第9話 フランケンシュタインの乙女(マリーアントワネット救出作戦)

●1793年10月、パリ。夜の訪問者


「ミニヨン、あんたに会いたいというムッシュー(紳士)が来てるぜ」

 それは、パリ郊外のリュクセンブール公園にサーカス団がテントを張って、一週間目のこと。その日の出番が終わり、そろそろ宿を取っていた安ホテルに引き上げようとしていたところに、木戸番のシモンが呼びに来たのだった。

 「枕営業なら、断るように、言ったはず」

 わたしは、抑揚のない声でそっけなく答えた。

 「そ、そうじゃないみたいなんだ、ミニヨン」

 シモンは、松葉杖に寄りかかりながら、あわてたように答えた。

 元々はこの若者も、綱渡りの得意な将来有望な曲芸師だったというけれど、わたしがこのサーカス団に舞い込む少し前に、空中ブランコで失敗して片足が使い物にならなくなっていた。綱渡りも空中ブランコも事もなげにこなすわたしへの、賛嘆と憧憬のを隠さない(もっとも、賛嘆と憧憬の色は、団員のほとんどの男たちの目に浮かぶところだったけれど)。

 「俺は元々がここの出だから分かるんだが、フランス人じゃないぜ、あれは。外国のお忍びの貴族か将軍ってところだが、あんたの曲芸に感服したとか言っていた」

 「わかった。会ってみる」

 付いて来ようとするシモンを手で制して、わたしはテントを出る。

 木立の間の暗がりから、うっそりと進み出る長身の人影。

 「ミニヨン殿か」

 フードを目深にかぶって顔は見えないけれど、低いが張りのある声といい、全身からにじみ出る威厳といい、シモンのいうように外国の貴族か軍人っぽい。

 「何用です」

 「すばらしい曲芸技を見せてもらった。折り入って頼みがある。あなたにしかできない困難な任務だ」

 「まず、先に名乗っていただきたい」

 「失礼した。パリではこの首に懸賞金が掛かっているゆえ、北国の将軍としか名乗らぬつもりだったが。今、あなたと少し言葉を交わしただけで、たいへん口の固い方だとわかった。命掛けになるやもしれぬ仕事。名を明かそう」

 というと、フードを取る。折から雲間から出た月の光を受け、金髪が妖しく輝く。

 彫の深い高貴で端正な顔に、わたしはヴィクトール・フランケンシュタインの面影を見た気がして、視線を吸い寄せられる。

 「スエーデンの伯爵にして、王国軍の次期元帥、フェルゼン」

 「フェルゼン‥‥」

 その名には聞き覚えがあった。囚われの王妃、マリー・アントワネットの元愛人にして、昨年の国王一家の失敗した逃亡騒ぎの陰の首謀者。一月ほど前にサーカス団がドイツからフランス領内に入っていらい、噂は団員の間にも流れ込んでいたのだった。

 「私の名を聞き及んでいられるならば話が早い。わが王妃は、このままでは早晩ギロチンにかけられる。半年前のルイ16世陛下と同じく。いそぎ、コンシェルジェリーの要塞監獄から、お救い申し上げねばならぬ。それにはミニヨン殿、あなたの超人的な曲芸わざがどうしても必要なのだ‥‥」


●魔術師アグリッパの十代目の子孫


 その夜、晩くなってから、わたしは渡された地図を頼りに、セーヌ河に面した隠れ家を訪れた。

 古びた家の前で教えられた合言葉を言うと、扉がギーッと音を立てて開く。

 内にいた、6,7名の男たちの視線が集中する。

 長身の男が進み出ると、

 「ミニヨン殿、よく来てくれた」と言った。フェルゼン伯だった。

 「紹介しよう。彼女が、話していた軽業師。齢は若いが我々の計画にはぜひとも必要な人物だ」

 「軽業師だって。いったいどういう出自の女なんだ」

 一同の中から、危ぶむような声が上がった。

 「ミニヨン殿、自己紹介を」フェルゼン伯が促す。

 「インゴルシュタットのユッキーナ・アグリッパと申す者です。ゆえあって仮の名で旅のサーカス団に身を潜めておりますが、16世紀のパリ大学教授、コルネリウス・アグリッパ博士のちょうど十代目の子孫に当たります」

 わたしは、あらかじめ考えておいた、架空の名と身元を言った。サーカスの団長はわたしを、フランクフルトのヴィルヘルム・マイスター氏の娘と思い込んでいるらしいが、裕福な商人の娘がサーカス団で超人的な技を披露するというのは、どう考えても不自然だったから。

 「おーっ」と、どよめきが上がった。

 「するとあなたは、あの伝説の大魔術師の正真正銘の末裔というわけか」フェルゼン伯が、感心したように言った。「どうりで只者ではないと思ったよ」

 「オスカル、まさかオスカルではないだろうな‥‥」

 一同の間から、ふらふらと立ち上がる人物があった。かなりの年配らしいが、フェルゼン伯に引けを取らぬ威厳があった。

 「まさかと思うが、背格好から、しゃべり方から、あの、国王の命に背いてバスチーユ広場で戦死した、不忠な娘とそっくりだ」

 「違いますよ、ジャルジェ将軍」

 フェルゼン伯が苦笑して言う。「ミニヨン殿、フードを取りたまえ」

 「おおーー」フードを取ると、一同がまたどよめく。

 「確かに、違う」とジャルジェ将軍。

 「珍しい青みがかった銀色の髪。闇夜に星を鏤めたような黒い瞳。陶器の人形のような顔。血の通った人間の少女とも思えぬ」

 遠くを見るような目になって言葉を継ぐ、老将軍。「若いころ、先王ルイ15世陛下の宮廷で、時計師ヴオーガンソンの、オートマトンとかいうゼンマイ仕掛けの人形を見たが。まるでそのオートマトンがアグリッパの魔術で息を吹き込まれたようじゃ」


 ジャルジェ将軍の連想は、まぐれにしても正鵠を射たところがあって、わたしは内心に冷や汗をかいていた。

 インゴルシュタットのフランケンシュタイン研究所から逃げ出し、サーカス団に身を隠して三か月。

 昼間は、もって生まれた身体能力を生かして屋外ステージで美技を披露しながら、夜をもっぱら、このわたしは何者かの、謎の探索に充てていた。

 お相手は、あの、気まぐれに脳内に立ちあがっては質問に囁きで答えてくれる、脳内装備型百科事典、エンセファロペディアだった。

 その言うところでは、現在の科学力ではフランケンやわたしのような人造人間を作るのは、ぜったいに無理だという。ヴィクトール・フランケンシュタインは天才的な科学者であっても、アグリッパ先生の指示通りに動いたにすぎず、人造人間誕生の秘密は、この、三百年を生きる大魔術師の神秘力にあるという。

 --神秘力って、どんな力?エンセファロペディア。

 --情報というものを操作して、元素を自在に変換する能力。人類が、あと千年の間、順調に科学力を発展させて、初めて追いつくような力。

 --そんな力をもってるなんて、それに三百年も生きているなんて。アグリッパ先生とは何者?

 --普通の人間ではないとだけしか今は言えない。それ以上のことは禁則事項。時がくればアグリッパが直接あなたに教えるでしょう。

 --そんなことまで心得ている、あなたは、エンセファロペディアのあなたは、いったい何もの?なぜ私の脳内に最初から装備されていあれたの?

 ーー禁則事項。

 ーーそんなら(と、わたしは、角度を変えて質問を続けた)、これなら答えてもらえるかしら。あのフランケンの脳内にも、あなたのような百科事典が装備されているの?

 --フランケンは試作品。エンセファロペディアは設定されていない。だから、彼がヴィクトールに語ったように、フランス人亡命者一家の納屋に隠れているあいだに、言葉を一から覚えなければならなかった。

 --では、アグリッパ先生は?普通の人間でないなら、もしかして‥‥

 --今は、アグリッパの脳内には、ない。けれども、かつてはあった。

 --かつては?

 ーーそう。この私はもともと、アグリッパの脳内に装備されていた。ミニヨン、あなたが誕生すると同時に、私はあなたへと移植されたの。あなたを完全な人造人間にするために。

 そうだったの。わたしは内心に嘆息した。だとしたら、アグリッパ先生の知性を受け継いでいるわたしは、パリ大学教授の大魔術師の十代目の子孫を名乗っても、決しておかしくはないのだった。


●要塞監獄への侵入


 フェルゼン伯たちの王妃救出の計画は、次のようなものだった。

 真夜中にわたしが、コンシエルジュリー要塞の城壁をよじ登って、北東の端にそびえるボンベック塔の窓から、牢内に侵入する。

 このルートだけが、王妃の独房に隣り合った牢番のリシャール夫妻の部屋に直結しているのだった。

 牢番夫婦に会ったら縛り上げて鍵束を奪い、まず牢番の部屋と衛兵詰所の間の扉をひらく。

 「私は衛兵詰所のすぐ外に一人で待機している。なに、当番の衛兵のジルベールもデュシエーヌも抱きこんである。もともとアントワネットさまに同情的だった者たちだからな。そして、ミニヨン、あなたを伴ってアントワネットさまの独房に入り、説得してお連れする。城壁の外では、ジャルジェ将軍を始め数名の手のものが、馬車を用意して待っている」

 「説得するのですか?」わたしは不審に思って、問うた。

 「最初は脱出を承知されない可能性もないではないのだよ。ルイ・シャルル王子、マリー・テレーズ王女の、二人の最愛の御子たちを置いて、ひとりだけ逃げるわけにはいかないと。けれども、アントワネット様が自由の身になれば、全フランスの、全ヨーロッパの王党派が勢いづくし、有利な取引にも持ち込めるというものだ。それに何と言っても、アントワネット様の処刑の日は、もう一週間後に迫っているのだよ‥‥」


 決行は、翌日の夜11時と決まった。


●深夜のSOS団会議


 枕元の電話が鳴って、わたしの夢は破られた。

 受話器を取り上げると、古泉一樹の声が流れ出す。

 「長門さんですか。ちょっと困ったことが起こっているようで、いま、朝比奈さんと話し合ってるんですけど。長門さんも、今、駅前公園まで来られませんか」

 「もしかして、未来との交信ができなくなった?」

 「さすが長門さん、事態は把握してるようですね」

 「分かった。すぐ行きます」


 手早くセーラー服に着かえると、駅前公園への夜道を急ぐ。

 時間ループが始まってからようやく、朝比奈みくると古泉一樹も、八月三十一日以後の未来がなくなっていることに、気づいたらしい。

 コンビニの角を曲がると、そこは夜間の道路工事中。明るく照らし出された中に、二台の工事用トラックが止まっている。

 一台のエンジンがかかったかと思うと、運転席のドアがひらいて、男がひとり身を乗り出す。

 「お嬢ちゃん、こんな時間にどこ行くの。危ないよ。送ってくよ」

 「そうだよ、お嬢ちゃん、そんな恰好して。目、付けられるよ。ここら辺、悪いヤツが多いんだから。トラックに乗んなよ」

 もう一人の男が、トラックの陰から現れて、言葉を添える。

 悪いヤツって、あんたらのことでしょーーとでもハルヒなら言い返したところかも知れないけれど、わたしは無視して足を速める。


 夏休みが始まっていらい、日が暮れてから外出すると、決まってナンパにあってうんざりしていた。

 最初のころは、あんまり煩わしいので、電信柱のてっぺんまで蹴り上げて、次いでに記憶も書き換えてやったこともあった。

 けれども、大騒ぎになって、天狗のしわざだとニュースにもなったので、以後は無言無表情を貫くことにした。

 その翌日の早朝からSOS団は離島に合宿に行ったので、ニュースはハルヒたちに知られることがなかったのが、幸運だったけど。

 もしナンパに付いて行ったらどんな展開になるのかしら。

 ふっと、その時、初めてそんなことを思った。

 いよいよとなったら瞬間移動で脱出すればいいのだし。だから、退屈しのぎにはなるかも。

 そこまで考えて、退屈という感情を、いつのまにか獲得していたことに気づいた。

 これも無限ループのせいに違いなかった。


 駅前広場に着くと、古泉一樹が、いつもの通りの笑顔で迎えてくれた。

 傍には朝比奈みくるがうずくまっている。

 ほどなくして、キーという自転車の急ブレーキの音を鳴らして、彼が到着する。

 「いったい何なんだよ」

 「夜分に申し訳ありません。ですが、あさひなさんがこの通りの事態ですので」

 「ふええ、キョンくん、あたし、未来に帰れなくなりましたぁ‥‥」

 朝比奈みくるは、ときおりしゃくりあげながら、説明を始めた。

 「うー、ええと‥‥、『禁則事項』でいつも未来と連絡したり『禁則事項』したりしてるんですけと‥‥くすん。一週間くらい『禁則事項』がないなぁおかしいなぁって思っていたの。そしたら『禁則事項』‥‥。あたしすごくビックリして慌てて『禁則事項』してみたんだけどぜんぜん『禁則事項』でー‥‥うう。ひい。あたしどうしたら‥‥」

 「俺たちはハルヒの作った変な世界に閉じ込められているのか?」

 「世界を作ったわけではありませえん。涼宮さんは時間を切り取ったんです。八月十七日から三十一日の間だけをね。だからこの世界には、たった二週間しか時間がないのです。‥‥」


 彼と古泉一樹のやり取りを聞きながら、わたしは別のことを考えていた。そう、電話で起こされるまで見ていた夢のことを。

 あの夢のなかでわたしは、フランケンシュタインの乙女こと、人造人間のミニヨンになってサーカス団とともに旅していた。

 その夢のなかでも、何度か「禁則事項」という言葉を聞いたのだった。

 そう、それは、ミニヨンの頭のなかで囁く脳内装備型百科事典(エンセファロペディア)の言葉だった。

 現実のこのわたし、情報統合思念体によって作られたヒューマノイド・インターフェースである長門有希にも、脳内装備型日本語変換辞書というのが設定されている。

 似たようなのに、どうして名前が違うのかしら。

 わたしは、思いついて、日本語変換辞書を呼び出してみた。ついでに時間ループ脱出法も聞きたかった。

 けれども、応答は得られなかった。夏休みに入って以来、日本語変換辞書は沈黙を続けているのだった。


 「それで、長門さん、何回ぐらい僕たちは同じ二週間をリプレイしているのですか?」

 古泉一樹の声にわれにかえって、わたしは答えた。

 「今回が6728回目に該当する」

 一同、絶句したようだった。

 もちろん、普通の人間の記憶は、八月三十一日の24時ジャストになった瞬間、一気にすべてがリセットされ、また17日に戻ってくるのだ。

 わたしも最初は、同じだった。けれど、夢のほんのわずかな違いを手掛かりとして、記憶の完全リセットへの防護策を講じることができた。

 今となっては、それが良かったことかは分からない。

 「すると、長門、お前はこの二週間を、6728回もずっと体験して来たのか?」

 「そう」

 「お前~~」言いかけて、彼は口を閉ざす。

 それじゃ、退屈だっただろう、などと言っても仕方ないと気付いたのだろう。

 「どうして今までだまってだんだ?俺たちがエンドレスな二週間ワルツをやってることをさ」

 「わたしの役割は観測だから」

 「それはいいとして」困り果てたように、彼が質問を重ねる。

 「俺たちがこのことに気づいたのは何回目だ」

 「初めて」

 「初めてだって?」

 「初めてですか?」

 彼と古泉一樹が声を重ねる。

 「それなら手の打ちようがあるわけですね」

 けれど、わたしは知っている。ループはまだまだ、ほとんど無限に続くことを。


 その夜、マンションへの帰り道、わたしは次のふたつのことを思った。

 一つは、ナンパに付いて行ってみることだった。工事のトラックは二台ともいなくなっていたが、機会はこれからもいくらでもある。

 なにしろ時間は、たっぷりあるのだから。

 もう一つは、夢の続きを見ることだった。


 そして、夢の続きを見た。


●囚われの王妃


 コンシェルジェリーの牢獄は昔は王宮だったという。パリのどまんなかシテ島に、ノートルダム大聖堂と並んで、壮麗な建築が建っているのがそれだった。

 月のない夜だった。わたしはセーヌ川に浮かんだ小舟から跳躍して、そそり立つ城壁へと取りついた。

 昼間、やはり小舟でフェルゼン伯と下見をして、よじ登るのは困難ではないと判断していた。

 登攀すること10分余り。北西の隅にそびえるボンベックの塔にたどり着く。

 グラスも何も嵌っていない、吹きさらしの窓から侵入すると、螺旋階段を1階まで一気に降りる。

 覚え込んだ地図の通りに、北壁の内側に沿った無人の回廊を行き、牢番のリシャール夫妻の部屋へと、横手から入り込む。

 夫婦のうち、一人は起きているはず、ということだったが、二人とも寝入っていたので、造作なく縛り上げて猿轡をかませる。

 鍵束を奪い、まず、憲兵控室への鉄格子の扉を開く。

 合言葉とともに、長身が現れる。

 反対側の、王妃の独房にいたる鉄格子の扉を開く前に、フェルゼン伯が私に言う。

 「フードを取った方がいい。ミニヨン殿。王妃さまもあなたを、オスカル殿と間違いかねないから」

 わたしの、女性としては破格の身長は、フランケンの花嫁としてのつり合い上、設定されたものだったが、ジェルジェ将軍の娘で元の近衛大隊長、オスカル・フランソワは、わたしと同じくらいの背丈だったというのだった。

 「アントワネットさま」

 フェルゼン伯の呼び声に、独房の奥から燭台の灯が近づく。

 「フェルゼン!」悲鳴のような声が、小さく上がる。

 「どうしてここに‥‥」

 目の前に華奢で小柄な女性が立っていた。

 齢の頃は、中年にさしかかっているとおぼしい。蝋燭の灯の下で、真っ白い髪が痛々しい。

 やつれてもいるし若くもないが、今まで見た人類の女性の中で最も美しい女性であることを、わたしは確信していた。

 --朝比奈みくるの異時間同位体ーー

 そんな奇妙な言葉が、脳裏にひらめく。エンセファロペディアの仕業でもないようだった。

 「アントワネットさま、お救いに来ました。すぐお逃げください。衛兵は抱き込んであります。城壁の外では、ジャルジェ将軍はじめ同志らが、馬車を仕立てて待っております」

 「フェルゼン、私ひとりに逃げよというのですか。わが子らを、王子と王女を置いて」

 「アントワネットさま。プロイセン軍とオーストリア軍が、国境を越えて迫っているのです。王妃陛下が脱出すれば、フランスの、そじて全ヨーロッパの王党派が勢いづくでしょう。有利な条件で革命政府と交渉し、王子さま王女さまを奪還することも、不可能ではないのです」

 「フェルゼン、そのような夢のような計画に身をゆだねてまで、もう生きたくはありません。それに、言いにくいのですが、フェルゼン伯の手引きで逃亡したという噂が流れれば、私の悪い評判を裏書きすることになってしまいます」

 「何をおっしゃられる、アントワネットさま!」

 「私は知っています。ルイ16世陛下がギロチン台に引き出された時、群集のあいだから、あんたは悪くない、ただの可哀そうな寝取られ亭主だ、悪いのはあのオーストリア女だ、宝石まみれの雌豚だ、という声が上がったことを」

 「おお、アントワネットさま、そのような妄言に耳を貸されますな」

 「いいえ、妄言ではありません。フランスの民が憎んでいるのは、このマリー・アントワネットだた一人。もう私には、ありとあらゆる罵声を浴びながらギロチン台に登って首を差し出す以外に、フランスの女王としての、神聖ローマ帝国の皇女としての、誇りを守るすべがないのです」

 「ああ、アントワネットさま、かわいそうな私の女王‥‥」

 「フェルゼン、あなたを永遠に愛します‥‥」

 ふたりは、ひしと抱き合って咽び泣いた。

 「フェルゼン伯、時間がーー」わたしは思い切って、声をかけた。

 二人はパッと身を離した。

 王妃が私の存在に、初めて気づいたようだった。

 「フェルゼン、この者は何者です?見れば、先王ルイ15世陛下の宮廷で見た、時計師ヴォーガンソンの自動人形そっくりの顔。血の通った人間とも思えませぬ」

 「侵入の手助けをしてくれた、曲芸師のミニヨンと申す娘ーー」

 「本名は、インゴルシュタットのユッキーナ・アグリッパ。16世紀のパリ大学教授、コルネリウス・アグリッパの十代目の子孫にございます」

 「では、あの、伝説の大魔術師の末裔なのですね。どうりでーー」

 と、あらためてしげしげと見遣ると、「ミニヨンとやら、命令です。このフェルゼン伯を安全なところまでお連れしなさい」

 「おお、アントワネットさま。私の魂は永遠にあなたのものです‥‥」最後の別れの言葉を告げる、フェルゼン伯。


●悪鬼再臨


 要塞を出て、無言で待ち合わせ場所の橋へと向かう。

 「おかしい、馬車がない」

 「フェルゼン伯、あれはーー」

 わたしは、橋のたもとに蹲ったような、黒い物体を指差す。「馬車がひっくり返っているみたいです」

 「みんなもいない。どうしたんだーー」

 と、ひっくり返った馬車の裏側から、人影が現れる。

 人影というには巨大すぎる影だった。片手に人間をひとり、掴んでぶら下げている。

 「あれは、ジャルジェ将軍!」

 フェルゼンが悲鳴のような声をあげると、剣を抜き放ち、巨大な影に突進する。

 「待って、フェルゼン伯、あれはーー」

 わたしの声に耳を貸さず、「化物め、将軍を放せ!」

 叫んで切りかかる、フェルゼン。

 次の瞬間、星明りに剣が砕け散るのが見えた。

 巨大な影は片手に掴んでいたジョルジェ将軍を放りだすと、跳躍した。次の瞬間、恐るべき剛拳が伯爵を襲った。

 「まって、フランケン、その人を殺さないで、わたしならここにいる!」

 叫びながら、二人の間に飛び込み、両手ではっしと鉄拳を受け止める。

 次の動作で巨大な拳を受け流し、城壁のような胸板を裂帛の気合を込めて掌底で突く。

 次の瞬間、巨体はセーヌ川にもんどりうって落ちるはずだったがーー

 びくともしなかった。逆にわたしの方が太い腕に抱え込まれて、身動きとれなくなってしまった。

 「ふっふっふ、同じ手は二度とは喰わぬぞ。ミニヨン、とうとうつかまえた。俺の花嫁。もう逃がしはしない」 

 巨大で醜悪な顔が迫る。

 口づけするつもりだ、この怪物はーー

 お願い、夢なら醒めてーー

 わたしは心に叫んだ。

 次の瞬間、眼が覚めた。


  <長門有希詩篇Ⅹに続く>

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