長門有希詩篇
アグリッパ・ゆう
第1話 わたしがこの惑星に舞い降りた夜
銀河の彼方にいた時のことは憶えていない。
わたしがわたしになったのは、白い水の結晶が舞い落ちる夜
あとからあとから舞い落ちる、この惑星の奇蹟のひとつ
ーーユキっていうのよーー
誰かが、わたしの中でささやく
ユキ‥‥ゆき‥‥雪
この星に有り余る元素から構成されたばかりの、舌という器官の上で
わたしはこの語をころがし
インストールされたばかりの脳内装備型日本語辞書で変換する。
雪‥‥ユキ‥‥由紀‥‥有紀‥‥有希
有希‥‥この文字まできて、何か前方がパッと開けるような感覚があった。
日本語辞書を脳内にさらに繰る
希(のぞ)みが有(あ)る‥‥
のぞみって、なに?もどかしく自分の内側に問う
分からない。でも、この文字は、この名は
この惑星の♀型有機知性体に多い名前。
目立たない方がいい。わたしの役目は観測だから。
弓状列島のこの地域に棲まう、
とある有機生命知性体の観測だから。
これを自分の名前にしよう。
☆ ☆
わたしはおもむろに歩き出す。
コツ、コツ、コツ‥‥
靴底から伝わるタイルの固さが全身を突き上げる。
でも、この公園からどこへ?
ザッ、ザッ、ザッ‥‥
異質的な靴音が鼓膜に振動を届ける。
暗い公園を見回す
人型の影が近づく
身長175cm。わたしよりちょうど頭一つ高い
横幅も広い。体重78kg
♂型有機知性体‥‥
いいえ、そう言ってはいけない。私は有希という人間になったのだから
「男が近づく」と言わなければ。
そしてわたしは少女。少女としてのこの場の適切な反応はなに?
「ネエチャン、風邪引くよオ」
大きな声が鼓膜を振動させる。
警戒信号(第3度)発令
わたしの視線が体内装備型赤外線スコープとともに
男の顔をとらえる。
男の視線がわたしの胸に注がれる。
つられて思わず自分の膨らんだ胸に視線を落とす。
「セーラー服。北高生じゃないか」
男の視線がさらに下へと移動し、
その目に粘っこい白い光がたたえられる。
全身の肌に粟粒が生じる感覚
脳内(感覚→日本語)変換辞書発動
‥‥オ・ゾ・マ・シ・イ‥‥
警戒信号が第2度に高まる。
「どう、オジサンと遊ばない?お小遣いあげるよ」
ハァ、ハァと荒い息が耳にかかる。
警戒信号第1度。防御反応準備ーー
男の手が体に触れる寸前に、片足を蹴り出す。
「ギャッ」という声を残し、男の体は雪舞う夜空に
軌道計算通りの放物線を描き
公園の反対側のひときわ高い樹影の先端にひっかかる。
バキバキバキと音立てて地面に落下
赤外線スコープを使って情報を解析する。
動きはない。けれど生体反応は正常
そのときーー
コツ、コツ、コツ‥‥
先ほどから微かに聞こえていた
靴音が背後に近づいて止まる。
「そんなことしては駄目よーー」
振り向くと、わたしと同じ年頃の少女が立っている。
身長160cm。わたしより少し高い。
「この星で女の子でいることにはリスクがある。けれど、うまくやればそれを上回るメリットがあるわ」
「あなたは‥‥」
「あたしの名は朝倉涼子。あなたと同じ。情報統合思念体によってこの惑星に送り込まれた、対有機生命体コンタクト用ヒューマノイド・インターフェース」
それから付け加えた。「そしてあなたのバックアップ」
「知らなかった。わたしにバックアップがあったなんて」
「まったくもう、あたしより2ランクは高性能のインターフェースだって聞いていたのに」
そして、わたしの全身をまじまじと眺め、付け加える。
「それに、この寒いのにセーラー服一枚だなんて」
寒いって?
そういえば先刻から、下肢のむき出しの部分に
無数の針でチクチク刺されるような感覚。
別に回避行動を要するほどではないのだけれど。
脳内(感覚→日本語)変換辞書発動。
‥‥刺すような寒気‥‥
朝倉涼子はこの星の言葉で「コート」と呼ばれる長い服をまとい、
マフラーと呼ばれる布切れを首に巻いている。
「おまけにもう、北高の制服。入学は三年も後のことだというのに。あなたを送り込んだ情報統合思念体主流派さんは、いったい何を考えてるのかしら」
そして、私のからだに観察するような視線を注ぎーー「まさかね、有機体構成時にバグが発生したなんてね」
ピーポーピーポー
闇の中を近づいてくる音。私の中で警戒信号第3度が立ち上がりーー
「救急車が来る。ここにいてはいけないわ」
「でも、どこへ」
「あたしたち、ヒューマノイド・インターフェースの秘密基地。高級マンションとこの惑星では、この地域では言ってるわ」
くるりと背を向けて足早に歩みだす、彼女のあとを追う。
コツコツ、コツコツ、と、二組の靴音を闇に響かせながら。
聴覚感度を高めると、街中の靴音がワッと押し寄せて来てーー
コツコツ響く音が♀型、じゃなかった女の、
ザッザッという音が♂型、じゃなかった男の靴音と、
たった今、わたしは学んだ‥‥
この惑星で、とくに夜の公園のようなところに
少女としてひとりいることの危険も。
でも、うまくやればそれを上回るメリットがあるって、何?
樹のてっぺんまで蹴り上げるのよりも、うまいやりかたって‥‥
あとで、彼女に聞いておかなければ‥‥
わたしは無言のまま、朝倉涼子のすらりとした後ろ姿にしたがう。
やがて闇の中から光輝く巨大な建築が姿をあらわす。
それが、この惑星に舞い降りた、初めての夜の記憶。
桜の開花を前に季節外れの雪の舞った日だったと、あとから聞いた。
銀河の彼方にいたときのことは、もう憶えていない。
(原作:Yuki Nagato/ 脳内口述筆記:アグリッパ・ゆうき)
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