングに、一人の少女が生まれる。生まれるというより、究極知性によって銀河の彼方から送り込まれるのだ。その少女の、この惑星での名は、ユキ・ナガトという」

 「ユキ・ナガト‥‥」わたしはくりかえす。すると、久しぶりにエンセファロペディアが立ち上がって、

 ーー長門有希ーー

 という文字の列を瞼の裏に描き出した。でも、すぐには読みが分からない。

 「その少女に会うのだ、ミニヨン。少女はそなたと同じ容貌をしている。人形のような白い顔。黒い瞳、青みがかった銀色の短い髪。ただし、そんなノッポではないけどな」

 「二世紀と十年を生きてジパングへ行き、マドモワゼル・ユキ・ナガトに会うのですね‥‥」


 答えはなかった。黒いマントがヘナヘナと折りたたまれるように地面に崩れ落ちた。折からの一陣の風に、マントの中からおびただしい塵が吹き出して、散っていった。

 大魔術師アグリッパが三百年の生を終え、塵に還ったのだった。

そして、風に舞う塵と共に、アグリッパの声を微かに聞いたと思った。

 声はこう言ったようだった。

 ーーそなたに賭ける‥‥


●エンドレスエイトの終わり、九月一日の朝


 オーシンツクツク、オーシンツクツク

 ツクツク法師の鳴き声で目を覚ます。

 九月一日の朝が来たのだ。夏休み後半二週間の、一万五千四百九十八回のくりかえしが終わったのだ。

 一昨日、SOS団のいつもの会合の終り際に、彼が、「俺の課題はまだ終わってねぇ!」と叫んだ。

 それで昨日は彼の家へ全員集合し、手分けして夏休みの宿題を片付けた。

 それでハルヒの思い残しのすべてが解消され、わたしたちは無限の時間ループから解放されたのだった。

 他の人々は、時間ループごとに記憶がすべてリセットされている。だから一万五千四百九十八回は、ただの一回、二週間分としてしか体験されていない。

 けれども、すべてを記憶しているわたしにとってはそれは、五百九十四年と約五か月なのだった。


 その日は学校では体育館で校長先生の訓辞を聞き、短いホームルームを済ませた放課後は、わたしとして珍しく、文芸部室に寄らずにまっすぐ自宅マンションに向かった。 昨夜見た夢の意味を、じっくり考えてみたかったから。

 元々、二週間のすべてがそっくり繰り返されるわけではなく、すこしずつ違っているところもあった。中でも夢は、そのつど微妙に違っていて、その違いを手掛かりにして時間ループに気づいた位だった。

 だからこの二週間のあいだに見た夢は、どれもこれも印象深かった。 なかでも印象が深いのが、昨夜も見た、フランケンシュタインの乙女と名づけた夢だった。

 オーシンツクツク、オーシンツクツク 蝉しぐれのなか、長い坂道を下りながら、夢の最後の場面を思い返した。

 二世紀と十年前にフランケンシュタイン研究所で生み出された人造人間のミニヨン、またの名をユッキーナ・アグリッパが、わたし、長門有希に会いに来る‥‥

 そう思い出すと、坂道を下った先の踏切あたりで、わたしと似た顔をフードに隠した長身が、待ち構えているような気がした。

 もし、本当に彼女が現れたなら、夢の登場人物が現実世界に出現したことになる。

 すると夢世界はただの幻影ではなくって、現実世界と平行して実在するもう一つの世界ということになるのかしら。


 踏切に着いたけれど、だれもいなかった。

 カタカタと音を立てて電車が通過するのを横目で見ながら、線路沿いの道をマンションに向かう。

 と、その時ーー

 閃くものがあった。ユッキーナ・アグリッパはもう長門有希に会っている!

 夢の中でわたしはユッキーナだった。そして今、長門有希なのだ。

 だからユッキーナ・アグリッパは、長門有希に会ったことになる‥‥

 これが、アグリッパ先生の、予言の真意だったのではないかしら。

 だとしたら、夢と現実は同時的に並行して存在するのではなくって、

 夢が終わったところから現実が始まる。

 現実世界が終わったところから夢世界が始まる。

 その繰り返しーー


 ガタゴトと、さっきの電車が終点から上り線となって引き返してきた。

 その轟音と、相変わらず続く蝉しぐれを縫って、わたしの耳に微かな歌声が届いたと思った。

 その澄んだ声は、こんな意味のことを歌っているようだった‥‥


 

 パリの闇夜を走るのはだれ

 フランケンシュタインの乙女ユッキーナ・アグリッパ

 運命の真っ黒い手から逃れようと

 ノートルダム寺院を跳び越え走る


 あなたへの想いは置いて来たの

 生まれたことが神さまに背く

 呪われた宿命に別れを告げて

 セーヌ川を跳び越えひた走る


 時の迷路を駆けるのはだれ

 フランケンシュタインの乙女ユッキーナ・アグリッパ

 二世紀と十年がやがて経ち

 ジパング島の小さな町に


 生まれるという星からの使者

 マドモワゼル・ユキ・ナガトに会うために

 その時、この夢も終わるのかしら

 それとも、新しい夢の始まり


 闇の宇宙を天翔けるはだれ

 SOS団の少女ユキ・ナガト

 いつか闇は光にあふれ

 また闇に還る永遠のくりかえしくりかえし

 

 <外伝「ソフィア姫と十字軍の伝説」https://kakuyomu.jp/my/works/1177354054894605588に続く>


【原作 Yuki Nagato, 脳内口述筆記 アグリッパ・ゆうき】

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