第2話 銀河の彼方に帰りたい、帰れない

「ねえ、みなさん、故郷を懐かしむって、どういうことか知ってます?」

 ある晩、わたしのマンションの部屋に、喜緑さんが来て言った。

 喜緑江美里さんは、わたしの後から現われた、対有機生命体コンタクト用ヒューマノイド・インターフェース。

 送り込んだのは、銀河を統括する情報統合思念体の、穏健派だという。

 この惑星に来たのは最後になったけど、

 わたしや朝倉涼子にない能力があって、

 早々と涼宮ハルヒが一年生をしている東中の、二年次に編入になった。

 わたしたち宇宙人インタフェースは、成長しないし齢も取らない。

 だから、私たちの共通の観測対象であるハルヒが高校入学するのと同時に同学年になるためには、

 3年間をマンションの一室で、ひっそりと待機モードでいなければならない。

 でも喜緑さんには周囲の人に、自分たちと同じく成長していると見せる情報操作技能が、伝統的日本語で分かりやすくいえば「隠形の術」がある。

 「脳内日本語辞書検索で意味はわかるけど、それがどうしたの?喜緑さん」

と、朝倉涼子。

 今夜は三人がわたしの部屋に集まって、喜緑さんの高校訪問の話を聞いている。

 東中では二年生から始まる、志望校を決めるための集団での高校訪問。

 その日、喜緑さんたちが訪れたのは、北高。

 光陽園学院と並んで、ハルヒが入学する可能性のある高校だった。

  「部活紹介で文芸部を訪れた時のことなんです。文芸部長はスコットランドのエディンバラに12歳までいたという帰国子女。その人が、今でもスコットランドが懐かしい、故郷だと思っているといって、本棚から取って見せてくれたのが、『バーンズ詩集』という小さな古い本」

 「その本、借りて来たの?」とわたし。

 「学外者には貸し出せないんだって。その代わり、一番お奨めだという詩を記憶して来たわ、長門さん」

 「聴きたい」

 「そんなことより、もうすぐおでんが煮えるわ」と朝倉涼子。

 「この惑星の人々にはたいてい故郷があって、おりにふれては懐かしむのです。地球人類を理解するのに役立つことは、何でも知っておいた方がいいでしょうね」

 「聴きたい」とくりかえす、わたし。

 喜緑さんはよく徹る声で、歌うように、「我が心はハイランドにあり」という詩の朗誦を始めた。ちなみにハイランドとはスコットランドの高地地方のこと。ロバート・バーンズは二百年前のスコットランドの詩人で、高地地方を心の故郷[ふるさと]とするスコットランド人の想いを歌い上げたものだという。


 〔我が心はハイランドにあり〕


 我が心はハイランドにあり、我が心は此処にあらず。

 我が心はハイランドにありて鹿を追う。

 野の鹿を追いつつ、牝鹿に従いつつ、

 我が心はハイランドにあり、我いずこへ行くも。

 いざさらばハイランドよ、いざさらば北の国よ。

 剛勇の生地よ、価値ある者の国よ。

 我いずこを彷徨[さまよ]うも、我いずこを漂泊[さすら]うも、

 ハイランドの山々を我永遠[とこしえ]に愛す。


 いざさらば山々よ、高く雲に覆われたる。

 いざさらば大峪[たに]よ、又下なる緑の谷よ。

 いざさらば林よ、又生い茂る森よ。

 いざさらば急流よ、どうどうと流るる川よ。

 我が心はハイランドにあり、我が心は此処にあらず。

 我が心はハイランドにありて鹿を追う。

 野の鹿を追いつつ、牝鹿に従いつつ、

 我が心はハイランドにあり、我いずこへ行くも。



 しばし、沈黙がその場を支配した。

 そうっと横を見ると、朝倉さんが涙を流している。

 朗誦を終えた喜緑さんの目にも、光るものがあった。

 わたしには涙はない。微笑むことさえできない。

 わたしはユニークだから。

 朝倉さんにいわせれば、それがコミュ障なのよということになるらしい。

 そして有機体構成の際のバグのせいではないかと疑っているらしい。

 けれども、わたしは知っている。

 この二人の人格は、実在する日本人少女ふたりの人格を、

 そのままスキャンして設定した、模擬人格だということを。

 わたしには模擬すべきモデルはなかった。

 だからゼロからこの惑星で学習して、

 人格を作り上げて行かなければならない。

 いつか涙の意味を知るために。

 いつか微笑むことのできる日のために。

 「ステキな詩。でも、わたしたちの故郷はどこ?そう、銀河の彼方の情報統合思念体。でも、もう記憶がほとんどないわ」と朝倉涼子。

 「あたしもそう。情報はいつもつながっているけれど、銀河の彼方にいたときの回想記憶にはならない」と喜緑さん。

 「あたしたちは、情報統合思念体の端末というより、本体から切り離されてこの惑星に放り出された、ただの有機アンドロイドなのだわ」と朝倉涼子。

 「そうかな?」とわたし。「最近、夢というものを見るようになった」

 「夢?あたしの見るのは、この朝倉涼子の元人格の子どもの頃の夢。ほんとの自分の夢じゃないわ」と朝倉涼子。

 「わたしには元人格はない。だからわたしの夢が誰の夢かは分からない。でも、確かに見ている」

 「どんな夢?教えて」と喜緑さん。

 「その夢のなかでは、エックス線星は歌い、超新星は紫の輝きを放ち、はるか渦状銀河団がひしめき、ブラックホールが音もなく崩壊していた‥‥」

 朝倉涼子がけたたましく笑い出した。「キャハハハ、超おもしろい。エックス線星が歌うだなんて」

 「でも、それって、詩になるかもね。バーンズのハイランドの詩の調べに合わせて。我がふるさとは銀河の彼方、なんて。長門さん、朝倉さん、詩にして歌いましょうよ。ひょっとして記憶が甦るかも知れないから。

 喜緑さんの提案にしたがって、わたしたち三人は目と目を見つめ合った。それが、わたしたちヒューマノイド・インターフェースの、朝倉さん流にいえば有機アンドロイドの、最も効率的な情報交換と相互同調の、方式だから。

 やがて三体の宇宙人製有機アンドロイドの口から、涼やかな調べが流れ出し、おのずと合唱となった。



 わが故郷[ふるさと]は銀河の彼方

 光が生まれて光の果てるところ

 エックス線星は歌い

 超新星は紫の輝きを放ち

 はるか渦状銀河団がひしめき

 ブラックホールが音もなく崩壊する

 重力が果てて重力の生まれるところ

 銀河の彼方に帰りたい、帰れない

 銀河の彼方に帰りたい、帰れない


 さよならも告げずにわたしは来た

 銀河のさいはての小さな星に

 砂から作られたこのからだで

 この惑星の有機体に宿る

 生命と知性とを観測するために

 いつか役目が終われば砂になる

 異郷の星の砂になる、塵になる

 銀河の彼方に帰りたい、帰れない

 銀河の彼方に帰りたい、帰れない



 歌い終わると、朝倉さんはさめざめと泣き出した。喜緑さんもまた、目に涙を浮かべている。

 と、次の瞬間、「しまった、おでんが煮えすぎだわ」叫んでキッチンに駆けいる朝倉涼子。まったくモードの切り替えの早い人だ。

 その後、おでんをつつきながら、しばらく談笑した。といってもわたしには、他の二個体のようにはガールズトーク機能が付いていないので、もっぱら食べるのに専念していたのだったのだが(わたしたちは地球人少女としては「大食い」らしいが、それは情報統合思念体との交信機能、環境情報制御機能を始めとして、人間には想像もつかない高度な情報解析能力や移動能力、そして有事の際の戦闘能力を維持するため)。

煮えすぎて焦げ目のついたちくわやハンペンやさつま揚げを次から次へと頬張りながら、わたしは決心していた。北高へ入学し、文芸部員というものになろうと。


観測対象の涼宮ハルヒが光陽園学院に行くか、それとも北高に進学するかは、現時点ではまだ不確定のはずだ。けれども、たったいま、情報統合思念体に伝達したわたしの決心こそが、不確定な未来を確定させるはずだった。


 そう、北高の制服を、セーラー服を、夜の公園で体が砂と大気から合成された時に、わたしがすでに着ていたこととも符合する。すべては「規定事項」だったのだ。

 北高文芸部室での、ハルヒとSOS団のみんなとの出会いと、「彼」との再会まで、ちょうどあと三年。未来人を伴って時間遡行をしてきた彼の来訪を、二度にわたって受けることになる、七夕の夕べまであと二か月。

 わたし、少女の姿をした対有機生命体コンタクト用ヒューマノイド・インターフェース、長門有希の運命の歯車は、すでにどうしようもなく回り始めていたのだった。


(原作:Yuki Nagato 脳内口述筆記:アグリッパ・ゆうき)


*口述筆記者註 「我が心はハイランドにあり」の引用元は、『バーンズ詩集』(中村為治訳、岩波文庫、pp.190-191)ですが、なにぶん古い訳のため、旧字体旧仮名遣いを新字体・仮名遣いに改めるなど、最小限の修正を施してあることを、ご了承下さい。

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